生きること
殺生についてのテーマです。
心が繊細な方は気分を害する恐れがありますのでご注意ください。
生きることって、そもそもが綺麗ではない。
生きていくためには、別の生きている何かを殺して、食っていかなければ生きていけないからだ。
自分が生きているうちは、自分のために殺されていく命がある。
自分が手を下さないから気づかないかもしれないけれど、私たちが食している食べ物たちの生きる環境は劣悪だ。
某世界的ファーストフードの白身魚を調達する映像をYouTubeで見たけれど、海の中では大虐殺が日々行われている。
不運にも巻き込まれてしまった使えない魚たちは殺され損だ。ゴミとして捨てられている。
人間が殺し尽くしたせいで、ホキは絶滅しかかっているらしい。
殺されたホキのうち、ちゃんと食べ物として食われた割合と、食われず捨てられた割合はどちらが多いのだろうか。
絶滅寸前まで殺されているのに、食われるよりもゴミにされた方が多いのだったら、人間の愚かさに笑ってしまう。
食糧難が聞いて呆れるじゃないか。
たくさんの生き物の命が、人間のエゴで毎日無駄に殺され、文字通り無駄に毎日捨てられている。
自分が殺されて食われるという体験は、したとしても、そのときにはすでに死んでいるわけだから、残念ながら学びにはつながらない。
仮に生きながら食われる体験をしたとして、おそらく痛みと恐怖で、学びどころではないだろうと思われる。
だからまず物心がついた頃にでも、自分で殺した生き物の肉を、自分でバラして食ってみればいいと思う。
私たちの身体は、生き物たちの血肉から作られていると思い知ることができる。
私たちの足元には、たくさんの屍があるのだと思い知ることができる。
何よりも食育になると思う。
食べ物のありがたみがわかるだろう。
なぜ『いただきます』と言うのかが理解できるはずだ。
今自分が食ったのは、命だ。
自分が生きるために、殺して奪い取った命だ。
私たちはたくさんの生き物の命を犠牲にして生きている。
そのことをかわいそうだとも思わない。
それが当然だと思っている。
そもそも、それが命だったものだとは思っていない。
汚いものは、きれいに隠されてしまっているから。
それが命あるものだったとは思わないように。
きれいに着飾られた、きれいな食べ物を私たちは口にする。
自分の代わりに、誰かが殺してくれた命を、手を汚さずに食べて生きている。
人間は食物連鎖の頂点に立ち、自然の円環から外れてしまった存在だ。
だから別の生き物に捕食されることはない。(最近は熊が人を食うようになってきたみたいだけど)
だから、食われる側のことなんて想像ができないのだろう。
そんなことないのに。
人間は人間を殺す。
人間は人間を食い物にする。
弱いやつは強いやつに食われる。
自然の摂理ってやつだ。
でもそれは生き物としては当然のこと。
醜いことでもなんでもない。
だって、生きること自体が、綺麗でもなんでもないことなのだから。