美しい精神
美しい精神ってなんだろう。
人それぞれに解があるとは思うけれど、私の場合は、感情的にならないことに美を感じる。
かといって理性的なものを美しいと感じるかと言うとそうでもない。
秩序や整合性のあるものにある種の美しさが存在することはある。
しかしあまりにも秩序がすぎる(そういう表現はおかしいが)精神を持つ人は、やはり美しさに欠けるように思う。
『感情的にならない自分に安心感を覚える』
このフレーズは、昔所属していたカウンセリング学会で使用されていたチェックシートに出てくる文言だ。
私は毎回必ずここにチェックがつく。
自己解離指数に影響する質問である。
他にもたしか関連の高いチェック項目があった気がするけれど、もう忘れてしまった。
今やってもやっぱりチェックをつけてしまうだろう。
これをチェックすると解離の点数が増えるから面倒だと分かっていても、やっぱりチェックしてしまう。
私が嘘をつけない純粋無垢な人間だということも要因の一つであるとは思うけれど、これはもう、私にとって避けることができないテーマだからなのだと思うことにしている。
ストレスがかかると解離してしまう。
おそらく思春期の頃にはすでにそうだったと思う。
自分の感情処理が追いつかなくなって、自分の中から切り離してしまう。
そんな感情が自分に起きていると自覚することを放棄してしまう。
そんな感情なんか、元から持ってなかったとでもいうように。
解離しているときは、感情的にならずに済む。
しかし解離が美しいかと言われたら、美しいとは言えない。
どちらかというと痛々しくて見るに耐えない。
見るに耐えないということは醜いと言い換えることもできる。美の対義語だ。
解離している自分を客観的に評すると、そんな言葉が出てくる。
自分のことなのに、他人事のようにそう思えてしまうことがすでに解離の証明なのかもしれない。
理想とする美しい精神。
自分の理想像として思い描いたのは空手だ。
寸止めじゃなくてフルコンの方。
あの人たちは本当にすごい。
打たれ強さ。
そこに空手の真髄があると思う。
その美しさに言葉も出ない。
自分の感情や精神に、あの人たちのような打たれ強さを持つことができたらいいのに――。
相手が与えてくる痛みを真正面から受け止めて動じない精神。
揺るがない心、すなわち不動心。
そんな精神が、私はとても美しいと思う。