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灰狼の王  作者: 葛ノ葉イナリ 


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1/11

「クズル・アイ(赤き月の夜)」

見渡す限りの大地。どこまでも続く空。

この世界には、それ以外に何も存在しないように思えた。


とりわけ夜ともなれば、漆黒の大地と、そのすべてを覆い尽くす満天の星空、

そして静寂だけが世界を支配していた。

それこそがこの世のすべて――そう思わせるほどに世界は広く、そして静かだった。


だが、その夜に限っては違っていた。

月は血のように濁り、風は熱を孕み、砂を焼いていた。

人々の悲鳴、戦士たちの怒号、建物の崩れる音、静寂はどこにもなかった。

空の星々でさえ赤く染まり、世界そのものが炎に呑まれようとしていた。


広大な砂漠のただ中、まるでこの世の中心であるかのようにそびえる巨大な城塞都市――ミルガシュ。

かつて豊穣と信仰の象徴であったそのオアシス都市は、いまや業火に包まれていた。


新興の遊牧騎馬民族――カルナト族の軍勢が城門を破り城内になだれ込んだのは、ほんの二、三刻前のことにすぎない。

街はたちまち混乱に沈んだ。逃げ惑う民衆、凌辱と殺戮、馬の嘶きと蹄の轟音が、夜を裂いて響く。

隊商の長と思しき男が、必死に荷をまとめて逃げ出そうと叫んでいた。

だが無情にも、馬も、男も、荷車さえも、突進してきた騎馬の刃に両断され、血と砂と煙の中に消えた。


城郭の北にそびえる塔は、ついに炎を上げて崩れ落ちた。

まるで道連れを求めるように、その傍らに立つ太陽神の神殿を巻き込みながら、 光とともに崩壊していった。



炎の音が、風に溶けていた。

焼けた石の匂いと血の匂いが混じり合い、夜気は鈍く重い。

崩れ落ちる塔の残骸が、時折、金属のような悲鳴を上げる。


カラ=サグは、崩れかけた街の外縁に立っていた。

黒い外套は灰にまみれ、馬の鼻先からは白い蒸気が上がっている。

眼前には、かつて“太陽の都”と呼ばれたミルガシュの廃墟。だがいまや、太陽の光は失われ、その代わりに赤い月が、血のような輝きを放っていた。


彼は無言で剣を抜いた。炎の明かりが、刃にちらつく。

その光景は美しくもあり、どこか懐かしくさえあった。

――二十年も前だったか、自らの部族が滅ぼされた夜も、同じ色の炎が空を染めていた。


「……また同じだな。」

カラ=サグは小さく呟く。 声は風に攫われ、誰の耳にも届かない。


彼の属する傭兵団:「灰の傭兵ボズ・アスカリ」は、すでにカルナト軍の前衛として突入していた。

彼は隊長でありながら、勝利にも略奪にも興味を失って久しかった。

ただ、剣を握り、生き延びるために戦う。それが彼に残された唯一の理由だった。


ふと、崩れた神殿の方から悲鳴が聞こえた。

振り向くと、火の粉の向こうに、白衣の巫女たちが逃げ惑う姿が見える。

ひとり、若い女が倒れ、兵に押さえつけられた。

カラ=サグは眉をひそめたが、動かなかった。助ける理由も、殺す理由も、彼にはなかった。


そのとき、彼の足元を血のついた白い布が風に流れてきた。

拾い上げるとそれは赤子を包む襁褓だった。中は空。だが温もりがまだ残っている。


 ――この炎の中に、赤子が?


カラ=サグは顔を上げた。

神殿の奥――崩れた瓦礫の中から、 小さな泣き声が聞こえた。

彼は馬を降り、剣を鞘に収め、ゆっくりと歩き出す。

カラ=サグの胸の奥で、何かが微かに鳴った。

それは理屈ではなく、記憶の残響。


焼け落ちた村、母の腕の温もり、そして、祖父の声。


『狼王の印を持つ者を見つけたならば、その命を試し、守れ。

それが我ら“黒鷹の民”の宿命だ。』


赤い月が、血のように滲んでいた。

炎が彼の影を伸ばした。その先に、何かがあるように彼には感じた。


神殿の奥は、すでに崩れ落ちている。 瓦礫の間からは、まだ熱を帯びた風が吹き抜け、焦げた香油の匂いと血の匂いが混ざり合っていた。

カラ=サグはその中を、ゆっくりと進んだ。


倒れた柱の影に、ひとりの宮女がいた。背には矢が突き立ち、目はすでに閉じられている。その腕の中に、赤子が抱かれていた。


小さな体。

泣き声はない。

炎の赤が頬に映り、まるで火の中から生まれたようだと思った。


カラ=サグは膝をつき、女の腕からそっと赤子を抱き上げた。

そのとき、赤子の左肩の下に刻まれた模様が、月光に反射した。


灰色狼の頭と、交差する二本の槍。


彼は息を呑んだ。  ――狼王の印。


それはすでに滅びた彼の部族「黒鷹(カル=サグリ)」に古くから伝わる伝承の印。

かつて狼王と呼ばれた神の血を引く者に刻まれる印。

そして、「黒鷹の民」は狼王を守護することを宿命づけられた部族だと。


すでに部族はなく、そのような伝承ももはや記憶の隅にもなかった。ただ生きるためだけに武器を持ち、生きるためだけに馬を駆った。目的がないから各地を放浪した。

今も目的があるわけではない。ただ金を稼ぐためだけに戦に加わった。


幼いころ、焚き火の前で祖父が語った言葉が蘇る。


『狼王は神に試される』

『神に試される証として、その片腕、片脚を欠く』

『われら「黒鷹の民」と「白蛇の民」が欠いた片腕と片脚を補う』


カラ=サグはゆっくりと剣を抜いた。一筋の汗が頬を伝った。

赤子はまだ目を閉じている。呼吸は浅い。だが確かに息づいていた。


「・・・すまない。」

彼は赤子の左腕をとり、赤い月の下で剣を振り下ろした。


血は飛び散る。赤子は声を発しない。

カラ=サグは少し眉をひそめた。


続けて右の脚を――

剣が骨を断ち、血が砂に滲む。

その瞬間、赤子の瞳が開いた。


燃えるような金の瞳だった。

まるで、炎そのものが魂になったかのように。


カラ=サグは思わず後ずさる。


気のせいかも知れない。赤子がかすかに金色の光に包まれているかのように見えた。

しばらくその場に立ち尽くした。

長い時間がたったようにも思えたが、一瞬だったかもしれない。


次の瞬間、一匹の灰色の狼が現れた。

彼は一瞬狼の姿に見蕩れたが、ふと我に返った。

「血の匂いに誘われてやってきたのか、、、?」


狼はこちらを睨むように見ている。狼の目は美しい黄金色をだった。どこかで見たような色。

しばらく見蕩れるように狼の目を見つめた、というより見入ってしまった。

狼は唸りもせず、敵意は感じない。とはいえ、やはり狼である。

もし襲ってくればただでは済まないだろう。


こんなところで狼とやりあうのも本意ではない。

彼は踵を返し、この場から逃げ出すように速足で立ち去った。


「あの赤子、狼に喰われる運命だったのか、、、」 ただ、

 ――もしこの子が生き延びるなら。


彼は何かを受け入れるように、顔をあげた。

自分では気が付かなかったが、笑顔を浮かべていたようだった。


彼は足早に自らの馬のもとに戻ると、さっさと馬を駆り、城から離れた。

その瞬間、王城は音を立てて崩れ去り、炎が王城を吞み込んだ。


彼は振り返ることもなく、ただ空を見上げていた。

赤い月が空を染め、狼の遠吠えが滅びゆく都に響き渡るのを聞いていた。



――この夜、長きにわたり草原と砂漠を支配したアフラト族の王朝はサエン=アフラト王を最後に、新興のカルナト族の若き王ハル=カルナトによって、王都ミルガシュの陥落とともに滅亡した。


 後に人はこの夜のことを「クズル・アイ(赤き月の夜)」と呼ぶようになる。

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