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沈黙の手

掲載日:2025/10/26



雨の日も、

晴れの日も、

彼女の朝は五時だった。



湯を沸かし、

味噌汁をつくり、

炊飯器のボタンを押す。


もう誰も

「ありがとう」

と言わないのに、

同じ動作を毎日くり返していた。


息子は二十七歳。

工場で働きながら、家にはほとんど寄りつかない。


「母さんの世話になってるわけじゃない」

と言い残し、

洗濯済みのシャツを黙って持っていく。


寂しい、なんて言葉は彼女の辞書にはない。


若い頃に夫を亡くし、働き詰めだったせいで、

泣き方も、誰かにすがる方法も、とうに忘れた。


ただ、夜になると机の引き出しを開けて、

子どもがまだ「おかあさん」と呼んでいた頃の写真を撫でた。


あの頃の手のぬくもりを、指先がいまだに覚えている。


──見返りなんて、求めたことは一度もない。

支えることが、彼女の息だった。


ある晩、帰宅した息子が酔って玄関で転んだ。

「なんでいつも黙ってオレのことやるんだよ!しなくていいんだよ!」


怒鳴りながら泣き出す息子を、彼女はただ抱きしめた。


小さな背中を撫でた時のように。


次の朝、いつもと同じ五時に起きた。

だが、その日は少し違った。


炊飯器の蒸気に手をかざしながら、

彼女は初めて、自分の手をじっと見つめた。


皺だらけの、けれど確かに誰かを支えてきた手だった。


その手を見て、彼女は静かに笑った。


「あの子が所帯を持つまでは……もう少しだけ、がんばろうかね」


誰に聞かせるでもなく、

小さな声が朝の光に溶けていった。




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