いまなお、思い出すことができる。かつて愛した女の姿を、俺は。
静寂のなか、礼拝堂に佇むミゲールは室内を見回した。やがて深くため息をついて静寂を破り、彼は独語する。
「しかし、この教会もろくなものがないな。しけた教会だから仕方ないんだろうが」
ミゲールは右手で髪をかきあげる。
正直、ここはかなり寂れている教会と云える。
教会に入ったそのときから、ミゲールとしてはそうした感想を持たざるをえなかった。
これまでウルグス町に訪れたことは幾度かあるものの、この教会に足を向ける用がなく、入るのははじめてではある。が、こうまで貧しさが染み入っているような有様とは。
「まあこちらとしては教会は目こぼしし、はなから略奪する気もないが。教会は神に近づける場所。いわば神の庭先のようなものだ。一方で、こちらは神に許しを乞い、その恩寵あらんことを祈る身。
そんな立場で、神の庭先に等しい教会を荒らすなどもってのほかだしな。必要に迫られて、この教会の司祭は殺しちまったが。
もっともこの教会がこんな有様では、手を出す価値すらないかもしれんが。
こうも貧しく、なにもなくてはな」
つかつかと歩き、ミゲールは近づいていく。このなにもない礼拝堂のなかで、まだしも物が並べられている祭壇の方へ。
とはいえ、貧しい教会の祭壇だ。
やはりそこに並べられているのは、叩き売ったところで二束三文の値打ちもなさそうな物しかない。
しかし祭壇のそばに近づいたことで、これまでひざまずいて祈っていた位置からは見えなかったものがミゲールの目にとまることとなった。
「うん? これは?」
それは、祭壇の脇に埋め込まれていたちいさな石碑だった。その石碑には、簡潔にこう刻まれている。
『 困窮していたわが教会に援助をなされた、アルプレヒト公爵に感謝を。公爵を讃えるため、ここに石碑をつくる。
公爵令嬢クロード・アルプレヒト様の冥福も謹んで祈る。願わくば令嬢の魂魄が慈悲深き神の懐に抱かれ、その御許で安らかに憩われんことを』
「なぜ、こんなものがここに?」
驚きをもって、ミゲールはその石碑をみつめた。
クロード・アルプレヒト公爵令嬢。俺が愛したあの女。このアウルムトニトルス王国のなかで王家に次ぐ実力と繁栄を誇る、アルプレヒト公爵家。その当主、バルザック・アルプレヒト公爵の一人娘。
身分がちがいすぎて、愛してはいても手に入れられず最後にはあきらめざるを得なかった、あの王国一の美女と名高かった麗人。さすがにいまは歳月が経ち、想いも冷めてはいるものの、生涯けっして忘れられないであろう彼女。
そこまで心に焼きつくほどに、かつては恋焦がれた。
思い起こそうとすれば、いまでもすぐ鮮やかに俺の脳裏に浮かびあがる。
艶やかな長い黒髪。おおきく美しい黒い瞳。それらがひどく特徴的だったあの彼女の、凛然とした高雅な姿が。
その彼女の名が刻まれているとは。この礼拝堂の片隅に。
なぜだ? なんでこんな石碑がここにある? なにか関係があるのか? あの権勢家のアルプレヒト公爵家とのあいだに、こんな辺鄙な町に建つ教会が。
謎だ。いや。もちろん関係があるからこそ、設けられているんだろうが。こんな石碑も、ここに。
この自問のせいで、ミゲールはふと思い出す。頭の片隅に、かすかに残っていた記憶を。
待てよ。そういえば聞いたことがあるな。
この教会はたしか、公爵令嬢を通じてアルプレヒト公爵家にかかわっていたような。
それも、公爵令嬢の死後に。
こう思った直後、霧のかかっていた記憶がにわかに晴れる。これまでこの教会と縁がなかったせいでか、すっかり忘れていて思い出すこともなかったが。
ああ、そうだった。随分と昔のことなので、忘れかけていたが思い出しだぞ。
かつてひどく愛していたときには、彼女の情報をミゲールは敏感に触手を伸ばして仕入れていた。
その死後についての話も、過去に耳に入っている。
一度思い出すと、記憶は解き放たれたかのように鮮やかによみがえってきた。
もうかれこれ、十数年まえになるか。公爵令嬢が、何者かに惨殺されたのは。犯人が誰かは、完全に忘れたが。しかしそのせいで公爵令嬢は哀れにもあまりに無惨に変わり果て、彼女の屍はある町の近郊で打ち捨てられていたときく。
その町の名がたしかウルグス。そう、この町だったな。たしかこの町に公爵令嬢は寄って、どこぞの悪党の手にかかりそうした最後をたどったときく。
そしてそのときに公爵令嬢の遺体を一時的に引き取って丁重に扱ったのが、ウルグス町の教会。つまりは、この教会だった。
さらにその後、令嬢の父アルプレヒト公爵から多額の礼金が送られたとも聞いたな。娘のことで迷惑をかけた謝意として、この教会へ。
「公爵令嬢は殺されて、不幸な結末を迎えた。が、皮肉にも結果的に、そのおかげで救われたというわけだ。碑文にあるとおり、困窮していたこの教会は。
それでつくられたんだったな。この石碑は。公爵への感謝のしるしに」
謎がとけ、ようやくミゲールは納得がいった。
「だが感謝のしるしをこんなちいさな石碑一つで済ますとは、随分と吝嗇なことだな。この教会も」
ミゲールは鼻で嗤うが、その理由も納得はできた。
公爵から礼金を賜ったとはいえ、この教会が贅をつくせるほど潤ったとは聞いていない。礼金は多額だったが、教会はそれで困窮から脱するのがやっと。そんな状態だったと俺は耳にした。
おかげでそこまでの余裕はなく、礼金への感謝を示そうにもこんな石碑を建立するのが精一杯だったようだ。
それでも教会に工面できる最大限の金を、建立にあたって費やしたようだが。
思い出してからミゲールは石碑を見回し、裏にもなにかあることに気づく。
うん? ミゲールは石碑の裏に回った。
石碑の裏には一振りの剣があった。剣は、石碑の裏に立て掛けられている。その横には、またしても碑文があった。今度は、ひどく短いながらも。
『剣を欲するなら』
こう石碑の裏に刻まれている。その碑文を見てミゲールは悟った。
そういえば、これも昔に聞いたな。
公爵令嬢は殺されたとき、丸腰だったという。それで彼女の死に接したこの教会は気遣ったようだ。死した公爵令嬢に対して。
せめて剣があれば、公爵令嬢も身を守れたかもしれない。令嬢にも多少、剣の心得があったようなので。それならばもしその霊が在れば、剣に未練を持つかもしれない、と。
そこで一振りの剣を、その霊への供物として教会は捧げたという。石碑を墓標に見立てて、慰霊のための祭祀を取りおこなっていたとも聞いた。
霊への気遣いなどまことに教会らしいが、その真意は必ずしも最初は善意から出たものではないようだ。
石碑の建立からはじまり、供物や祭祀。そのすべては、アルプレヒト公爵家との癒着を望んだからおこなわれたという裏話もある。
公爵への感謝や死した令嬢への気遣い。それらを示すことで公爵家と友好的な関係を深め、この教会は計算高くも得ようとしたと聞く。より多大な援助を、アルプレヒト公爵家から長きに渡って幾度も。
もっとも公爵から援助は差し伸べられたものの、それは謝意を教会に示したときの一度でとどまったようだ。そうした事実からすると、この教会の企てはうまくいかなかったようだが。
ミゲールは静かに嗤う。
聞いた話では、この教会はアルプレヒト公爵から結局は相手にされなかった。
いくら娘の件で迷惑をかけたとはいえ、一旦は礼をすましたからにはそれ以上みすぼらしいこんな教会に公爵は興味を惹かれなかったようだ。
やがて縁すらもまったくなくなってしまうほどに接点はなくなり、癒着を深めることなどはこの教会もあきらめたらしい。
そしてそれ以後は、本当に善意から公爵令嬢の鎮魂を細々としていると聞いた。だから剣も、未だにこうしてここに令嬢のために捧げられているのだろう。
ふん、とつぶやくとミゲールは剣を手に取った。
鞘から刃を引き抜く。ミゲールは、その刃をしげしげとみつめる。この一振りには、なんらの価値もない。安手の剣でしかない。どこででも入手できるような、貧乏な教会に似合いの一振りだ。
そういえば、この剣についての話も聞いたことがあったな。ミゲールは思い出す。
当初、教会は捧げる剣、高価な品を用意しようとしたという。石碑同様、教会が工面できる最大限の金を支払って。
石碑にしろ剣にしろ、かりにもこの国で王家を除けば最高の名家であるアルプレヒト公爵家の人間に捧げようというのだ。あまり粗末な代物を捧げては公爵の反感を買いかねず、癒着を深められない。
そういう意図が働き、教会がわも当初は石碑の建立と同様に捧げる供物についても多少の無理をしようと考えたということだった。
しかし、この町は悪党の巣窟でもある。あまり高価な品を用意すれば、それを金に換えようとする悪党に持ち去られてしまう危険がある。石碑に関しては床に埋め込んでしまえば、盗むなどは難しい。なので公爵への謝礼の意味あいもあってそこそこ贅を尽くしたようだが、剣はべつだった。
不用意に置いておけば、簡単に盗まれてしまいかねない。だったら教会としては財政的に苦しいのに、高価な剣を用意しても意味がない。
ゆえに令嬢に捧げる剣は、わざと安手のものにしたという側面もあるらしい。その程度の品なら、よしんば誰かに盗られたとしてもすぐにべつの一振りを用意できるというわけだ。
もっとも、売ったところで二束三文にしかならない安手の剣などは誰の興味も惹かなかった。一度として盗まれることもなかったという話だ。
このように、こんな安手の一振りにもそれなりのいわくはあった。
ミゲールは剣の刃を鞘におさめる。
いずれにせよ、この剣には興味はない。
この一振りに比べたら、はるかに自分の剣の方が高価で質がよい。いまの自分の剣より優れているなら良品を使う方がいいので、持ちさることも考えなくもなかったが。
ミゲールは、石碑の裏に剣を戻す。
「捧げられている以上、これはあなたの剣だ、公爵令嬢。持っていく気はありません。お返ししますよ」
微笑すると、ミゲールはふたたび歩んで祭壇の正面に立つ。
かつて公爵より一度は援助の手を差し伸べられたものの、ずっと困窮して結局は財政的に潤えなかったこの教会の祭壇も見るからにみすぼらしい。
その石造りの祭壇は、下にまず大きな台座があった。
そのうえには、先細りになっているやや棒状の三角の石が立つ。
これらだけを見ても年代物で古びており、歳月を経たことによる汚れや傷も各所に目立つ。
さらにそのうえには菱形の石板が取りつけられていた。
その石板は神の紋章だった。
それゆえ神聖なものだと、この世界で席巻している宗教のなかではみなされている。世間の人々から崇められる対象ともなっている。
この世界の多くの人々に信じられていることから。
貴き鎖教。そうした名を冠する、その宗教が。
そう名付けられた由来は、その宗教の教えの一文からきている。
その教えは神から下されたものであり、人々を戒めながらも救う貴き鎖。
こんな一文があることから、その宗教にそうした名がつけられたのだ。
貴き鎖教は悠遠大陸の隅々にまで広がっていることもあり、この神の紋章はよく見られる。この世界のいたるところで。
その紋章はひし形の石板のなかに、いくつものちいさな鎖で編まれた線で精妙に刻まれている。
大小さまざまな、数多くの重なりあった星が。
石板のなかには同じく鎖状の線を使ってほかに太陽や月、百合や雷、天秤の姿も美しく芸術的に彫りこまれている。
ただし、この祭壇の紋章の大部分は色褪せている。
彩りはほぼ剥げ落ち、石の下地がありありとあらわれていた。
本来の紋章はもっと色鮮やかなのだが、ここにある代物はいかにも年経て古ぼけているといった印象だ。
それでも、いかにみすぼらしくとも祭壇は依然として神聖さだけは失わずに保てている。
それもひとえに、崇める対象とされているこの神の紋章があるおかげだろう。この紋章は長きに渡って、悠遠大陸の人々に崇拝されてきた。
その状況は、いまなお変わらない。貴き鎖教を信じる人々同様、ミゲールの目にもこの紋章は神々しく映る。
ミゲールはその紋章の神聖さに打たれて、またも祈りを捧げる気になった。片膝を床につけて、ひざまずく。
しかしいま祈るのは、この町で犯す罪の許しと自分たちの勝利を神に乞うためではない。あらたに祈りたいことが一つできたからだ。
「これも、なにかの縁だろう。かつて愛した女とかかわりのある教会に、この俺が立ち寄ったのも。まあ、ここに来たついでだ。せっかくだから祈ってやるよ、公爵令嬢。あなたの冥福を、神にな」
両手を組みあわせたミゲールは目をつぶると、ふたたび神に祈りはじめた。神聖な静謐さのなかで。




