「クズル・ティグル(紅い刃)」
稽古の場で、毎日幾度となく剣を交えた。
刃を合わせるたび、こちらの呼吸や癖を確かめるように、彼は静かに間合いを詰めてくる。
彼は決して同じ得物ばかりを使わなかった。
ある日は槍や棒のような長物を携え、間合いの外からこちらを追い立てる。
またある日は短剣を両手に握り、影のように足元へ潜り込んできた。
湾刀――タルワールを振るうときは、刃の曲線を生かし、風を裂くように間合いを切り刻んだ。
模擬戦の最中、彼は多くを語らない。
だが、その一挙手一投足が、こちらに問いを投げかけてくる。
時折、短く言葉を発することはあった。
「こう来たら、どうする」
それだけを言い残し、次の瞬間には刃が迫る。
だが多くの場合、教えは言葉ではなかった。
視線の置き方、剣先の角度、踏み込みのわずかな変化――
それらがすべて、
「そういう場合は、こう動け」
という無言の示唆となって迫ってくる。
応じきれずに刃を弾かれるたび、悔しさと同時に、理解が胸に落ちた。
ああ、今のはそういう意味だったのか、と。
互いに交わす言葉は、決して多くはなかった。
それでも、剣と剣がぶつかるたび、確かに会話が行われていた。
言葉よりも正確で、嘘のない対話が、そこにはあった。
――ある夜、思い切って聞いてみた。
「あんたの名前なんだが、まだ聞いていなかった。」
彼はあきれるように一瞬ぽかんとしたが、そのうち少し笑って、
「名前なんか聞いても意味ないだろう、何を今さら。」
「――いや、、、でもなんて呼べばいいのか。」
「俺のことは『師匠』と呼べと何度かいったはずだが。呼ばなかったのはそっちだろうが。」
「――いや、例えば剣の師は誰だ、とか聞かれたときに、、、、」
「そんなもん、答える必要なんかあるのか。」
――しばらく沈黙が流れる。
確かに、名前を聞こうとしたのはただのきっかけだ。知りたいのはそれじゃない。
俺は正直に気持ちを話した。
「そう、本当は名前なんかを聞きたかったわけじゃない。あんたの、――師匠のことをもっと教えてくれ。なぜこんなところに落ちてくることになったのか、その脚の傷はどうしてできたのか、、、、」
地上では雨が激しく降っているようだった。
天井から石の隙間を伝って滴る水の音が、いつもよりも早く、多かった。
「――まあ、そんなに知りたいのなら話してやる。別に減るもんでもないしな。くだらない、ありきたりな話だ。後で、聞いて損したとか言うなよ。」
そういってはじめて彼は自分の身の上を話してくれた。
彼は、もともとは小国の貴族の出だという。騎兵を率いる将を務めていたらしい。
生まれがよかった分、剣や武術を学ぶ環境には恵まれていた。
名の通った師に教えを受け、当然のように軍に入り、いくつかの戦で武功を立てて、相応の地位に就いた――そこまでは、どこにでもある話だ。
だが、彼の生まれた国は、もう存在しない。 理由も、特別なものではない。
大国の侵略に呑み込まれ、抗いきれずに滅びた。それだけだ。
彼の脚の傷は、その最後の戦で負ったものだという。
退却する部隊を逃がすため、彼は自ら囮となった。
敵の注意を引きつける中で、敵将の槍を受け、脚を貫かれたらしい。
部隊は退いた。だが、それで終わりではなかった。
彼自身は捕らえられ、捕虜となった。
逃れたはずの部隊も、やがて追撃され、例外なく駆逐されたという。
国は滅び、軍も消えた。
国がなくなれば、捕虜に価値はない。彼らはまとめて奴隷として売られた。
ただ、彼は脚を負傷していた。
重労働には向かず、労働奴隷としては値がつかなかった。
その結果、彼は剣を持たされた。生き延びるために剣を振るう場所――
地下の闘技場へと、流れ着いたのだという。
「――部下や国の連中は、それからどうなったのかは知らない。
だが、俺はまだ生きている。帰る国も場所もなく、すでに生きる意味すらもないのだがな。――ただ死にたくはなかった。皮肉なもんだ。軍にいるときは死ぬのが仕事だと思ってた。
軍が無くなった途端、守るべき国が無くなった途端、急に命が惜しくなったのさ。」
そして、この地下で剣を教えるのも、俺が初めてではなかったようだ。
どおりで、様々な得物や木剣や棒人形など、いろんなものが揃っていたはずだ。
元々そういう世話好きな性質の人間なのだろう。自ら囮となって部隊を逃がすなど、なるほどと思える。
――生きる意味をなくして、それでも生に執着したかった彼は、こんな風に誰かに剣を教えることで、細やかな生きる意味を見出していたのかもしれない。
だが、彼が教えた弟子たちも、誰一人生き残っている者はいない。
帰る国も場所もなく、生きる意味もない。――俺も同じだ。いや、同じだった。
今の俺には生きる目的がある。目的自体は何かわからないが、俺と同じ運命を持つ者を探したい。だから生きてここから出たい。
――でも、彼は何を目的に生きている?
「あんた、、、師匠は、ここから出たくないのか?」
彼はしばらく無言で、ただ俺をじっと見た。
「出たい、、、ような気もするし、出ない方がいいような気もする。」
「どういう意味だ?」
「――あまりに長く地下にいたからな、地上に出た後のことがうまく想像できないんだよ。こんなところからは誰でも早く抜け出したいに決まっている。
だが、、、」
「・・・」
「――なんか、今日は気分じゃねぇな。稽古は中止にしよう。さあ、もう帰れ。」
彼の気持ちはわからないでもない。俺だっていざここを出て、同じ運命の者とやらを見つけ出したとしても、その先に何があるのか、まるでわからない。
もしかしたらそこから本当の地獄が始まるのかもしれない。
だとしても、こんな地下の中でずっと見世物として暮らすよりも、はるかにましに違いない。ここの居心地に慣れてしまっては絶対にだめだ。
余計なことを聞いてしまったかもしれない。しかし、俺の方もここから出る算段を考えなくてはいけない。彼のような気持に堕ちてしまう前に、ここから脱出しなければならない。
自分の房で寝台に横になり、石の天井を落ちてくる雫を見ながらそう思った。
――地上ではまだ雨が降っているようだ。
そんなことを考えながら、知らぬ間に眠りについていた。
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やがて、その日が来た。
そのうちにそういう日が来ることは、ある程度覚悟はしていた。
避けられるものならば避けたかったのが正直なところだが、世の中はそう都合よくできていないことはこれまでに学んでいる。
7日に一度の死合の日。何度となく繰り返してきた。その日もいつもと変わらない。
――闘技場に立つまでは。
進行役の男が相手の名前を叫んだ。
「クズル・ティグル(紅い刃)」と。
観客席からも歓声と「クズル・ティグル!」の掛け声が響く。
眼の前に立っているのは、見慣れた顔。毎日のように会っている顔だ。
「よお。お互いこんな明るい場所で顔を合わすのは初めてだな。」
「――師匠、、、」
ここでは事前に相手が誰かなど知らされることはない。闘技場にきて始めて相手が誰かを認めることになる。驚くには驚いたが、正直想像はしなかったわけではない。
「クズル・ティグル(紅い刃)って、、、」
「俺の二つ名だ。言わなかったっけか?」
彼は長い柄の先端に湾刀のついた得物を手にしていた。
これまで何度も戦った模擬戦では一度も使っていなかった武器だった。
「気が付けばこのタルワールが血で紅く染まっている、ってことでな。軍にいたころからの通り名だ。――『刃』の二つ名はお前だけじゃないってことさ。」
「――教えてくれなかっただろうが、、、」
「さて、突然だが、今日が最後の稽古ということになった。残念ながらまだ俺の剣の極意ってやつをお前に教えていなかった。今から見せてやるから実戦の中で会得することだな。」
「相変わらずキツい指導だな。得物も初見だし、、、」
「こんなに早くなるとは少々計算が狂ったのさ。――さあ、御託はいい。紅と黒の決戦といこうじゃねぇか。」
彼がそう言い終わるとほぼ同時に進行役から開始の声が上がった。
――嫌な汗が頬を流れるのを感じた。




