さざなみ荘
あれから店内でだらだらと話していたこともあって、喫茶店を出る頃には夕日が傾いていた。そろそろ解散した方がいいか。
隣を歩く海里は眠そうな顔であくびを右手で押さえていた。僕も今日は動き回ったおかげでだいぶ疲れている。家に帰ったらお風呂に入ってすぐに寝たいくらいだ。ただ、ここから暗くなっていくわけだし、海里のことを家の近くまで送って行くべきだろう。
「海里の家ってどの辺なの。近くまで送っていくよ」
そういえば、海岸の近くを歩いていたときにどこから来たのかと質問したが、そのときは海と反対の方角を指さしていた。ということは、このさらに先なのかもしれない。
しかし、海里はそれに対して首を横に振った。
「私はまだ大丈夫。それより、一帆はどこに住んでるの?」
僕は改めて時計を見る。五時を回ったところだ。まだ三月ということもあって日が落ちるのは早いが、時間としては別段早いわけではない。それに、本人がこういうのだから大丈夫なのだろう。
そう判断して、僕は海里に自分の住んでいるアパート、さざなみ荘がある方角を指さした。
「へー。ここからどれくらいのところなの?」
なおも興味ありげに聞いてくる。
「歩いて十分くらいだよ」
いつもは自転車で来るから、駅までは五分くらいだが。
「私、見てみたいなあ。一帆が住んでいるところ」
「別に、何の変哲もないアパートだよ」
八畳間に必要最低限の家電が置いてあり、お風呂とトイレは分かれている。ただ、築三十年以上なこともあり、かなり年季が入っていて、ところどころ歩いていると軋んだりする。あと、大家さんが少しお節介だったりするが特徴なんてそれくらいだ。
その大家さんがいるからこそ、連れて行きたくないのであるが。
「私、気になるなあ」
じーっと上目遣いで僕を見つめてくる海里。
なおも反論を試みるが、きっとこうなった海里はてこでも動かないのだろう。今日だけの付き合いだが、なんだかそれが理解できた。
「じゃあ、その前に自転車だけ取りに行っちゃうよ。ここで待ってて」
そう言って、大学に向かうが海里は僕の後ろをついてくる。
「どうしたの?」
「いや、ほら。違う道から帰っちゃうかもしれないし」
「そんなことしないよ……」
僕をなんだと思ってるんだ。土地勘のない場所にいる女の子を一人残して家に帰るなんて、そんなことするはずがない。
「まあ、知ってたけどね」
海里がそう言ってケラケラと笑う。それから、こう小さな声で付け足した。
「やっぱりさ、知らないところに一人っていうのは不安なんだよ」
僅かに瞳を細め沈みかかった夕日に目を向ける。その姿に僕は毒気が抜かれてしまって、それ以上はそのことについて何も言えなかった。
それから歩くこと十五分ほど。
僕と海里は、アパートさざなみ荘に辿りついたのであった。
「おおー、なんだか歴史を感じる建物だねえ」
海里がそう感想を口にする。たしかによく言えば歴史ある建物だが、悪く言えばおんぼろだ。まあ、そのおかげか家賃が非常に安く、僕からしたらとても助かっているのだが。
「それで、一帆の部屋はどこなの?」
「うん?あー、二階の真ん中の部屋だよ」
二階建てのさざなみ荘のちょうど真ん中に位置する部屋だ。部屋番号で言えば二○三号室。
「そっか。じゃあ行こう」
「いや、行かないよ」
即座に拒否する。
「なんで?別に散らかってても気にしないよ。それとも、なにか見られてまずいものでもあるの?」
首を傾げる海里。
「いや、別に散らかってないし、見られてまずいものもないけど」
僕の部屋はかなり綺麗に整頓されている。というか、そもそも物自体がそんなに置かれていない。見られてまずいものについては、机の引き出しの中に厳重に保管しているからおそらく問題ない。
ただ、海里を部屋に入れることには抵抗がある。女子が部屋に入るというのは男子大学生にとってとても緊張するシチュエーションなのだ。
そんなほいほい入れられるものではない。とりあえず準備時間が欲しい。心を落ち着けるための。そもそも、僕の部屋の中に女子が入ってきたことがほとんどない。大家さんと隣の部屋に住んでいる大学の先輩くらいか。先輩はともかくとして大家さんを女子というカテゴリーに入れていいのか非常に迷うところだが。
「じゃあ、いいじゃん」
「えっ、いや、その」
なんとも歯切れの悪い抵抗を展開していると、突然部屋の扉が開く音がした。
いやな予感がした。往々にしてこういうときの予感は当たるものだ。おそるおそる振り返ると、エプロンをつけた四十歳くらいの女性の姿。さざなみ荘の大家、汐留ゆかりさんだ。
「あれっ、一帆と……、見知らぬ女の子?もしかして、このさざなみ荘に連れ込んで不埒な真似を……?」
「いや、違う」
とんでもない勘違いをしている大家さんに突っ込む。思わずため口になってしまったがしょうがないだろう。
「そうです。違います」
それに海里も便乗してくれる。
「私が一帆の部屋に行きたいって言ったんです」
それで、大家さんははっとした顔をする
「なるほど。リードできない一帆とは違って積極的なのね」
「それも違う」
またまた誤解する大家さん。しょうがなく、もう一度弁明する。
「ですから、そもそもが間違ってて。まず……、そう、海里、この子とは今日会ったばかりなんですよ。だから大家さんが思ってるような関係じゃありません」
「会ったばかりの子の部屋に行こうなんて、なかなかの肉食っぷりじゃない」
「だーかーらー、違いますってば」
またも誤解する。もうここまでくるとわざとやっているんじゃないだろうか。大家さんの口角は少し上がっているし。
「まあ、そんなに怒るなって。あんまりカリカリしてるとはげるよ」
「誰のせいですか」
それに、大家さんはあははと豪快に笑う。
こちらとしては全く笑えないのだが。
「まあ、冗談はそれくらいにして、この子は一体だれなんだい?大学の友人ではなさそうだけど」
「そうですね。大学の友人ではないです。そもそも、高校生ですし」
大家さんは改めて海里に視線を向ける。海里はというと、眠そう目で僕の部屋のある方を眺めていた。もしかしたら、歩きすぎて疲れているのかもしれない。
「ふーん。ナンパでもしたの?」
「いや、そうじゃなくて、海岸に立ってて、この辺りを案内して欲しいって頼まれたんですよ。それでいまに至るって感じです」
「なにそれ。漫画の読み過ぎなんじゃないの。この時期に海岸に行く人なんていないでしょ」
いや、僕がいるんですが、とは口に出さなかった。たしかに、春に海に行く人なんてほとんどいないだろう。
「でも、事実なんですよ。なあ、海里」
「えっ、うん。そうだよ」
急に僕に話を振られて頷く海里。きっと話を聞いてなくて適当に頷いたんだろう。その証拠に、しまったという顔をしている。
「うーん、まあ一帆の言い分は取りあえず分かったよ。じゃあ、今度は君に聞いてみようかな。えっと、海里ちゃんだっけ?」
「はい、そうです」
今度は毅然とした返事をする。どうやら目が覚めてきたみたいだ。
「ここまでのいきさつを教えてくれないかな」
大家さんの問いに、海里はここに来るまでの経緯を話し始めた。僕に海で出会ったこと。この辺りを案内してもらったこと。さざなみ荘まで来たこと。僕はてっきり、海での邂逅の前段階の話を聞けると思ったが、海里はそこに全く触れなかった。
大家さんもとくにそこには言及することなく海里の話を黙って聞いていた。
海里が話を終えると反芻するように頷いて、それからゆっくりと口を開いた。
「取りあえず、うちでご飯でも食べていく?」
「えっ、いいんですか?ぜひ」
海里はそれに満面の笑みを浮かべて頷いた。