3話:伊賀と妙子のデートと大学生活
その後、同じ大学を受験することを誓い合い受験勉強に力を入れた。そして1986年1月下旬、二人とも中央大学文学部を受験して合格。受験の成功を祝し、3月、八王子に映画館でスティーブン・スピルバーグ製作総指揮のディープ・インパクトを見た。
「映画の途中、わー怖いと言い、伊賀に抱き着き、目を伏せたり、大はしゃぎ」
この映画は、地球に隕石あるいは彗星が衝突するという設定。
「彗星を爆破させるシーンでキャーと悲鳴を上げ異様な目で見られた」
巨大な津波によってニューヨークが破壊されるクライマックス・シーンでは、
「妙子が、きゃーと言い思いっきり、伊賀に抱きついた」
「周り人達が、映画よりも妙子さんの動きに注目する程だった」
映画を見終え、喫茶店に入ると、妙子さんが、
「ハラハラ・ドキドキで、すごく興奮したわ、面白かったと喜んだ」
それからも映画を楽しみ、その後の喫茶店で
「あーなりたいとか、妙子さんの夢を見る顔が、実に、可愛い」
その時、読んだ本の話や伊賀がの書いた小説を飛騨妙子さんが読んで感想とアドバイスをした。
「導入部のインパクトが弱いとか、ここはいらない、ここの描写をもっと細かくしなさい」
「ここは、泣かせる所で情熱的に書くべきだなどの指示が飛んだ」。
伊賀は、小説を書くのが、飛騨妙子さんは、読むのが好き。大学に入り2人で同好会見学した。その時、部室の前に掲げられた宣伝を見ていくと、ある同好会の前で伊賀が、立ち止まった。そこは、株投資研究会だった。
「バーチャル株投資の大学対抗戦での中央大学の結果が張り出されていた」。
それに興味を持ち、投資研究会に5月に入部。投資のイロハから学ぼうと考えた。その投資研究会に入部。
伊賀俊二は、同学年の中央大学法学部の朝永安男と理工学部電気科の常磐義彦と親しくなった。飛騨妙子さんも教育学部教育心理学科の杵渕聡美さんと仲良くなった。たまに、学食で、議論を交わしたりしする様になった。
朝永は、法律事務所を目指し将来は弁護士の免許を取りたいと語った。常磐はコンピューターに興味を持ち将来、個人で使えるコンピューターの時代が来ると予言した。また、妙子さんの友人の杵渕聡美さんは、現代社会のストレスに興味を持った。
現代の子供達が,大きなストレスににされされて、精神的な障害を持ったりする現状を危惧した。繊細な心の子供が対人恐怖症になったりする現代社会で社会に上手に順応できるようにしてあげる仕事をしていきたいと理想を語った。
妙子さんは、法学部に入り法律家を目指したい。もし才能がないと証券会社か銀行に就職して、しっかり、お金を貯めたいと話した。先輩たちは、その成績と投資の企業分析をした。細かく議論し難しい統計、標準偏差など難しい数式を使った。
その他、キャッシュフローとかROE「自己資本利益率」、PER「株価収益率」、PBR「株価純資産倍率」営業キャッシュフロー、フリーキャッシュフローなど難しい言葉を使い、議論をしていた。その話を聞いて数学が得意な伊賀はノートをとった。
そして、自分の今後の株投資に生かそうとした。そのため投資研究会の勉強会で、集中して先輩たちのやり取りを漏らさず聞いていた。終了後、帰っていった。しかし、妙子さんは、それほど数学は得意でなく、バーチャル株投資の大学対抗戦を戦ってる先輩を格好良いと思った。
その後、大学に通い、毎週2回の投資研究会に出席し、その時のテーマを聞いてノートに書きこんだ。学に入ってからの春休み、夏休み、冬休みにも家庭教師のアルバイトをして稼いでいた。今年の夏休み、妙子の実家の車を借りて、早朝、藤野を出発。
上野原から山に入り棡原を抜けて1時間で奥多摩湖に到着。湖の東の小河内まで湖を見ながらドライブし丹波山の自然休暇村へ立ち寄った。近くの丹波川の清流を眺め日陰で涼しんだ。その後大菩薩ラインを一ノ瀬川に沿って走り、塩山駅周辺のレストランに入り昼食を食べた。
食後、勝沼を抜け、甲斐大和から長い笹子トンネルを走りぬけ16時には藤野に到着。1987年8月8日、伊賀俊二の20歳の誕生日に八王子へ行った。やがて1988年となり、初詣に行き、家族の健康と株投資の成功しますようにとお願いした。
1988年3月の春休み妙子は、自宅でアルバイト、伊賀も自転車で大学進学を目指す高校生の家庭教師を掛け持ち。1988年4月、伊賀と妙子が、就職先について、喫茶店でお茶を飲みながら話し合った。妙子は、弁護士になりたいと語った。