他罰と自罰
世の中には他罰型人間と自罰型人間がいる。
他罰型人間はすぐ見つかる。
ヤフコメに書き込んでる手合いだ。
どこかのエッセイにも書いたけれど、ヤフコメを見て時間を無駄にするほど罪なことはないと思う。
他罰思考の人間は、他罰に走ることで自分の問題から目を背けている。
自分の問題と向き合いたくないから、他人を責めることで自分の問題から逃げている。
そんな人たちの吐き出す言葉を見ていると、その人たちの心の汚さが目から入ってきて自分の心まで汚されていくように感じる。
汚れた心はウィルス同様、人に感染すると私は思っている。
私にとってYahooニュースのコメント欄は美しさから程遠い場所に位置づけられる。
じゃあ見るなよと言われればそれまでだが、怖いもの見たさというか、醜いもの見たさというか、たまに見に行ってしまう。
そして醜い文字の集合体を目にして自己嫌悪に陥る。こんなことに時間を浪費するんじゃなかったと。
つまりそういう時の自分は、他罰思考に偏っていて、自分よりも醜い人の思考を目にすることで、自分の醜さから目を背けようとしているわけだ。
非常に醜い思考である。反省しよう。
では反対に自罰思考は醜くないのかと言われれば、そういうわけでもない。
『地獄はここにある』そう言って己の頭を指差した登場人物が出てくる小説がある。
彼の名はアレックスという。敬虔なクリスチャンだが、ウェットワークを生業にする人物だった。
クリスチャンが殺人をしても良いのか今急に疑問に思ったが、アメリカという国は正義のために人を殺すことが認められる国だから、きっとアメリカの正義のために行われる殺人であれば神は許してくれるのだろう。
得てして宗教というものは人間にとって都合よく解釈されるものなのである。だって宗教は人間が作り出したものなのだから。
自罰思考の人間の頭は、常に地獄と同居している。
自分を責めることで、外在的な問題解決から目を背けている。
地獄へ逃げていると言い換えることもできるかもしれない。
アレックスの神はアレックスが殺人を続けることを許し給うたが、アレックスの頭の中にある地獄は、彼を許さなかった。
そもそも地獄とは、仏教の考え方だと思っていた。キリスト教の地獄ってどんなところだろう。そんなことが気になった。
仏式の地獄とどう違うのかと思って調べてみる。
キリスト教の地獄には階層がある。
ゲヘナとハデスと煉獄があるそうだ。
仏式地獄と似ているのはゲヘナだろう。
やはり人間の集合的無意識下にある地獄のイメージはどんな人種も共通なのかもしれない。そのことを知れて、どこか安心する自分がいる。連帯意識だろうか。
どんな人間にも地獄は存在する。
終わらない苦しみ。
永遠の責め苦。
それを恐れる心理は、きっとどんな人の頭の中にも眠っているのかもしれない。
自罰の苦しさに耐えられなくなると、人は他罰に移行する。
おそらく人間の心が持つ防衛本能の一つなのかもしれない。
自分一人で抱えられなくなった苦しみを、誰かにお裾分けしたくなるのかもしれない。
こんな迷惑なお裾分けもないだろう。
自罰が極まるのも、美しくないね。
どのバランスが最も人間の精神を美しくさせるのだろう。
罪と罰の最も美しい黄金律。
でも、かといって自罰とも他罰とも無縁の人間を目にしたら、それはそれで美しくはない。
罪のない(と思っている)人間ほど、薄っぺらいものはない。
罪に苛まれる苦しみは、人をより美しくするための糧だと私は思っている。