終わりと始まりの狭間の話
家に迷い込んだ一匹の蜘蛛により、人生の歯車が狂わされながらも、最善を探した女性のお話。
「ぎゃーーっ!!」
キッチンに立って夕飯の準備をしていた私の耳に、けたたましい金切り声が聞こえた。
「くくっ、蜘蛛蜘蛛っ! そこにいるーっ!」
蜘蛛嫌いの長男の指差す先を見ると、ゴルフボールほどの大きな蜘蛛がリビングの壁に張り付いていた。
普段、米粒サイズの蜘蛛にさえ忌避を示すような長男ではあるから、これ程のサイズともなれば大騒ぎするのも分かるというものである。正直に言えば、蜘蛛嫌いでない私ですら、顔が引きつりそうなレベルだ。
「僕に任せて!」
勇気を奮い立たせた次男が、下敷きを片手にへっぴり腰で近づいているが、ササッと壁を移動する蜘蛛に、長男次男揃って大騒ぎする始末……。
そこに三男も加わって男子三人がわーきゃーするのを横目に、私は資源ゴミ袋に捨てられていた適当なプラスチックの容器を手に持ち、静かに蜘蛛に近づくとカポッっと容器を被せて捕獲する。そして、次男から受け取った下敷きを、容器と壁のスキマに差し込めば完全捕獲成功だ。
そこまでの終えると、私が何かを言う前に意図を察した次男が、すぐさま走って大きく窓を開けた。流石は気遣い上手な次男である。
下敷きと容器が離れてしまわないように気を付けながら、大きく開いた窓からポイッと蜘蛛を外に捨てれば私の仕事は完了だ。
「いやマジで助かったー。今の大きさヤバいって」
「流石お母さん。僕も頑張ったけどあの大きさは無理でした」
「本当にめっちゃ大きかったよね」
長男次男三男から感想と感謝を受けながら、私は夕飯作りの続きをすべくキッチンへと戻った。
それにしても、小さな蜘蛛はちょこちょこ見るけど、あんな大物どこから入り込んだんだろう……?
その理由が判明したのは、後日の事だった。
「──?」
あれ、なんで私リビングにいるんだろう? 見覚えのある家具と配置で、薄暗い室内が家のリビングだというのは分かる。でも、明かりの点いていないリビングに一人で佇んでいる理由はさっぱり不明だった。
「ぼうっと突っ立っていないで、座ったらどう?」
突然かけられた声の方へ顔を向けると、リビングのソファに気怠そうに腰掛ける女性──ぼんやりと彼女自身が光を放っているかのように見える黒髪黒瞳の女性が一人。色合いこそ日本人の特徴だけれど、その女性の顔立ちは、生まれて今まで見た中で一番美しいと言い切ってしまえるほど、感嘆溢れる美しさだった。
「あら、殊勝な心がけね」
まるで心の内を見透かしたような返答に、ドキリと私の心臓が跳ねた。
──あかーん、これはいわゆる超常的存在ってやつでは? オカルトに遭遇するなんて、私の人生何処行くねん。
混乱のあまりエセ関西弁で脳内ツッコミを入れながら、私は女性の言葉に従うように粛々と女性の向こう正面の床へと正座した。
「ええと……はじめまして。貴方はどの様なお方なのでしょうか?」
私の問いかけに泰然と女性が首を傾け、艷やかな黒髪がサラリと溢れる。
「闇であり無であり夜そのもの。黒と呼ばれることもあるわ」
「なるほど、その様な御仁が一体私に何の御用でしょう」
「特段の用ではないけれど、私の眷属が迷い込んだみたいだから覗いてみただけよ」
目の前の女性の眷属という言葉に、先日家に現れた大きな蜘蛛のことだろうかと当たりをつける。俗に言う鶴の恩返し的なモノなのかな……?
「違うわ」
またもや私の思考に対して女性が返事をした。
「眷属が渡った、だから来た。まあ、人の言葉でいう合縁奇縁というやつかしら。貴方が眷属を外に追い出した事が理由ではないわ」
……意味が今ひとつ分からないけれど、偶然迷い込んだ蜘蛛が縁となって、この人が来たということだろうか?
というか、この人からしたら追い出した事になるのね。その感覚でいけば、恩返しだろうかと思った私の考えは傲慢にしか見えないわけで……。
しでかした可能性に思い至った私は、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
そんな私の心の内も全てお見通しの女性は、とてもとても美しい笑みでにっこりと微笑んだ。
「それについては何の感情もないわ。とはいえ、運良く引き当てた縁ですもの。せっかくだから何か一つ貴方の願いを叶えてあげるわ」
「…………へ?」
変な声が私の口から漏れた。血の気が引いた所に真逆の提案が飛び込んできて、軽く混乱する。でもそれは一瞬だけで、まるで手のひらで踊らされているような、なんとも言えない薄ら寒さが私の頭を冷静にしていく。
──これ、間違いなく受けちゃ駄目な提案だよね。よくある望みの代償に寿命とか幸せとか色々と失うやつ。
「貴方から何かを奪うものではないわ」
「タダより高いものはないのですよ。それに、私からではないということは、私の家族や私の周りの人からという意味では……?」
「貴方の家族や、貴方の関わりある人から奪ったりもしない、ただの気まぐれよ」
その気まぐれが、悪意でも好意でもないことが怖いんですよ。私は女性の機嫌を損ねないよう、ことさら丁重にお断りさせてもらう。
「温情、恐悦至極ですが、次の縁にて私への温情分も下賜いただけたらと思います」
「存外思慮深い人間ね、ますます気が向いたわ。貴方が決められないのであれば、私が幸を選んであげてもいいのだけれど」
──あかーん! 生まれて初めて経験する押し売りセールスがこれかいっ!
再びひとりツッコミを入れながら、切羽詰まった私は頭をフル回転させる。どんな願いであれば害なく益になるだろうか……。
「あー……、そういえば叶えて欲しい願いがあったのを思い出しました」
弧を描く唇で「どんなお願いかしら?」と呟くと、女性は黒曜石のような瞳を興味深げに細めた。
「もし可能であれば、家の傾きを直していただけますでしょうか」
「家……の傾き?」
「ええ、そうです」
訝しがる女性に頷きを返しながら、私はお願いについての説明を始めた。
話しはおよそ半年前に遡る。以前からビー玉等の丸いオモチャが微妙に転がるなぁと思っていたのだけれど、なんと実は家自体が傾いている事が原因だということに気付いたのが、ほんの半年前のことだった。
急いで家を建てた施工業者に連絡して、すぐさま調査をしてもらったのだけれど、結果は予想通り家が少し傾いているとの事。
修繕依頼をお願いしたところ、築十年以上経つ我が家は家の保証期間なるものが過ぎていて、修理するなら全額自己負担になる上、受け取った見積もり書には巨額の費用──もう少し加算すれば家の建て替えが出来てしまう程の金額が書いてあった。
家のローンがまだ残っている私達夫婦からしたら、値引きも一部費用の負担もしてもらえないとなれば、諦めて泣き寝入りを選択するしかない。
幸いにして身体に不調をきたすような傾きではなかったけれど、大きな地震が来た時にはあるいは……と頭の片隅に小さなトゲのような不安が残っていたのも事実。
それを直してもらえると言うのであれば、私としては飛び上がるほど嬉しいことなのだと、女性へ滔々と伝えた。
この願いなら、あまりに些末過ぎず、自分の力では対応困難で、超常的存在にはピッタリの願いだよね。
「良く分からないわ。わざわざ家の傾きを直さなくても、巨万の富を望んで他所へ移り住めば解決ではなくて?」
心底不思議だと言わんばかりに、頬に手を当てながら女性が小さな顔を傾ける。
「過ぎたるを望むは身の破滅というやつです。私からしたら、これでも自分では解決不能な大きな願いだと思っているくらいなのですから。もし、傾きを直すという些末な作業が、貴方が持つであろう力に釣り合わないというのであれば、元々諦めていたことですから、私の願いは捨て置いてもらっても問題ありません」
「……願いを叶えると口にした以上、例えそれが家の傾きを直すという小さな願いだとしても、願いは叶えるわ」
溜息をつきながらの呆れ気味の女性の言葉に、私はパッと顔色を明るくした。
家の傾きを直すことが小さな事だとは、頼もしいばかりである。
「ありがとうございます! 心から感謝申し上げます。あっ、傾いているのは我が家だけのようですので、修繕の際には他に影響が出ないようにお願いできたらと思います」
我が家の傾きが直っても、お隣近所に影響が出てしまっては元も子もないからね。
「ついでに、傾くような家を建てた者に報いを受けさせておけばいいかしら」
「っ!! いえいえ、それは本当に必要ないです!」
私は『本当』に力を込めながら慌てて女性を止める。
「そう? 貴方も恨んでいるのではなくて?」
「調べてもらった結果は、施工途中での不備ではなく、偶発的な地層の影響のようなので、そこまでの恨みは抱えていないです」
穏便な落とし所が見つかったのに、ついでの一言で、物騒な望みを追加するのは本当に止めてほしい……。
「あー、追加で何かをされたいのであれば、傾きが直ったことは私以外の人には分からないようにしてもらう事はできますでしょうか。傾きが急に解消されたとなれば、家族もご近所さんも不思議に思うことでしょうから……。時間の経過と共に隠蔽が徐々に解除されれば、言うことなしです」
私は、どうかこれで手打ちにしてくださいと言わんばかりに、手を合わせて彼女を拝む。少しの間、女性は物足りなさそうな不満顔を覗かせていたけれど、必死に頼み込むと最終的には不承不承ながら頷いてくれた。
「本当に変わった人間ね」と呟きながら唇で弧を描く女性は、同性ながら見惚れるほど美しかった。
翌朝、私はいつも通り普通に布団で目覚める。風変わりな夢でも見たものだと思いつつ、三男を保育園へ送るために外へ出て我が家を振り返った私は、世の中の不思議を改めて実感したのだった。
「──?」
気が付くと、何もない真っ白の空間に私は居た。仕事中にクラリと目眩を感じたと思ったらいきなりこんな空間にいて、しかも眼の前にはズルズルとした衣装を身に纏う真っ白なおじさんが一人。
つい二週間ほど前に奇怪な経験したばかりの私だったけれど、今回は状況が大きく異なる。昨今では経験したこともない強い怒りを初っ端から向けられていて、私は途方に暮れていた。
状況的に、この前と同じ超常的な存在なのは間違いないのだけれど……。白いおじさんは、強欲だの、考えなしだの、理を捻じ曲げているだの、酷いお冠具合である。相手を刺激しないように大人しく怒りを甘受していたのだけれど、償わせるなどと物騒な単語が飛び出したところで、一気に危機感が強まった。慌てて説明を求めてみるものの、全くもって白いおじさんは聞く耳を持たない。
このままだと不味いことになりそうな不穏な気配を察知した私は、何とか落ち着かせる算段を巡らせて──
──パァンッ
思った以上に大きな音が白い空間に響き渡る。強く張り手をかました頬はジンジンと痛いけれど、これで相手が落ち着いてくれるなら儲けものだ。
「其方は、何をしておる……」
呆気にとられた白いおじさんは、まさに白い目で私を見た。
「意識を向けていただいて光栄です。お心は重々承知したのですが、少しばかり私の話を聞いていただけないでしょうか」
「うむ……」
突然、自分自身で両頬をぶっ叩くという奇行に毒気を抜かれたのか、白いおじさんは多少は私の話に耳を傾けてくれるようになったみたい。
「立ち話もなんですし、ひとまず座ってもいいでしょうか?」
「ああ」
返事を待って床に座ろうとすると、何もない空間に二脚の椅子が出現した。この場合は、白いおじさんが出してくれたのかな……?
お礼を言いながら椅子に座ると、全てを見透かすような白い瞳が、私の一挙手一投足に視線を注ぐ。冷や汗を流しながら、私は逸らすことなくじっと視線を受け止めた。
「大変恐縮ですが、貴方はどなた様なのでしょうか?」
「私は、理を正すものだ」
「理を正す……。厚かましくも無知な私に、もう少し事情を教えていただけないでしょうか。私の罪とは何でしょう?」
「自らの罪に無自覚とは、厚顔無恥とは其方の事だ。闇の者に願い事をしただろう」
──闇の者? その単語から頭に浮かぶのは黒い女性。確か闇と言ってたものね。
「そうだ、あやつだ」
黒い女性と同じ様に、白いおじさんは私の心を読んだように返事をかえす。話を聞く姿勢になってくれていたのに、私と黒い女性との関わりに、再び怒りの火が灯り始める。やはりあの申し出は、何があろうとも断るべきだったか……。
「それほど気配が色濃く残っているのだ、闇のの気に入りそうな我欲にまみれた貪婪な願いを叶えたのだろう」
世界平和とか飢餓問題の解決とか願わなかった私は、我欲と言われても確かに否定は出来ない。
でも、あの女性はその手の願いは間違いなく叶えてくれないタイプだと思うのだよね。下手したら意味を湾曲されることだって考えられたわけだし……。命がなくなれば飢餓も戦争もなくなるとか、平気で言いそうだ。
「そこまで考えられていて何故願った。金か? 誰かの不幸か? 金であればどこぞの場所から消えた金を巡って、運命を捻じ曲げられた者がいたことだろう。誰かの死を願ったならそれも同じことだ」
白いおじさんの言葉にギョッとする。
そりゃ確かに何も無いところからお金は生まれない。でも、あの超常的な存在ならそれを可能にするのだろうと思っていたけど、どうやら右から左に動かすような原始的な方法だったらしい。
もしかして誰かを生き返らせてとお願いしたら、私の知らない誰かの命が消えたの? 復讐を願ったら、対象者が死んで誰かが殺人犯に仕立てられたとか……?
ゾワリと全身が総毛立つ。常識の範囲外の存在である黒い女性に、今更ながら恐怖が沸き起こる。本当に危ない所だった……。いや、問題はいまも現在進行形か。
「捻じ曲げられた理は正さなければならない。其方には自らの罪を償ってもらう」
償い……。その言葉に嫌な予感しかしない。
「……確かに我欲を願ったのは私自身です。たとえ家の傾きを直すような願いでも、願うこと自体が罪と言われるとは思っていなかったのです」
「…………今なんと?」
「あの女性と交渉することが罪だとは、知らなかったのです」
私の必死の弁明に、白いおじさんは「その前だ……」と困惑顔で告げる。
「家の傾きを直して欲しいとお願いしました」
「………………」
目に見えて、白いおじさんに動揺が走る。「家の傾き? 何かの隠語か? 黒のはそれを気に入ったと?」とぶつぶつと呟きながら、得体のしれないモノを見るような視線を私に向けた。
これは勝機だと見た私は、黒い女性とのやり取りを思い出せる範囲で、懇切丁寧に説明を始める。
話し始めはまだ疑わしげな顔をしていた白いおじさんだったけど、話が進むにつれてどんどんと顔を歪めていき、終いには「うーむ……」と頭を抱えてしまった。
「申し訳ない。どうやら、私の早合点だったようだ……」
よかったー! 私は心の中で歓喜の声を上げる。どうやら私の願いは、白いおじさん基準のNG──周りの人間の運命を捻じ曲げるような願いではない為、不文律の範囲だったらしい。
「闇のを前に、其方なりの最善の答えを返したのだな。本当に申し訳ない」
「いえ、私が願ったことは事実ですから、誤解するのも仕方がないことです。事なきを得たのですから私としては問題ありません」
超常的な存在に低姿勢で謝られて、私は慌ててフォローする。自分にも非があるため、私が申し訳なく言葉を重ねていると、白いおじさんがバツが悪そうに目を伏せて「本当に申し訳ない……」と呟いた。
明らかな態度の変化に、嫌な考えが私の頭をよぎる。
──何故、目を逸らすの……?
──別に疚しいことはないでしょう?
「あの、私はこのまま戻れるのですよね?」
こわごわと、私は事実であるはずの事柄を確認する。
「…………其方は戻れぬ」
「えっと、何かしらの支障があるということでしょうか?」
「其方の身体は、既に命の火が消えておる」
「は……い?」
──命の火が消えた? こんなにも心臓が痛いくらいに動いているのに?
右手を胸に当てなくたって分かる。ドクドクと激しい律動が全身に血を巡らせている。
「私、記憶通りなら仕事の最中だったと思うんですが、どうやって死んだのですか?」
「其方の罪は明白だった故、ここへは償わせる目的で呼んだ。その為、其方がここに来た時点で身体の機能は止まり、そのまま命が尽きておる。俗に言う心臓発作とでも診断されたことだろう」
そんな簡単に、呆気なく……。まるで夢の中の事のように現実味がない。
「そんな風に、いとも簡単に人の命が消せるなら、生き返らせることも出来るのではないのですか?」
僅かな可能性にかけた私の言葉に、白いおじさんが首を振りながら「それは出来ぬ」と重々しい声で言った。
そりゃそうだ。理を正すと言っている本人が、巻き戻すようなことをしたら本末転倒だ。おじさんの早合点だったとしても、自分では下から上に水を流せないのだろう。
脈打っていた鼓動が鉛で塗り潰されていくように、全身から力が抜ける。諦めの感情に支配された私は、だらりと椅子の背もたれに身体をあずけた。
──呆気ない最後だなぁ……。
呆然とする思考が、ふと、自分が死んだ後はどうなったのだろう考えを巡らせる……。そしてある可能性に、私は愕然とした。
「なんてことを……、なんてことを、してくれたんだ」
両手で顔を覆うと、絞り出したようなうめき声が、私の喉から漏れる。
私はリモートワークで仕事をする在宅勤務だった。だから、そのまま亡くなったとして、私を発見するのは、一番最初に帰ってくる中学生の長男。もし長男が寄り道をすれば、次は学童帰りの次男だ……。
子供たちが目にするだろう情景を、降りかかるパニックを想像し、口元が震えて目頭が熱くなる。
子供にはまだスマホは持たせていない。お隣さんに助けを求められただろうか。保育園に預けている三男や、会社へ行っている主人には連絡が届いただろうか。
今日は、主人が出張ではないことが救いだけれど、とはいえ帰ってくるまでには時間がかかる。それまで、ずっと子供達だけで私の死に耐えているのだろうか……。
悲しくて苦しくて、両目からしとどに溢れる涙が手のひらを濡らす。こみ上げる嗚咽を殺して、私は小さく小さく丸まる。真っ白な空間に沈黙が落ちる中、鼻を啜る音と、時折押し殺せなかった嗚咽だけが小さく響いていた。
どれくらいそうしていただろうか。涙が枯れるまで泣きくずれて、私はようやく顔を上げた。泣き腫らした瞼は重かったけど、気持ちに区切りをつけて前を向くと、白いおじさんが憐憫とも悔恨とも取れる眼差しを私に向けていた。
「本当に申し訳なかった……。其方が失った物の代わりに、こちらとしては出来る限りの便宜を図ろう」
「一番失ったのは私じゃなく私の家族で、私の親兄妹です。便宜を図るのなら、私の家族や親兄妹に最大の便宜を図って下さい」
私の訃報を知って悲しみに沈むであろう両親や兄妹のことを思うと、流し尽くした涙が再び瞳に滲む。
「親兄妹には強運、家族には強運増し増しで。これくらい強請っても罰は当たらないですよね?」
「…………分かった。便宜を図ろう」
無茶なお願いかと思ったけれど、白いおじさんが頷いてくれたことで、私はほっと胸をなでおろす。
──少しでも、まだ私がしてあげられることがあってよかった。
「家族への便宜は決まったが、其方はどうする?」
「私も何か選べるのですか? このまま、ただ消えるだけかと思っていたのですが」
「それも選べるが、望むのであれば、今の記憶を持ったまま生まれ変わらせることも可能だ」
「いえ、それはちょっと……」
アラフォーの精神年齢で赤ちゃんに戻って小中高大を経験するのは正直キツイ。私にとっては、どちらかといえば罰ゲームかと思いたくなるような選択だ。
「そうか。では、異なる次元の世界に生まれ変わるのはどうだ?」
「っ!」
それは、なんというか、とっても興味がある!
この手の選択は、小説でいくつも読んだことがあるけれど、まさか自分がそれを経験することになるとは思わなかった。
それにしても、異世界転生か。悪くはない、悪くはないのだけれど、今私が選ぶものがそれかと言われると、もっと別の望みが──
「それで、どうするのだ?」
白いおじさんがじっと私を見つめながら、考えを巡らせていた私に答えを促す。
まるで見守るような眼差しに、私の心がゆっくりと凪いでいく。静かに、不純物を取り去って、私はそれを掬い上げる。
「私が願うのは…………」
その人は、明かりのついたリビングで点きっぱなしになっているテレビをぼんやりと瞳に映していた。片手に持ったビールを、コップに注ぐでなく缶のまま呑んでいる姿に、心の乱れを強く感じる。
スマートフォンの通知音が一回、続けてもう一回鳴った。首を傾けて視線をスマートフォンへ向けたものの、一瞥しただけで手は伸びない。さらに追加で通知音が鳴って、ようやくスマートフォンに手を伸ばし、画面を確認してすぐにギクリとその手が止まった。
瞳を大きく見開き、感情が凍りついたような虚ろな表情が、混乱へと変わっていく。
「これは、一体……」
すぐさま立ち上がって棚の上に置いていたスマートフォンを手に取り、ロック解除されている画面に驚きながらも中を確認する。そして、画面の中に目的のものを見つけた彼は、慌てて周りを見回した。
見つけたのは、手にしているスマートフォンから彼のスマートフォンへと発信された三通のメッセージ。
『こんばんわ』
『急にこんな事になってしまってごめんね』
『ちゃんとお別れもできず、とても混乱させてしまったと思います』
再び画面へと視線を落とした彼の眼の前で、スマートフォンに文字がどんどんと入力されていく。
『悲しい思いをさせてしまって、本当にごめんなさい』
画面にポタリポタリと涙が落ちる。
「めいさん、君……なのか?」
『うん』
「そう……か」
真っ白な空間で、白いおじさんと交渉した私は、意識だけの存在となって、我が家に舞い戻った。
リビングの壁にかかる時計には、私が死んだ日から一週間後の日付が表示されていた。すぐに戻してもらうことも可能だったけれど、家族や親兄妹が泣き崩れる姿を見るのは辛くて、特に逆縁の不孝をしてしまった両親には合わせる顔もなく、戻る日を一週間ずらしてもらったのだ。
そして我が家に戻ってきた私は、自分のスマートフォンを操作して夫にメッセージを送った。意識だけの存在となった私にそんなことが出来るのは、もちろん白いおじさんの取り計らいだ。
「君は……、ゆうれい?」
『そうなるかな』
「幽霊でもいい。もう一度君と会話が出来るなら、それでもいい……」
肉体を失った私は、目頭が熱くなる感覚になっても、涙は流れないし、嗚咽もこぼれない。ただ悲しい気持ちだけが胸に渦巻くだけ。
でも、それでもいい。泣いているこの人の背中をさすることも出来なくても、労りの言葉はかけてあげられるから……。
『私も、あなたとまた話が出来て、本当に良かった』
こうして、私の第二の人生が始まった。
翌朝、起きてきた夫に『おはよう』とメッセージを送ると、夫は私の遺影に向かって挨拶を返し、「夢じゃなくて良かった……」と小さく呟いた。
夫には、気が付いたら幽霊のような存在になっていて、何とか連絡は取れないかとスマートフォンを触っていたら操作が出来たのだと説明している。黒い女性や白いおじさんに関しては、話してもただ混乱させるだけなので、割愛するのも止む無しと判断した。
私がスマートフォンを操作できる事については、幽霊が電子的な存在だということの証明になるのでは……、と変な方向ですんなり納得してくれたみたいなので、今のところ忌避感はないみたい。
少しして子供たちが起きてきた。以前は私が起こしていたけれど、自分たちで起きてくるようになっていた。家族の生活を見守っていると、私が居なくなって、色んなことが変化しているのが分かる。
夫は会社と相談し、出社時間を遅らせて三男を保育園へ送っていくようになっていた。
家事は、出来る範囲で子供たちに手伝ってもらいながらの分業制。もともと夫は料理が得意だったから、炊事に関しては問題ないみたい。
次男は、学校に行きたくないと言うようになっていた。学校から帰ってきたら私が死んでいたことがかなりショックだったみたい。一応、仕方なしに行ってはいるけれど、毎日遅刻ぎみだ。
三男は、保育園には行ってくれているけれど、家に帰ってからは夫にベッタリになった。夜も、夫の寝かしつけがないと寝られないと毎日添い寝をせがむ。
長男は以前と変わらず元気だったけど、前は自分自分が一番で何かと弟とケンカをしていた長男が、弟達を気に掛けるように変わっていた。三男の保育園のお迎えは自分が行くと宣言して、中学校帰りに、保育園と児童館に寄って弟二人と一緒に帰ってくる姿を見た時は、長男の変わり様に泣きそうになった。
家族を見守りながら夫とメッセージのやり取りをすること数日間、夫とも相談した結果、子供たちに私のことを話すことにした。
幽霊となった私が、自分のスマートフォンを操作してメッセージを届けてくれていると説明を受けた子供たちの様子は三者三様で、長男はそんな阿呆なと呆れ顔、次男はそれが本当だったら嬉しいなという戸惑い、三男だけは無邪気にそれを喜ぶ。まあ、それぞれ当然の反応だよね。
とはいえ、実際に誰も触れていないスマートフォンに文字が入力されていくのを目の当たりにすると、信じていなかった長男も涙ぐみながら喜んでくれた。
「ただいま!」
『おかえりなさい』
学校から帰ってきた次男を音声で出迎えると、私のスマートフォンの前で今日あった出来事を嬉しそうに話しだす。
私のことを話してから、子供達の表情が目に見えて明るくなっていった。スマートフォンの文章読み上げ機能を使った棒読みの電子音声とはいえ、子供達と会話できるようになったことが大きいかもしれない。私との些細な会話が、家族の新しい日常の一部になるのにそう時間はかからなかった。
家族を見守りながら、私は私で第二の人生をのんびりと過ごす。
今日も元気に登園登校する子供たちを『いってらっしゃい』と見送ると、私はスマートフォンを触りながらのんびりお留守番タイムだ。
ちなみに、意識だけの存在な私だけれど、何処にでも行ける訳でなく、基本的に自分と繋がっているスマートフォンの周囲のみ行動可能となっている。なので、スマートフォンを家から持ち出さない限り、基本的に家でお留守番となるのだ。
とはいえ家でのお留守番に不満はない、むしろ快適なくらいである。昨今のスマートフォンでは何でも出来、テレビも映画も漫画も小説もゲームも、スマートフォンの中は娯楽で溢れているのだ。
これ幸いと昔懐かしの漫画を読み返したり、海外ドラマを視聴したり、小説を読み耽る。夫にも月いくらまでは課金してもいいと許可をもらったので、その範囲内で私は留守番タイムを満喫していた。
ほとんどが余暇の時間だったけれど、時折届く学校の連絡通知を夫に伝えたり、長男の学校給食の注文や、保育園や小学校の写真の注文をすることもあった。
なお、システム化された学校関連の登録は、主に私だけしかしていなかったから、もし私が戻らなければ夫は凄く苦労したかも……と冷や汗をかいたりもした。ちゃんと共有しておくべきだったと反省して、今では情報共有もバッチリだ。
土日に家族で出掛けたり、平日はのんびり留守番生活を続けること二ヶ月と少し、三男が保育園を卒園した。私は、夫と共に卒園式に参列して三男の門出を祝う。もちろん翌月の小学校の入学式もだ。私と一緒に買いに行ったピカピカのランドセルがとても似合っていた。
授業参観や運動会などの学校行事も夫に連れられて参加する。
秋を過ぎて、長男の高校受験が佳境に入った。私は時に励まし発破をかけて長男を応援する。その後、長男は無事希望の高校に合格し、翌春には晴れて高校生となった。
長男が高校に入学してから半年後、夫が仕事を辞めた。元々、転職の相談は受けていて、長男の受験が終わって一段落ついた春に、予てよりの夢であるカフェを開くため退職を決め、準備を始めた。遠い未来で、定年退職後にカフェを開きたいからと調理師免許を取得していた夫の夢が前倒しになった形だ。
そこから半年間は店舗を決めたりもろもろの準備に奔走し、ある程度の指針が立ったところで予定通り夫は仕事を辞めた。
ちなみに、準備期間中は私も夫と行動を共にして、出来る範囲で夫の助力をしていた。スマートフォンだけしか使えなくても、手伝えることは意外に多いものである。
そして退社してから二ヶ月後、家から程近いところにカフェが無事オープンした。定着のお客がつくまでは赤字が続くのも覚悟していたけれど、夫の料理が良かったのか強運増し増しのお陰なのか、カフェ経営は予想よりも順調な滑り出しとなった。
カフェがオープンしたことで、私の生活も少しだけ変わる。週の半分は夫と一緒にカフェに移動して、そこで余暇を過ごすようになったのだ。お店で気付いた事をアドバイス出来るし、ここ二年の一人での留守番に変化が欲しかったのもある……。
しばらくして、家族の団欒の時間が半分ほどカフェへと移った。子供たちは学校帰りに夫のカフェに集まり、夕食をとって閉店の片付けを皆でして家へと帰る。
夫の表情の変化を見ていると、会社員だったときよりも心の余裕が出てきたのが良くわかった。
次の年に次男が中学受験すると言い出した。長男の高校受験に感化されたのか、一年間勉強に勤しみ、それなりのレベルの公立中高一貫校に合格した。
次男が中学校に入学したその年、パソコンに興味を持ち、高校もそれを理由に選んだ長男が、個人の音声とAI音声の読み上げソフトを組み合わせて私の声を甦らす試みを始めた。私と最も声質が近かった妹──長男にとっての叔母に協力を仰いで、こっそりと文章読み上げの音源までもらっていたみたい。
数ヵ月後、無機質な音声だった私の声は、多少のノイズはあるものの、表情の乗った生前に近い音声へと変わった。
さらに次の年には、長男が高校三年となり大学受験の時期になった。家の中は若干ぴりついたものの、長男は家から通える大学に無事合格し、春からは意気揚々と大学に通う生活を始めた。
翌年、長男が成人を迎え、家に古酒が届いた。そのお酒は、長男が生まれる年に観光で偶然訪れた酒造で申し込んだ、長期保存の記念酒だった。
二十年の時を越えた私と夫からの成人祝い。本当なら三人で呑むはずだったお酒を、今は夫と長男が二人で呑む。次男と三男は、お酒を呑む二人の横で自分も早くそのお酒を呑めるようになりたいと羨ましそうに言っていた。
そしてその次の春、三男が小学校を卒業し、長男も通った中学校に入学した。まだランドセルも背負っていなかった三男が、ランドセルを背負い、今では新品のリュックを背負う。子供の成長は早いものだね……。
次男も中高一貫校で進学し、高校生になった。
長男が大学四年生の年、夫からの助言で長男は一人暮らしを始めた。家の手伝いで家事先般はこなせるようになっていたけれど、一人暮らしはまた違うからと、人生経験の一環として一度家を出ることを勧めたのだ。
長男が居なくなったことで会話が減り、家の中は少しだけ静かになった。
時折家に顔を出した長男から話を聞く限り、就職の内定を得た長男は、残りの大学生活を満喫しているみたい。
翌年は長男が社会人となり、次男が大学受験、三男が高校受験でダブル受験の年となった。その事もあってか、二人が静かに集中できるようにと長男は一人暮らしを続けることを選択した。
その甲斐あってか、次男と三男はどちらも希望校へ合格し、県外へ出ることになった次男は春から一人暮らしを始め、それと入れ替わりに長男が家に戻ってきた。
家に戻る前に、長男に『そのまま一人暮らしは続けないの?』と私が聞いたら、長男は「お金を貯めたいから」と言った後、「三人だけだと寂しいだろ」と小さく呟いた。
一番下の三男が高校生になったことで、子供たちは全員手のかかる時期を終えた。何だかんだと手がかかっていた小中学校時代は過ぎ去り、私は一区切りを迎えたことを実感する。
この姿になって過ごした時間よりも、残された時間の方が短くなっていた。
次の年、なんと三男が突然彼女を家に連れてきた。同じ高校の同学年らしく、夫と長男と軽く会話している様子をみる限り、礼儀正しくて可愛いらしい女の子だった。
今まで、長男や次男から彼女の話を聞いたり、写真を見せてもらったことはあったけど、家に連れてくるほどの親密レベルの彼女は出来おらず、結局別れたという報告を聞くのみだった。そうなったのも、私という特殊な存在がいるために、家に連れてくるのは先を見越す程の女性だけだと、敷居が高くなってしまったのもあるのだろう。
そんな中、三男が彼女を連れてきたのだ。長男から連絡を受けた次男は当日のうちに帰ってきて、三男を質問責めにしていた。本人曰く、将来を見据えて本気とのこと。
その言葉に、長男と次男が「先を越された……」と二人揃って打ちのめされていたのは言う迄もないだろう。
次の年には長男が彼女を家に連れてきた。三男の事で発破をかけられたのかどうかは定かではないけれど、猛アピールして口説きおとしたという話は聞いた。
そしてその次の年には、三男と彼女は地元の大学に二人仲良く入学し、長男は家に連れてきた女性と結婚した。
披露宴に準備された私の席には、私の小さな遺影とスマートフォン、そしてお酒が並べられていた。お酒好きだった私のことを考え、料理よりも断然お酒でしょうと夫がこっそりアドバイスしたのは知っている。
なお、長男の結婚式には、高齢だけれど健勝である私の両親が揃って参列し、初めての孫の結婚式をとても喜んでくれていた。
結婚を機に長男が家を出たことで夫と三男と私の三人暮らしとなり、家の中は火が消えたように静かになった。子供はいずれ親元を離れて巣立っていくものだと理解はしていても、やはり寂しさは消せなかった。
すると翌年の春、大学を卒業した次男が、就職のタイミングで家へ戻ってきた。本人は、長男と同じ様にお金を貯めるためと言っていたけれど、きっとそれだけではないのだろう。
そして、すっかり忘れていたのだけれど、この年はちょうど私達夫婦の結婚三十年目の年だった。私には内緒で夫と子供たちでこっそり準備をしてサプライズでお祝いしてくれた。
「ずっとそばに居てくれてありがとう」と皆に言われて泣きたいくらい嬉しい気持ちになり、「次は五十年目の金婚式の時だね」と言われて泣きたいくらい胸が痛くなった。
その次の年には夫が還暦を迎え、長男夫婦に子供が生まれた。初孫は可愛い女の子。男児三人の母だった私からすると、女の赤ちゃんは何処も彼処も柔らかそうで、胸がとても温かくなった。
赤ちゃんを抱っこした時の夫の嬉しそうな顔は、私の瞳に鮮明に焼き付いている。
翌年、三男は大学四年生になり、就職も無事内定をもらうことが出来た。保育園に通っていたあの子が、来年は社会人となる。
高校生から付き合っている彼女とは、今でもお付き合いが続いていて、早めに結婚したいのだと三男は大学最後の一年をバイトに明け暮れていた。長男の子供をキラキラとした眼差しで見ていたから、三男的に何か思うところがあったのかもしれない。
そしてその年の冬、もし私が生きていたら還暦となる日を迎えた。
長男が結婚したこともあり、ここ数年は家族全員が集まることはなかったけれど、今日は私からの呼びかけで夫と子供三人の全員に祝ってもらうことにした。
お酒で乾杯してひとしきりお祝いをしてもらった後、私は大事な話があると切り出す。
「待って……、楽しい話じゃないなら聞きたくないんだけど」
私が話し始めようとしたところで三男が難色を示す。私が自身の事で集まって欲しいと呼びかけたのは初めての事だったので、何かしら察するものがあったのだろう。
「わざわざ皆を呼んで、大事な話って何? 止めてよ、俺は嫌だよ」
夫も長男も次男も、皆が沈黙している。
『話を先に伝えても良かったんだけど その方が辛いかなと思って』
「辛いなら、先でも後でも一緒だよ」
「ちょっと落ち着け。まずは母さんの話を聞こう」
興奮する三男を落ち着かせるように、長男が止めに入める。そして、いつもより硬い声で「話を聞かせて」と夫が先を促した。
『母さんね これから成仏しようかと思っています』
私の一言に、やはりそうなのかと皆が顔色をなくして凍りついた。
還暦という区切りは、私が決めた事だ。きりが良いというのもあるけれど、ここらへんが潮時だろうと考えた年齢でもあった。
幸いにして両親はまだ元気だけれど、いつお迎えが来てもおかしくない年齢だし、正直に言えば、親を見送る覚悟もしていたから、それに関しては嬉しい誤算だろう。
もしこの先もこのまま居続ければ、私はきっといろんな人の死を見送ることになる。意識だけの存在になっていても、少し先に待っているだろう未来を見届けることが辛かった。泣き叫ぶ声も溢れる涙もなく、ただただ行き場のない悲しみが積み重なっていく……。
だからきっと今が潮時。本来なら、死んですぐに輪廻に戻るところをずいぶんと寄り道をしたものだから、本当なら幕引きには遅すぎるくらいだ。
『ずっと見守ってきたけれど 母さんが居なくてももう大丈夫 皆で乗り越えられるかなって』
「そんなことない! まだまだ必要だよ!」
『来年には皆社会人だし 母さんもそろそろ子離れしないと』
「そんな事言わないで、まだ居てよ。俺、母さんに俺の結婚式見て欲しい。子供だって……」
「止めろ……母さんが困ってる」
言い募る三男を再び長男が止めた。
「兄さんは母さんが居なくなってもいいのかよ!」
「嫌に決まってるだろ。でも、今までで見守っていてくれたこと自体が奇跡なんだよ」
長男の苦しさを絞り出すような声に、三男が黙り込む。
「なあ、母さんが成仏するって決めたんだから、皆で見送ってあげようよ。じゃないといつまで経っても母さんの心残りが消えないだろ」
今まででずっと黙っていた次男が口を開く。
「それに、お前はいいが俺はまだ母さんに彼女を紹介できてもいないんだぞ? 母さんの心残りになるんじゃないかと心配だよ」
『優しくて気配り上手なのを知ってるから 心配してないよ』
「それなら良かった」
おどけた口調に反して、次男は今にも泣き出しそうな顔をしていた。くつがえらない事を悟ったのか、三男が悄然と下を向く。
部屋に悲しみが広がる中、夫が沈黙を破るように口を開いた。
「めいさんが亡くなった時、ただただ絶望しかなかった。何度、夢なら早く覚めてくれと願ったことか……。けど、朝目が覚めてもそれは現実で、まだ小さい子供達を前に、私は毎日途方に暮れていた。君が初めてメッセージを送ってくれた日も、私はなんて都合のいい夢を見ているんだろうと思ったものだよ」
苦々しい思い出を語るように、夫がぎこちなく笑う。
「あの日からずっと、私は君に助けられている。私一人では、こんな風に家族で笑い合えていたかどうか……。ずっと、ずっと見守ってくれてありがとう」
「俺だって、ずっと感謝してる。親父だけじゃない、みんな……そうだよ」
「ああ、言葉で語り尽くせないくらい、悲しい時も困った時も楽しい時も、ずっとずっと母さんは、俺たちの太陽だったよ」
夫の言葉を長男が継ぎ、その言葉を次男が継ぐ。
「俺は母さんのことが本当に大好きだよ。だから、もう大丈夫だよって、言えないけど、でも俺、母さんに心配させないように、今以上に頑張るから……。ずっとずっとありがとう、母さん」
三男は頬を涙で光らせながら、次男の言葉を継いだ。
亡くなってもなお、こんなにも長く夫や子供を見守ることができ、別れを惜しんでもらえる私は、本当に幸せ者だ……。
『うちの子はみんな優しくて頑張り屋さんだね 母として誇りに思うよ でも肩の力を抜いて大丈夫 私はみんなが笑って幸せでいることが一番だから』
もう誰も口を開かない。くぐもった震える声が、時折誰かの口から溢れる。
『こんなへんてこになった母さんを受け入れてくれて ありがとう』
『みんな大好きだよ』
『バイバイ』
その別れの言葉と共に、私は最後の操作をする。
食いしばるような嗚咽と、すすり泣く声にまぎれて、小さな通知音が立て続きけに鳴った。
言葉では語り尽くせない、私から家族への最後のメッセージ。
それぞれ別々の内容を書いていても、最後の一文はみんな同じだった。
──死ぬ前も亡くなった後も、家族との時間は、喜び怒り哀しみ楽しみ全てが、私にとってかけがえのない宝物でした。
──今までで本当にありがとう。
──大好きな貴方へ、愛を込めて。
◇◇◇
ぼんやりとした意識がハッキリしてくると、私は何もない真っ白な空間にいた。既視感と共に、私にとって懐かしい昔の記憶が掘り起こされる。
「戻ったか」
「……お久しぶりです」
「久しぶりと言うには、ほんの僅かな時間だ」
私にとっての十七年がほんの僅かの時間か……。もしかしたら、ここの時間の流れは、一定でも一方向でもないのかもしれない。
家族との別れの余韻が残る私に、白いおじさんは昔と変わらない様子で淡々と告げた。
「では約束通り、其方を別の世界に生まれ変わらせるとしよう」
初めてこの何もない真っ白な空間に来た時、白いおじさんに望みを求められた私は、悩みに悩んだ末「別の世界に生まれ変わらせて欲しい」と願った。
テンプレの様なありふれたお願い。ただし、そのお願いには条件を付けさせてもらった。
突然のことで、気持ちの整理もついていないし、心残りも多いにある。だから、私が六十の年にはなるまで、生まれ変わる為の心の準備をする時間が欲しいと……。
さらに、その間はスマートフォン等の電子機器を触らせて欲しいと追加注文を付けた欲張りな私だったけれど、運命をねじ曲げてしまった責任は自分にあるからと、白いおじさんは二つ返事で引き受けてくれた。
お陰で十七年もの間、家族とコミュニケーションを取りながら一緒に過ごすことが出来たのだから、白いおじさんには感謝しかない。
これから私は異世界に生まれ変わるわけだけれど、もちろん転生するにあたって色々と抜かりなく交渉済みである。
近年戦争がなく、子供の死亡率が低い世界。折角だから魔法があるという条件も付けさせてもらった。
記憶に関しては、正直なところ受け継ぐかどうかを最後まで悩んだ。還暦まで生きた記憶というのは重すぎるし、私が私でなくなる以上、本当の意味での新しい生を歩き出すべきじゃないかと考えたからだ。
とはいえ、自分の記憶を受け継がないなら、それはもはや他人じゃないか……と私が悩んでいると、白いおじさん曰く、真っさらの状態になったとしても、根底はそのままとのことなので、生まれや生育環境で多少は変化しようとも、私は私だということを教えてくれた。
そういう事もあって、記憶に関しては、受け継がないことに決めた。
そして、忘れてはいけないチート能力。これについては記憶がなくなることもあり、下地のない強い力は毒にもなりかねないので、自分の可能性に任せるという意味を込めて、生きていく助けとなるような加護を、というふんわりとしたお願いにした。
記憶がないまま、幼い頃から強い力があったら、間違いなく調子に乗る! 自分の事だからこそ、この予想が外れない自信があった。
やっぱり何事も程々に、身の丈にあう力が一番だよね、心の中で独りごちた。
「では、其方を送る。新しき命に、幸多からんことを祈ろう」
そう言って白いおじさんは私に右手を翳すと、その手を横にスライドさせる。その途端、私の身体がぼんやりと光を放ち始めた。
本当の意味でこれで終わりなんだと思うと、緊張なのか武者震いなのか、今更ながら身体に震えが走った。
「何も心配はいらぬ。世界も記憶も其方の望んだ通りだ」
私の緊張を察したのか、穏やかな顔で発せられた白いおじさんの言葉に、気が楽になり身体の強張りが解れる。そして、その次に続いた言葉に、私は凍りついた。
「加護についても、其方に色濃く残る闇の者の気配が、自然と生まれ変わる世界に適応した加護となるだろう」
────へ?
「安心するが良い」
いやいやいや、ちょっと待って! それって初っぱな白いおじさんに害悪認定された気配ですよね!?
安心どころか不安要素しかないんですけど、これってどういうフラグ!?
あまりの衝撃にパニックになる思考に反して、私を包む淡い光がどんどんと強くなる。
「ちょ、ちょっと待って!」
伸ばした指先から腕から、はらはらと光の粒となった私が霧散していく。
「加護については、クーリングオフをおねが────」
真っ白な空間に広がる私の慌てた声を最後に、私の意識は暗転した。