出会い
海に行こうと思った。
大学一年生の春休みのこと。
なんとなく過ごす日々に嫌気が差して、何かしようと考えたときに、それが真っ先に思いついた。早速、コートを羽織り、自転車に跨がった。
国道沿いを風を感じながらペダルを漕ぐこと三十分。少しずつ潮の香りが増していき、目の前には防風林が広がる。信号を渡ってしばらく道なりに進んで、防風林の切れ目にある脇道に入る。
視線の先には、僅かに顔を覗かせた砂浜と海。自転車を降りて、細い道を駆け出す。防風林を抜けると、僕の視界に青々とした海が広がった。穏やかに波を揺らすその様子は、まるで僕を歓迎してくれているみたいで、なんだか無性に嬉しくなった。
自転車を邪魔にならないように止めて、スニーカーで砂浜を一歩、また一歩踏みしめる。砂に足を取られる感触すらもいまは心地いい。
僕は立ち止まって、大きく身体を伸ばした。晴れ渡った寒空の下、一人海を眺める。なかなか乙な楽しみ方ではないだろうか。平日の真っ昼間からこんなことをしている人間なんて僕ぐらいのものだろうな、とゆったりと辺りを見渡して驚く。
僕の右前方には、少女の姿があった。背を向けていて顔は見えないが、その黒髪は肩にかかるほどであり、白く透き通ったワンピースに身を包んでいる。そんな少女のたたずまいは陽光に照らされて輝く海と合わさって絵になっていた。
けれどもまだ三月も下旬であることを考えると、季節にそぐわない寒そうな格好ではある。
そんなことを考えながらぼんやりとその背中を眺めていると、不意に強い風が吹いた。砂の粒が宙を舞い、僕の身体や顔に打ちつけ、思わず目を閉じる。
風が収まったのを確認してゆっくりと瞳を開くと、こちらを半身で振り返る少女と目が合った。大人びた雰囲気で、それでいてやや童顔な顔立ちの少女だ。
少女は不思議そうな顔でしばらくこちらを眺めていたが、やがて何か思いついたように小さく笑みを浮かべると小走りで僕の方へ寄ってきた。
僕との距離が一メートル程になったところで、少女は立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。
「おにいさんってこの辺りの人?」
「うん、えっと、そうだね。ここからそんなに離れていないところに住んでるけど」
唐突なその問いかけに、思わず正直に答える。すると少女は嬉しそうに頷いた。
「そっか、そっか。いやあ、実は私、この辺りの地理に疎くてさ。もし良かったら、案内して欲しいな」
なんだかそれはひどく不思議な提案だった。土地勘がないという少女は、そうだとしたらなぜこの人気のない海岸に立っているのだろう。この海岸は電車の便があまりいいわけでもなく、迷子になったからといって辿り着くような場所でもないと思う。
「ねえ、だめかな」
あれこれ考えていると、少女がもう一歩踏み込んで僕の顔を伺ってくる。
僕はそれにゆっくりと頷いた。いろいろと疑問は残るけど、別にこのあと特段予定もないし、なによりその誘いは僕には魅力的に思えた。このまま家に帰るよりもよっぽど面白そうな展開だ。
「じゃあ、行こうか」
少女ははにかむと僕の手を引く。しかし、すぐになにか思い出したように止まってこちらに振り向く。
「そういえば、まだ名前を言ってなかったね。私は海里。海に里で海里。おにいさんは?」
無邪気な笑みを浮かべる。幼さを感じさせるものだ。
「僕の名前は一帆。岬一帆だ。よろしく」
少女、海里は顎に手を当ててしばし考える仕草を取るが、それから、じゃあ、一帆って呼ぶね、と笑った。そのくしゃりとした笑顔に胸がドキリとする。そして、僕の視線は彼女の顔を離れ彷徨い始める。
「うん、どうしたの?」
そんな僕の態度に不審げな海里。僕は僅かに後ずさって苦笑を浮かべる。
不思議そうな顔でじーっとこちらを見つめる海里と顔を逸らす僕。
そうこうしていると再び砂浜を風が襲う。少し冷ややかな風だ。
クシュン、と海里が可愛らしいくしゃみをした。やっぱり、その格好じゃ寒いみたいだ。
「よかったら、僕のコートを使う?」
海里はそれに嬉しそうに頷いて羽織った。サイズは全然合っておらず、すねあたりまで覆われる。ただ当の本人はさして気にした様子もなく、なぜかスケート選手みたいにくるりと一回転すると、ありがとうと微笑んだ。
それから、砂浜をたっと駆け出す。つま先とかかと、二つに分けられた足跡が砂浜にぺたぺたとつけられていく。少し違和感を覚え、海里の足下を見てみると、ハイヒールとまではいかないが、かかとが少し高くなった黒い靴を履いていた。
季節にそぐわない格好に、海にそぐわない靴。不思議な少女。
「おーい、一帆。何してるの。早くしないとおいてっちゃうよ」
はっと顔を上げると、海里が僕の自転車の前で手をぶんぶんと振っていた。
なぜあれが僕のだと分かったのか疑問に思ったが、よくよく考えてみれば、この砂浜にはいま僕と海里しかいなくて、消去法的に僕のものになるわけか。
いま行くよと答えて、砂浜を駆け出し、海里の前に辿り着く。
「ほら座った、座った」
その言葉に従うようにコンクリートのところまで自転車を押していって、サドルに腰掛けると、海里も自転車の後部に座った。
「って君、当たり前のように座るね」
首だけ振りかけると、頬を膨らませた少女の顔があった。
「君、じゃなくて名前で呼んで欲しいな」
「分かったよ、海里」
「よろしい」
満足げに頷いて、僕の腰に手をかけた。
当然のように二人乗りをする流れになったようだ。しかし、一年間の大学生活で衰えた僕の身体は、果たして人間二人を乗せていけるのだろうか。そもそも、この自転車の後部座席には体重制限があったはずだ。たしか、
「二十七だったっけ」
おもわず、その数字が口からこぼれる。
「えっ、なんの話?」
「あー、えーっと、今日の日付かな……」
その不思議そうな瞳に思わず顔を逸らしてしまう。
「今日は三十一日だよ」
「うん、知ってる」
きっと海里は僕の後ろで首を傾げていることだろう。上手くごまかせそうになくて、僕は黙ってペダルを漕ぎ始めた。