美学と悲壮
美学と理想について考えたくて始めた連載だったけれど、美しさについて考えるほどに、自分の醜さを自覚するだけの結果に終わった。
自分の深淵を覗いた私が目にしたのは、醜い自分自身が私を見つめ返している姿だった。
私の心は醜い。
ここに書き残すことが憚られるほどに。
だからもうこれ以上記すのはやめようと思う。
他人の気分を害するだけだから。
悲しくなるほど、私の心は醜く、薄汚れている。
だからこそ美しいものを求めるのかもしれない。
美しさというものは、自分とは対極にある存在だから。
この醜い私が、自らを律し、知性を高め、品格を得られれば、少しでも美しさに近づけるのではないか。
そんな僅かな可能性にすがって、美しさについて思いを馳せてみた。
それでも私の心は醜い。
その事実は変わらない。
どんなに足掻いても、醜い本質を変えることはできない。
私にできるのは、せいぜい美しい作り物の殻を被って、人を騙すことだけだ。
所詮、蛾は蝶にはなれない。
それでも救いとなるような、こんな言葉を目にした。
――この悲壮なる人が、自分の悲壮ぶりに飽きたなら、そのとき初めてその人の美が生まれるだろう――
己の醜さを見つめ続けたその先に、私の美しさは生まれてくれるだろうか。
どこまでもどこまでも、自分自身の醜さを見つめ続け、あまりの醜さに絶望し、それでも向き合い続けたその悲壮の先に。
もし美しさが生まれるのなら。
その悲壮を耐え忍んでみようと思う。