自転車に乗って
「それで、どこに向かいたいんだ?」
防風林の横を道なりに進みながらそう尋ねる。
「うーん、そうだなあ。賑わってるところがいいなあ」
漠然とした答えが後ろから返ってくる。
目的地があるのかと思ったが、どうやら違うみたいだ。とすると、観光のようなものなのだろう。
それにしても賑わっているところか。この辺りは田舎とまではいかないが、そこまで栄えた場所でもない。そうすると自ずと場所は限られてくる。
「駅前に行こうか」
「おっ、いいね」
海里がそれに楽しげに答えた。
駅前はおそらくこの近辺では最も賑やかなところである。近くに僕の通っている大学があり学生が多いことも影響しているだろう。とはいえいまは春休み。多くの人が帰省しているため、駅前もそれほど人に溢れてはいない。ただ、お店はそれなりに揃っているし、満足してもらえるんじゃないだろうか。
「それにしても、海、ぜんぜん人がいなかったね」
海里が残念そうに呟く。
「そりゃあ、春だしなあ」
釣りの名所だったりしたら話はまた違うんだろうけど、残念ながらあの海岸はとくになにもない。去年の夏に行ったときは海水客もそれになりにいたが、さすがに春に寒中水泳をやろうという輩もいないだろう。
海里はこの辺りに疎いから、もしかしたら人がいるんじゃないかと期待していたのかもしれないが。
T字路にさしかかったところで、赤信号のため自転車を止める。すると、海里が背中をぽんぽんと叩いてきた。
「うん、どうしたの?」
振り返ると不満そうな海里の顔がある。
「一帆、ちょっと遅くない?」
「いや、しょうがないだろ。二人乗りって結構大変なんだよ」
主に漕ぐ方がである。先ほどまでなんとか自転車を進ませることはできていたけど、正直かなりしんどかった。もしかしたら体重制限は自転車本体だけでなく、乗り手のことも考慮に入れて算出されているのかもしれない。
「一帆の非力」
「いや、僕じゃなくてもこの重さは無理だと思うよ」
それこそ筋骨隆々の男だったら別かもしれないけど。
「私が重いっていうの?」
重さという言葉に反応して海里がそう僕に食ってかかる。
「違うよ。海里じゃなくてもこうなるって。そもそも子供じゃないんだからもう二人乗りするべきじゃないんだよ」
一応、二人乗りは道路交通法違反だし。
ただ、海里はそれに納得できないようで首を傾げた。
「あっ、信号が青になったね。進もうか」
「待った」
ペダルを漕ぎ始めようとした矢先、後ろから肩を掴まれる。
「今度はなに?」
呆れ顔で再び振り向くと、海里が真剣な表情をしていた。
「私が前で漕ぐよ」
「へっ?」
「いいから変わって」
後部座席から降りてそう要求してくる。言われるがままに自転車から降りると、海里がサドルに腰掛けた。
「ほら、後ろに座って」
ポンポンと叩かれる後部座席。そこは僕がこの自転車を買ってからこのかた、座ったことのない未知の場所。
腰を下ろすと、いつもよりも見える景色が低く遠いことに気づく。そして目の前には僕のコートを身に纏う少女。
「これ、座るとこ高いなあ……。まあ、いっか。じゃあ私に捕まって」
捕まれと言われても、僕は一体どこに捕まればいいんだろう。どこに触ってもセクハラで訴えられそうだ。
「はやくー」
そんな僕に痺れを切らす海里。
ああ、もうどうにでもなれとその脇のところを優しく掴んだ。海里はじゃあ行くよ、と声を出す。動き出しの合図。しかし、待てども待てども自転車は進まない。
「どうしたんだよ、海里」
「重くて動かない……」
そんな僕に情けない顔を見せる海里。なんてことだ。
ふと前を見ると、信号が点滅していた。
「やばっ。赤になっちゃう」
「えっ、ほんとだ」
海里は驚きと焦りの混ざった声を上げると、急いで自転車を漕ぎ出そうとする。
次の瞬間、車体が左に揺れた。僕はとっさに左足を伸ばす。かなりの重さが左足に加わるが、なんとか車体の転倒は防ぐことができた。しかし、目の前の信号に赤い光がともる。
「あ、えーっと。ご、ごめん」
海里は申し訳なさそうに小さく俯く。
「ここから坂道だし、歩いて行こうか」
そんな海里に、僕は苦笑交じりにそう提案した。
海に背を向け、海里を先頭にして僕たちは坂を登っていく。
海里はというと、先ほどまでのことなんてもう忘れたかのように鼻歌混じりに歩いており、ご機嫌な様子である。
そんな不思議な少女の存在が、僕の頭に次々と疑問を生じさせていた。
改めて考えてみると、意味不明な展開だ。それに、僕はこの少女について何も知らない。
「ねえ、海里はどこから来たの?」
ぴた、と歩みを止めて振り返る海里。しかしまた、すぐに歩き出した。
「私はね、あっちの方から来たんだ」
そう言って、いま僕たちが進んでいる方向を指さす。あっち、だけでは分からないが、そう答えるということはあまり話したくないのかもしれない。
僕はそれで、話題を変えることにする。
「えーっと、海里って学生なの?」
「うん。高校生だよ。高校二年生」
その答えはわりとしっくりきた。大人びた風貌だが、言動や顔立ちにはいくらか子供っぽいところもある。
「一帆は?」
「僕?僕は大学生だよ。いま大学一年生」
おー、となぜか感嘆する海里。その反応の意図が僕にはいまいち分からない。予想通りの年齢だったのか、はたまたもっと幼く見えていたのか。さすがにもっと年が上だというのはないと思うけど。
「高校生だと思ったんだけどなあ」
そう付け加える海里。どうやら後者みたいだ。
だからずっとため口だったのか。まあ別に特に気にしないからいいけど。
「ということは、海里は四月から受験生?」
「あー、うん。そうなるねえ」
余裕そうな表情で頷く。その反応、勉強ができそうには見えないけど、もしかしたら結構できたりするのだろうか。人は見かけによらないとは言うけど、とても信じがたい。
「むっ、なんだその顔。私はこう見えて勉強はできるんだぞ」
恨みがましげな視線を向けられる。自分で言っちゃうのはどうなのだろうと思うが、まあ、少しはできるのかもしれない。
「それで、そんな受験生が何してるの?」
「うん?あー、小旅行?」
小首を傾げる海里。なんでそこに自信がないのだろう。もしかして、自分探しの旅とかそういう類いのものだろうか。でも、やっぱり変な話だ。
「ここって観光地でもなんでもないんだけどね」
「うん、だからだよ。自由気ままな旅路は、人が少ない落ち着いたところの方がいいからね」
そう言って笑う。わざとこの辺りを選んできたのか。
「でも、それで僕に会ってしまったと」
「はははっ、そうなるねえ」
それは運がない。例えばその旅路が今日じゃなく、明日だったら、明後日だったら、もしくは昨日だったら、一昨日だったら。僕と海里は巡り会うことなんてなかった。
ただ、暇を持て余す僕にとって、その出会いは幸運だったのかもしれない。
「まあでも、静かなところもいいんだけどさ、そうすると賑やかな場所が恋しくもなるものなんだよ。矛盾してるけどね」
たしかに、賑わっているところに連れて行って欲しいという海里の願いは正反対だ。ただ僕には、この少女は海岸で黄昏れているよりも駅前で友達とぶらぶらしている方が似合っているように思う。
「それでさ、目的地までどれくらいかかるの」
「少なくともあと三十分はかかるな」
それに海里はげんなりした顔をする。
「そんなにかかるんだ……」
それから、右足を気にするそぶりを見せる。
「足、大丈夫?」
その右足に目を向けると、かかとのところが少しすれていた。靴擦れだろう。履き慣れていない靴みたいだ。
「うーん、大丈夫じゃない」
海里は苦々しげな顔でそう言い切った。大分、痛みがあるみたいだ。このまま歩かせるわけにはいかないか。
僕はかかとをさする海里の左側に立つ。
「自転車に乗っていく?」
その提案に呆けたような顔をする海里。僅かに視線を巡らせてから、こくんと大きく頷いた。
僕は海里に自転車を近づける。海里が手を伸ばしてハンドルを握ると、緊張したような面持ちで跨がった。それから、意を決したようにペダルを踏んだところでその車体がぐらっと揺れる。
僕が手を伸ばして支える前に、ガシャンと派手な音を立てて自転車は転倒した。
「あっぶなー」
海里は転倒を回避したようで、無残に横たわる僕の愛車の横に立っていた。
「もっと丁寧に扱ってよ」
別に新車ではないが、大学の入学祝いに祖父に買ってもらったものだ。貴重な移動手段として重宝しているため、壊れると困ってしまう。
「いやあ、ごめんごめん。いけるかなあって思ったんだけど、初めてじゃやっぱ難しいねえ」
ケラケラと笑う海里。
それと対照的に僕は驚きを覚えていた。初めて、と彼女は言った。つまり、
「海里って、自転車に乗ったことがないのか?」
「実はそうなんだよ」
なぜか自信ありげに胸を張る。全然誇れる内容じゃない。高校生で自転車に乗れないって、どんな人生を送ればそうなるのだろう。天然記念物みたいなやつだ。
「というか、それならなんで進もうとしたんだよ……」
「いやあ、いけるかなって思って」
えへへ、と頭を掻く。
「いけるわけないだろ……」
呆れて思わず苦笑を浮かべる。自転車を最初から乗りこなせる人間なんてなかなかいない。みな、補助輪や三輪から始めるのだ。
しかし、どうしたものだろう。海里は足を痛めているのだから、ここから歩いて行くわけにはいかないが、かといって自転車に乗っていくこともできない。 バスを使うのも手かもしれないが、残念ながらバス停はここから大分離れたところにあり、しかも僕らが向かっている目的地とは違う方向に進んでいってしまう。
頭を悩ませていると、ポンポンと肩を叩かれる。
「うん、どうした?」
「いい方法が思いついたよ」
そう言って海里は再び自転車にまたがると、痛めた方とは反対の右足を使って地面を蹴りながら車輪を回していく。僕はおおっと思わず感嘆の声を漏らす。そうか。自転車を漕げなくても進めればいいんだ。幸いここからの道は比較的なだらかに続いていく。その方法でも足をかばいながら問題なく進めるはずだ。 しかし自転車初乗りでよく思いついたものだ。
「まあ、あっちの子たちを真似ただけなんだけどね」
海里はそんな僕に種明かしした。たしかに反対車線には足で地面を蹴って自転車を進める少女と、それに追随して歩く少年の姿がある。
ふっふっふと笑う海里。なんだかその姿はひどく子どもびて見えた。
「よし、一帆。行くよー」
海里はそんな無邪気な声を上げて地面を蹴り出す。ワンピースとコートが風に煽られひらひらと舞う。そのまま自転車は海里を乗せてすーっとまっすぐに進んでいき、僕から遠ざかっていく。
「えっ、おいっ。ちょっと待てよ」
僕はその背中を追いかけるべく駆けだした。