第1話 かくして、俺と彼女のカラダは入れ替わる。
六月。梅雨――。
雨音だけが鳴り響く、薄暗い校舎の階段隅で――。事件は起こった。
「痛っってぇええ!! なにしてくれとんじゃこんのボケカスめがァッ! ええかげんにしくさってからにぃッ!!」
男の怒号に満ちた声とともに、大量の唾が降り掛かる。
今日は週に一度の掃除当番の日だった。なんてことはない。当番に割り当てられた皆で行えば三十分程度で終わる軽作業。
けれども集まりは非常に悪く、この頃は俺が一人で掃除をしている。
実に六人分。時間にして三時間。
……うん。思うところはある。一人二人サボるならまだしも、俺以外の全員だからな?
とはいえたかだか三時間。それも週に一度きり。
たったそれだけのことで高校生活の平穏が守られるのであれば、黙って掃除に励むのが利口な選択――。
「サボっちゃだめだよ!」
「一緒に掃除しようよ!」
「先生。掃除をサボる社会不適合者がいます!」
などと苦言を呈すればたちまちに、非難の的になるのは目に見えているからな。
正しい行いが必ずしも正解とは限らない。
正論は時として爪弾きにされる。特に学校という狭い場所では尚の事。
委員長タイプは嫌われがちと、古くから相場は決まっているからな。
まぁ、そんなこんなで満身創痍になりながらも職務(掃除)を全うした俺は、下校のために昇降口に向かって階段を降りていたわけだが……。不運にも前方不注意な輩に後ろから突っ込まれてしまったんだ。
そのまま二人仲良く、ズッドーンと階段を転がり落ちる大惨事――。
「まじで痛ってぇな……。おんどれりゃあ舐めくさりやがってからに……ボケカスめが…………痛でぇ…………」
で、被害者であるはずの俺が『ボケカス』と呼ばれ、あまつさえ責め立てられているのだから、事件も事件。大事件ってわけだ。
べつに謝る必要はなかった。むしろひき逃げっぽく立ち去ってくれるのなら、それでよかった。
たとえ骨の一本二本折れていたとしても、構いやしないさ。
波風さえ立たなければ、それでよかったんだ。
だというのに……。なんだよ、これ……。
「こんちきしょうめがァッ! 痛でぇーッ! ボッケカスゥーッ!」
めっちゃ責め立てて来よるじゃん。
……あーもう。勘弁してくれよ。
俺はさ、とっとと家に帰ってさ。放課後ぼっち掃除を終えたご褒美に殿様風呂にザッブーンと浸かってさ。風呂上がりの棒アイスは贅沢にふたつ食べたりなんかしちゃってさ。幸せをこの胸いっぱいに感じたいんだよ。
一秒でも早く!
なんなら今すぐ!
「あー、やべぇ。まじで痛でぇよ……痛でぇ……痛でぇ……痛でぇぇええ!! やりやがったなボケカス!! おい! 聞いとんのかワレェッ!」
とはいえ状況は最悪だ。
目先の幸せ欲しさに生き急げば、今ある幸せさえもこの手からこぼれ落ちる事態にだって成りかねない。
俺には今日まで頑なに守り続けてきたものがある。三時間に及ぶ放課後ぼっち掃除に精をだすのもひとえに――。平穏なスクールライフのためだ。
今はまだ、高二の六月。卒業まで先は長い。
だからここは慎重に――。ぐったりと倒れたまま、ピクリとも動かない!
「ったく。ボケカスめが。……寝腐りやがってからにぃ! 起きろぉ!! アホンダラぁッ!!」
まだだ。起きるにはまだ早い。
もしかしたら死んでいるかもしれない。そういう恐怖に駆られてから起きるのがベストだ。
「ったく。やってらんねーよ。なんなんだよ」
ひとしきり暴言を吐いて満足したのか、痛みが引いたのか。男は落ち着いた様子を取り戻した。
「って、おまっ。ちょ?! 生きてるか?」
やれやれ。ようやくか。
よし。奴が俺の身体を揺らした瞬間が大切だ。
ゆっくりと瞳を開けて「ここは、どこ?」とかなんとか、意識が飛んでる風を装えば万事解決だ。
ちょろいぜ。
しかし、男は立ち上がると――。
フラっとよろめき、ズキッと痛さが迸ったように顔を歪ませ、そのままズドーンと尻もちをついてしまったではないか?!
「……あれ。あれれれれ。ちょ、待てよ。なんだよこれ、やべぇって。マジで痛てーってコレ……あ………痛てぇ……痛でぇよ……死ぬ。死ぬ!! じぬぅ!! 死んじまうだよ!! 痛っでぇぇええええ」
なんてことだ。こりゃおそらく足首を捻挫をしているな。
まずいな。これ以上の刺激は危険なのに、捻挫しているのかよ。
「おのれ小童が……やってくれおってからに……おんどれりゃあ……万死に値する……あぁ痛でぇ……痛でぇよぉ…………」
最悪だ。あれほどまでに威勢良く怒鳴り散らしていたから、見落としてしまった。
捻挫の可能性を――。
「許すまじ……許すまじ……許す、まじぃ! 痛でぇよぉぉ……こんちきしょうめがぁ……許すまじぃッ! 死んで詫びろやボケカスがァ!! まーじでやってくれおったな! カッスカッスボッケカスゥッ!!」
こうなってしまえばもう、俺には止められない。
『怒り』×『痛さ』
相乗効果が織り成す憤怒のバーゲンセール。
殺意が芽生えるのは必定――。
「やってくれおってからに……こんぢぎじょうめがァ!! ボッケカスめがァ!! 痛でぇええッ!! イテマウゾワレェ!!」
ついに直接的な言葉が出てしまったか。
――イテマウ。
状況が状況だ。このまま罵詈雑言を浴びるだけなら、明日の朝まででも付き合ってやるさ。
でもこいつは痛さで行動に移せないだけであって、俺をイテマくてイテマくて仕方がなくなってしまった。
痛みが引けばすぐさま、襲い掛かってくる。大量の唾とともに罵詈雑言のシャワーを浴び、そのまま床へと押し倒される――。
そしてマウントを取られ、無数の雨の如くグーパンチが降り注ぐ。
『マシーンガーンパーンチ!』
――ドドドドドドドドドドッ! オラァッ! ――オラオラ! オラァッ!――
べつに痛いだけならいいさ。それで丸く収まるのなら、甘んじてパンチの雨を受け入れよう。
だがな、問題は今後だ。
無抵抗サンドバッグは場を凌ぐだけなら最善と言えるが、こと学校においてはリスキーな選択に他ならない。
人間とは何度でも、過ちを繰り返す生き物だからな。
掃除当番をサボる屑のように、サンドバッグに味をしめれば、悲劇は何度でも繰り返される。
明日も明後日も――。
来週も再来週も――。
春夏秋冬、卒業の日まで――。
何度でも、繰り返される。何度でもだ。
ゆえに最悪の結末を秘めた無抵抗サンドバッグだけは、なんとしても回避しなければならない。
かと言ってパンチを避けたり、拳で応戦しようものなら「生意気ッ!」と、更なる悲劇の幕が開けてしまう。
――対象に殺意を芽生えさせ、標的にされた時点で詰んでいる?
…………NO。
凡人はここで諦めてしまうのだろうが、俺は違う。
己に起こるすべての事象を俯瞰的に捉え、数手先、数十手先を読んで最善を選択する男――。
放課後ぼっち掃除も事象を細かく分析、精査して導き出した答えだ。
幸いにも分析に足るだけの判断材料は出ている。
目の前のカスは、無言で殺意を増幅させるタイプではなく、罵詈雑言を糧にボルテージを高めるタイプなのが救いだったな。
「……はぁはぁはぁ。痛くて死ぬぅ……死んじまうだよぉ……オラがいったい、なにしたって言うんべさ……このボケカスめがぁ……死ねぇ……死ねぇ……社会のゴミが死に腐れぇッ!」
あぁ、間違いない。先ほどから責め立てられてはいるが、言葉のチョイスが明らかにおかしい。
てっきり加害者のポジションを放棄した愚か者だと思っていたが、こいつは自分を被害者だと思っている。
逆ギレであって、逆ギレにあらず。
なんとも奇妙な状況だが、俺には思い当たる節がある。なんなら、俺にとっては見飽きた光景と言っても過言ではない。
何故なら――。
ぶつかって来た男は言動から察するに不良。それもカースト上位種のイケイケな男子。即ち、陽キャ。
対して俺は相反する存在。
日陰に愛され、類稀なる才能『空間制御能力』を活かし、カースト最底辺で存在感を限りなくゼロにして潜む者。――自称、一級日陰師。またの名を陰キャ。
陰と陽。相反する二人が校内の廊下で衝突したのなら、たとえ陽キャの前方不注意が原因のカマ掘り事故であっても――。
取り沙汰されるは、陰キャの後方不注意。
後方不注意ってなんだよって話ではあるが、陰と陽を取り巻く環境下においては特段に珍しい話ではない。
奴らにとって陰キャとは、畑や田んぼにポツンと立つカカシ程度の存在だ。
クラスメイトであろうとも挨拶をされることはないし、同じ教室で一年間を共に過ごしても名前すら覚えてもらえないこともザラにある。
つまり――。ぶつかって初めて認識される。
ゆえに野郎にとっては『カマ掘り事故』ではなく、急に俺が現れたことで生じた『飛び出し事故』と錯覚をしているのだ。
「こんちきしょうめがァ!! あぁ……痛でぇよ……痛でぇぇ……ざっけんなー!! 死ね死ね死ね! 死に腐れ! 外道がァッ!! 地獄で懺悔しやがれ!! ぁぁぁ痛でぇぇええ」
とはいえとても、救いのある状況でよかった。
こいつは身勝手な理由で凶器を振り撒いているわけではなく、己を正当化できるだけの理由があって怒っているだけだからな。
たとえそれが勘違いだったとしても、あるのとないのとでは大違いだ。
世の中には居るからな。
凶器から産まれて来たナイフのような人間が……。
小学生の頃、隣の席のガキ大将がまさにそれだった。弱い者いじめが大好きで、弱者の泣き叫ぶ顔をおかずに白米を食うほどのやつでな。
俺は奴の逆鱗に触れないよう、最善の注意を払い続けた。年齢にして九つの頃だ。
それから中学卒業までは気の抜けない日々が続いた。
同じ町に住んでいるだけで、あんな人間と同じ学校に通わされるなんて、社会システムの欠陥と言わざるを得ない。
しかし――。人として強くなれたのも事実だ。
「痛でぇえ! どーしてこんなに痛でぇんだよぉぉおお!」
奴が居たからこそ、今の俺がある。
あの日々の中で培ったものは高校に入学した今も変わらずに、俺の中に残り続けている。
俺は――。僅か九つで学んだんだ。
理不尽とは受け入れるもので、嘆いたり立ち向かったりするものではない。
奴に楯突いた者たちは残らず凄惨で残虐な末路を遂げた。嘆くだけの者たちは、まるでロシアンルーレットのように、その日が来ないのを祈るだけ。
そしてある日。赤札が掲示される。
平穏な日陰暮らしとは願うものではなく、この手で掴み取るものだ。
俺は奴の暴力の対象にならないために、手段を選ばずあらゆる手を尽くした。
……思い出しただけでも、吐き気のするような日々だった。
結果として、俺に赤札が掲示されることはなかった。
神は乗り越えられる試練しか与えない。
それは今回も同じだ。
そして俺は――。日陰で生きる者として、ひとつ上のステージにランクアップした。
一級日陰師。
日陰を愛し、日陰を守る者!
理不尽に嘆く者に、明日の良き日陰ライフは訪れない!
今日までずっと、そうしてきた。それはこれからも変わらない!
己が信じた道を突き進み、掴み取れ!
パーフェクト日陰ライフを我が手に!
空間制御能力MAX!
固有結界オープン!
一級日陰師である俺にぶつかったのが運の尽き!
フハハハハハハハ!
さぁ、カーニバルの時間だ!
陽キャよ、俺の手のひらで踊れ!
「す、すすみません……次からは最善の注意を払いながら階段の登り降りをしますので……なにとぞ、ご容赦を……。そ、それでお身体は大丈夫ですか?」
言われのない罪を認め、誠心誠意謝る。
ただ謝るだけではない。今後の対策と再発防止の意を的確に伝える。
そして容態を心配する心も忘れない。
完璧。
一級日陰師である俺に、一切の抜かりはない!
「……あぁ?! 起きたんか、ワレェ? だったらまず、言うことがあるやろが? おぉん?」
けれども陽キャは相も変わらず頭を抱えて悶え苦しむのみ。
「だ、大丈夫ですか? 保健室行きますか? それとも救急車呼びましょうか?! 心配です……」
弱腰で、それでいて親身に寄り添う。
問われるのは姿勢だ。敵ではなく味方であることを、全身全霊をかけて示す。
「…………あ? いや、救急車っておまっ……大袈裟な奴だな……。とりあえず今は話し掛けないでくれ……あぁ痛でぇ…………」
効果テキメン。
攻撃的だった口調が和らいでいる。
ならばここは、さらに――。
「イエスマイロード。仰せのままに!」
眷属であるかのような言葉で、まくし立てる!
隣の席のガキ大将はこの言葉が大好きだったからな。
「お、おう。マイロードって……変な奴だな……」
犬は仰向けになり、自らの腹を見せて忠義を見せると言う。
人間には言葉がある。
痛い、苦しい。そんな窮地に置かれている時だからこそ、優しい言葉は戦略級ミサイルよりも効力を発揮するものだ。
言葉とはときに、最高の武器になる。
たとえそれが偽りの善に包まれていたとしても――。詐欺まがいの眷属ごっこだったとしても――。
関係ない。
「ひぃひぃふぅ。ひぃひぃふぅ……オラ病院は嫌いだ。あんなところにかつぎこまれたらお父ちゃんが心配しちまう。それだけはあかん……うぅ……痛でぇな……どうにか治まってくれんかぁ……」
ついに弱音を吐き始めたか。
被害者と加害者のポジションがあべこべになってはいるが、良い形が出来上がった。
これはもう、穏便に済む流れも確立されたと考えていいだろう。
「はぁはぁはぁ。あー……少しラクになってきたかも……ひぃひぃふぅ」
とはいえ、いやはや。そろそろ俺も我慢の限界かもしれない。身体の節々が悲鳴を上げている。
もしここで俺まで痛がれば、加害者として確立したポジションが揺るぎかねない。
「ひぃひぃふぅ。ひぃひぃふぅ……お父ちゃん、オラ病院に行ったりしないからな。でぇじょうぶだ。あぁ、痛でぇ……でぇじょうぶでぇじょうぶ」
場をお開きにするにはまだ時間が掛かりそうだな。
仕方ない。……あれをやるか。
秘技。日陰道が伝承四節、第五項――。
感情コントロールの『儀』を発動する!
スゥーっと深呼吸。『痛い』という感情を殺せば、大抵の痛みは感じなくなるものだ。
とはいえ感情を殺すとは即ち、思考を停止させるに等しいこと。
やり過ぎは廃人化リスクを高めるから乱発は厳禁だ。
心なき者に、明日の良き日陰ライフは訪れないからな!
「はぁはぁはぁ……だいぶラクになってきたかも。あと少ししたら、いくべさ」
しかし――。
深呼吸を続けると、何故かお股にもスゥーと涼しさを感じた。
高校に通い始めて一年と二ヶ月。
何度も登り降りをした階段隅で感じるにはありえない涼しさだった。それになんだかとっても、お股が心許ない。
まるでズボンを履いていないような、おパンツが野晒しにされているかのような卑猥感。
待て。待て待て待て。これって、まさか……?
いや。もうそうとしか思えない。お股がスゥスゥするこの感じは……。
――ズボンを履いていない。
階段を転がり落ちた際に脱げてしまったんだ。しかも半脱げ系のお茶目な感じではなく、完全に下半身と袂を分かれている。
おパンツとおズボンが今生のお別れをお果たしているぅぅぅ?!?!
……あぁ。そんな感じのおパンツ野晒しスゥスゥ感。
………………………。
………………………。
って!! 分析している場合か!!
すぐさまハッとしてバサッと己の下半身に視線を落とすと、分析結果とは異なる世にも恐ろしい光景が飛び込んで来た。
「っっッ?!?!?!?!?!」
な、なんじゃこりゃあっ?!
信じられない。けれども俺の瞳には確実に映っている。
じょ、じょ、女子のスカート履いてるぅっ?!
一級日陰師である俺が女子のスカートを?! 履いちゃってるぅぅう?!
しかし事はそれだけではなかった。
ブレザーも女子の物を着ているではないか。ご丁寧に首元にはリボンまでをもぶら下げている不始末。
なんで? えっ。どうして?! はぁあ??
……お、落ち着け。考えろ。
俺は一級日陰師。己に起こるすべての事象を俯瞰的に捉え、最善を尽くす男!
思い出せ。……思い出すんだ!
……そうだ。教室の掃除を始める前にジャージに着替えた。そして掃除を終えて再度、制服に着替えた。
うん。着替えた。ちゃんと着替えたぞ。
汚れちゃったからね。そりゃ着替えるさ!
………………………………………。
……………………………。
……………。
でもぉっ! 俺が着替えたのは女子の制服ぅっ!
無意識の極致キターッ!
確かにクタクタだった。疲れきっていた。思考回路のすべてが『疲れた』で埋まっていた。でもだからって、こんな間抜けが存在するのかよ?!
あぁ存在するんだよ! 俺だよ、俺! オレ!オレ!オレオレオレオレェッ!!
今! 女子の制服を着ているのが確たる証拠ぉっ!!
…………………。
はい。やってしまいました。
試合終了でございます。
「ひぃふぅ。ひぃふぅ。ひぃひぃふぅ……」
いや、まだだ。この場をやり過ごしさえすれば助かる道はある!
俺は一級日陰師。幾度となくピンチを乗り越えて来た男! 三時間に及ぶ放課後ぼっち掃除を屁ともしない屈強な精神の男!
こんなところでは終われない!!
幸いにも日は暮れていて薄暗い。加えて男は痛さに夢中で、ここまで俺を凝視した様子はない。
つまり、顔はまだ――。割れていない!
だったら……。逃げちゃえ!
逃げちゃえ逃げちゃえ!
もうそれっきゃないっしょ!
そうと決まればトイレに直行だ。カバンの中にはジャージが入っているはず。着替えさえ済ませればとりあえずの危機は脱出される。
あとのことはそれから考えよう。
誰の制服で何処に戻せばいいのか。問題は山積みだが今を乗り越えた者にのみ与えられる、贅沢な悩みだ。
「……はぁはぁ。痛さが和らいできたかも」
とにかく急げ。誰かに今の姿を見られたら高校生活が終わるどころか、法的裁きを受けたあとに社会的に死ぬ!
いよしっ!
意を決し、スタートを切った――。その時ッ?!
「お、おいお前……。ちょっと、顔……よく見せてみぃよ?」
痛さに夢中だったはずの男の両手が、俺の手首をガッシリと掴んでいた。
あ。万事休す――。
そのまま秒で引っ張られ、あっという間に顔をのぞき込まれてしまった。
oh……ナンテコッタパンナコッタ。ジーザス……クライシスト……。
父さん母さん。天国のお爺ちゃん、お婆ちゃん。ご先祖様々。俺はこの先、全校生徒の笑いもの。未来永劫校内で語り継がれる変態になります。
ハイ。ネット全盛期。社会的にも死にます。
「……ありえないだろって。なにがいったい、どうなってんの?」
ハイ。おっしゃる通り。
文化祭の催しでもなしに、たったひとりで女子の制服を着て廊下を歩く男子生徒なんて、存在してはなりません。
……はい。詰みました。
あはははは。こうなったらもう、行くべき場所はひとつしかない。職員室に連れて行かれるフリをして、そのままスタートを切ろう。
顔は完全に見られたし、走るしかないさ。走って走って走って――。
行けるところまで行こう。
俺は一級日陰師だ。その名に恥じぬ最後を迎えようではないか。
願わくば、来世はケモミミ美少女と送るスローライフを所望する。
もうこんな世界はいやだ。二度とごめん被る。
サヨナラ、世界。
サヨナラ、オレ。
けれども職員室に連れて行かれる様子はなく――。
「…………もしかして」
男はボソッと言うと、急にベルトを緩めて唐突に?! 社会の窓をフルオープン?! そして自らのパンツの中に手を…………つつつ、突っ込んだ?!
「……なにこれ。どうして……こんなん……こんなん……」
な、な、な、ななっ?!
おいおいおいおい! ここにきてまさかの急展開?! もうだめだ。終わったと思っていた。
でも! 目の前に居る男もまた、変態さん?!
これってひょっとしてもしかして! 形は違えど同じ穴の狢? 変態と変態が交差しているだけ?!
あぁ、そうだよ。さっきまで確かに『変態』と『不良』だった。
でも今は! 恥ずかしげもなく堂々とパンツの中に手を突っ込む変態野郎! 即ちナカーマ!
……あははっ。こいつ、落ちてきた! この不良、俺と同じステージまで落ちて来やがった!!
これからなにが起こるのかはわからない。けれども目の前の不良は、女子の制服を着ている俺を前にして、衝動に駆られた!
ズボンの中に手を突っ込んだぁっ!
あぁ世界は広い。
そして美しい!
俺の平穏な日常は今、守られた!!
「こんなのおかしいって。やだやだ。ありえない……なんなのこれ……やだやだ……やだぁ……」
いやはや。自らの股間をまさぐりながら恥ずかしげもなく覗き込んでいる。しかも急に口調が女々しくなりやがった。
ははーん。
そうか貴様、受けだな?
不良のくせして、受けなんだな?
よろしい!! あるよ! あるある! 言ってしまえば王道パターン!
「えっと、あの……。そんなところに手を突っ込んで、ナニをしているんですか?」
愚かな状況を的確に伝え、羞恥心を引き出す。
「なにって、お前……ちんちんだよ?! ここに、ちんちんがあるんだよ?! わかってんのか? ちんちんが、あるんだよ?!?! ちんちんなんだよ!!」
何言ってんだこいつ。
それにしてもなんだろうか。この男。
口調的に不良だとばかり思っていたが、よくみるとお粗末で弱々しい外見をしている。
なんだか俺でも勝ててしまいそうな軟弱感。
もういっそ、ド突いて力と拳でカタを付けるか?
突然に自らのパンツの中に手を突っ込み、あまつさえ堂々とまさぐりながらちんちんと連呼する変態さんだ。後ろめたさで言えば互角かそれ以上。
あぁもう、それっきゃない!
ここから先は強いほうが主導権を握る!
こんな軟弱者に負けるほど、一級日陰師の俺は弱くないんだぜ!
みせてやるよ。一級日陰師の実力ってやつを!!
「おおお、お、おおっおおおおおおいっ!」
精一杯に声を振り絞り、虚勢を張ってみる。すると男は唖然とした顔で俺を見つめてきた。
「ねぇあのさ、この顔見てなにか思わない? お前に瓜ふたつだったりしないか? どうなんだ?」
なにを言っているんだ? こんな腑抜けた軟弱者の男が一級日陰師である俺と瓜ふたつだって?
冗談じゃない。
目元は前髪で隠れていて、タッパもない。加えて肉付きもなければヒョロっとしている。
まったく。誰だよこいつ。とは思うも見覚えがあるような気がしなくもない。それも毎朝どこかで見掛けているような親近感すらある。
駅のホーム? バス停? いや、違う。もっと身近でこいつを見ている気がする。
目が覚めて、わりかしすぐに。
………………………………。
………………………………。
あぁ。そっか! 朝の洗面台だ。こいつは我が家の洗面台の鏡に映りし軟弱者!!
この情けない面! 知ってるぞ!
いつだって眠気眼で真正面から目を合わせてくる、超絶軟弱者!!
……………………………って。それ、俺じゃん?!
どういうことだ?
生き別れの双子?
それともドッペルゲンガー?
「おい? どうなんだよ? ちんたらしてねぇでさっさと答えろ!!」
ひぃっ! 見た目は俺にクリソツでも心は別人。不良だ。こいつは紛れもなく陽なる世界の住人……。
「は、はい……。瓜ふたつです。寸分違わず、僕にそっくりだと思います……」
「そっかそっか。やっぱりな。そういう感じなわけだ。だってお前、わたしにそっくりだし」
わたし? 今こいつ、わたしって言ったのか? 不良のくせして『俺』ではなく『わたし』とな? しかも紳士的な『わたし』呼びではなく、どこか女っぽさを感じる言い方だった。
やはり、受けなのか?
いや、そうじゃない。そんなことはもう、この場においてはどうでもいい!
「生き別れの双子とか、ですかね?」
俺たちは兄弟。どちらが兄で、どちらが弟なのか。焦点はもはやここに限定される。
主導権を握るのはアニーだ。
ならば俺はアニーにならなければいけない。
「ああ? 双子? 身体が入れ替わっちゃってるってことだが? ちんちんついてるし、目の前にわたしがいるし、もうそうとしか思えないわけだが?」
な、なにを言い出しているんだ? そんな馬鹿なことが?!
ってことは俺のちんちんは……。まさかな?! ちんちんあるよな?
ないわけないよな、ちんちん?!
恐る恐るスカートの端をつまみ、めくろうとすると――。
「やめい! 見たら殺すぞ?」
……ハッとして、胸元の違和感に気づく。
なんかこう、締め付けられているような圧迫感。
まさか俺は、ブラジャーをつけているのか?
でも重みはまったく感じられない。膨らみは……ない?!
「揉むな! 本気で殺すぞ?」
ひぃっ。揉んでないでしょう? 揉めるほどないでしょう?
ああもう……なにがなんだかわからない。身体が入れ替わっちゃってるとか、まるでファンタジー。
でも今、一番に考えるべきはそこではない。
俺は一級日陰師。いつだって俯瞰的に物事を捉え、最善を選択する男――。
心の中で大警報が鳴っている。緊急事態とウネリをあげている……。
慈悲の欠片もない、凄惨で無慈悲な現実を突きつけられている――。
入れ替わり相手は、一軍女子様。それも言動や口調から察するに――。百獣の王『ギャル』
校内における発言力は学年主任をゆうに超え、時には生活指導の体育教師をも凌駕する。
男子を短いスカートと、ひけらかしたワイシャツの第二ボタンで意のままに操る魔術師。校内に君臨せし、稀代の魔女。
スクールカースト。絶対的王者、百獣の王『ギャル』!
ひぇっ。やばいまずい! まずいまずいやばい! ギャルはまずい!! ギャルだけはダメだ!!
いまさっき軟弱者だと誤解して「おいっ」とか言っちゃったじゃんか……。
どどど、どーしよう……。
俺、ギャル様に楯突いちゃったんだ。
ぁゎぁゎ……ぁゎゎ………………………………。
日陰師として生きていくためには、絶対に歯向かってはいけない者たちがいる。
古今東西。古の彼方より伝えられし、世界最強の種族『ギャル』――。
彼女らの逆鱗に触れた先では、平穏なスクールライフなど送れるはずもないのだ。
って、思ってたけど……今の俺ってば――――。
世界最強の種族、百獣の王『ギャル』じゃんよぉ!!
殺すだなんだ言ってるお前は世界最弱種族の陰キャ! 俺のガワ被って言うセリフじゃないんだよな~! ざーんねぇんでしたぁー! ちっとも恐くないっての!
もう、怯えるだけの毎日とはサヨナラだ!
このときの俺は疑いもしなかった。
百獣の王のカラダを手に入れて、これから始まる人生未体験ゾーン。カースト上位ライフに心を躍らせていた――。
だからまさかにも思っていなかった。……彼女はギャルなどではなく、むしろ相反する存在。陰キャ系女子だなんて微塵も思っていなかったんだ。
そう。
このときの俺はまだ、知らない――。
その姿は仮初で、単なる地味偽装。ファッション陰キャ系地味子であるなんて、予想だにすらしていない。
そして真の姿は――。大人気JKアイドルユニット『Colors⁴』の儚き無口担当。音止アリスであることを知るのは、もう少し先の話――。
これは――。
一級陰キャ師である、俺こと暮葉 隠人が、お口にチャックをして無口キャラを演じている間に、様々な百合展開に巻き込まれる物語――。
お、お、女の子同士でそんなこと、らめぇぇぇぇえええええ!!!!?