沈黙の手
雨の日も、
晴れの日も、
彼女の朝は五時だった。
湯を沸かし、
味噌汁をつくり、
炊飯器のボタンを押す。
もう誰も
「ありがとう」
と言わないのに、
同じ動作を毎日くり返していた。
息子は二十七歳。
工場で働きながら、家にはほとんど寄りつかない。
「母さんの世話になってるわけじゃない」
と言い残し、
洗濯済みのシャツを黙って持っていく。
寂しい、なんて言葉は彼女の辞書にはない。
若い頃に夫を亡くし、働き詰めだったせいで、
泣き方も、誰かにすがる方法も、とうに忘れた。
ただ、夜になると机の引き出しを開けて、
子どもがまだ「おかあさん」と呼んでいた頃の写真を撫でた。
あの頃の手のぬくもりを、指先がいまだに覚えている。
──見返りなんて、求めたことは一度もない。
支えることが、彼女の息だった。
ある晩、帰宅した息子が酔って玄関で転んだ。
「なんでいつも黙ってオレのことやるんだよ!しなくていいんだよ!」
怒鳴りながら泣き出す息子を、彼女はただ抱きしめた。
小さな背中を撫でた時のように。
次の朝、いつもと同じ五時に起きた。
だが、その日は少し違った。
炊飯器の蒸気に手をかざしながら、
彼女は初めて、自分の手をじっと見つめた。
皺だらけの、けれど確かに誰かを支えてきた手だった。
その手を見て、彼女は静かに笑った。
「あの子が所帯を持つまでは……もう少しだけ、がんばろうかね」
誰に聞かせるでもなく、
小さな声が朝の光に溶けていった。




