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ルートヴィヒは自らの部屋で、一人思う。

 夜の静寂のなか、うめき声が部屋にかすかに響く。


 ようやくルートヴィヒは目を覚ました。


 どうやらかなりのあいだ、意識を失っていたらしい。意識を失う直前のことは、あまりはっきりとは憶えていない。苦痛がひどくて、そのときにはほとんど気を失いかけていたせいだろう。けれど多少の記憶は残っている。


 ほかの弟子二人に部屋に運ばれたこと。そのまま部屋に投げ捨てられたこと。そのときには、まだ窓から夕陽が射し込んでいたことも覚えている。


 いまでは陽は、とうに沈んでしまっているようだけど。外には夜の帳が降りている。そこそこの時間、気を失っていたのはたしかだろう。


 すこしばかり小腹が減っていることに気づいて、ルートヴィヒはくすくす笑う。


 もちろんずっと気を失っていたために、まだ夕食にもありついていない。お腹が減るのも当然だけど。


 身がぼろぼろなのに、お腹が減るとはね。悪くない傾向なんだろうけどさ。まだ食欲があるなら、散々に痛めつけられていても躰はそこまで弱り切った状況になさそうに思えるしね。


 けれど、そんなにすぐには食べたいと思っているわけじゃない。ということは、やっぱり躰は結構ひどい状況にあるのかな? 


 かもしれない。躰の節々がまだひどく痛む。いまは食を取ることなんかよりも、なにもせずただただ身を休めたい。それもきちんと柔らかな寝台に横たわりたい。こんな欲求がひどくあるんじゃ、やっぱり躰は弱り切っているんだろうね。


 第一、床にこのまま倒れ込んでいるよりも、いまはそうした方がずっとましだろう。躰の痛みだって柔らかい寝台で身を横たえれば、すこしは和らげられるかもしれないしね。


 ルートヴィヒは、自室に置かれた寝台へ向かおうとする。とりあえず視界は利く。月の鈍い真鍮色の光が窓から射し込んできていた。彼は腕に力を込めて上体を起こそうとしたが、途端に舌打ちをせざるを得なかった。


 痛みが走り、躰がろくに動かない。立ち上がるのが難しい。ただし、手足は多少効く状況だ。芋虫さながら床を這いずって動くことくらいはできるだろう。


 なんとか寝台にたどり着こうとして、彼はすこしづつ躰を動かした。ゆっくりと寝台の方へ這って進む。我ながらみっともない姿だが、いまはそんなことは云っていられない。


 でも、くそ。動くたびに、躰がきしむようだ。ルートヴィヒは苦痛に顔を歪ませる。それでもなんとか躰を引きずって、寝台のもとにまでたどりついた。


 寝台に身を置きたかったが、立ち上がれるほどには足に力が入らない。


 ならばと寝台に手をかけ、腕の力で上体を起こそうと躍起になる。そのまま寝台をよじ登ろうとするものの、どうしても痛みで躰に力が入らない。


 仕方なく、無理に動くことはあきらめた。床に腰を下ろし、背を寝台に任せてとりあえず身を休めることにした。柔らかな寝台に身を横たえることに未練はあるが、いまはどうしようもない。


 ルートヴィヒは、深くため息をつく。


「まったく、かなり手ひどくやってくれたもんだよ、あいつらも」


 ルートヴィヒは左腕だけをまえへ伸ばし、その様子を見る。


 すらりとしたその腕も弟子たちによって蹴られており、あざが各所にできていた。きっと躰には傷つけられた部分が、ほかにも山とあるだろう。躰の各所が、こうもあちこち痛むんじゃ当然ね。


 二週間前にも師によって、これくらい派手に痛めつけられてようやく躰も回復したばかりだったというのに。また逆戻りだ。


 まあ、ここまで痛めつけられたのも自分のせいだけどね。


 冷笑を放つ。


 俺が師や弟子たちに手傷を負わせたことで、奴らの怒りを買ったからなんだしね。そのことを、べつに後悔したりはしてないけれど。


 手傷を負わせようが負わせまいが、どのみち訓練の際には師やほかの弟子たちにこちらはかなり痛めつけられるんだ。


 だったらそうなるまえにせめて相手にも痛手を負わせてやった方が、ただやられるよりかはよほどいい。いままでもずっとそう思っていたこともあり、訓練のときにはいつも師や弟子たちに手傷を負わせることを狙って全力で攻撃してもいた。


 だから今回の訓練でもそうしてやったんだが、その結果は上々と云えるだろう。


 ルートヴィヒは、くすりと微笑む。


「いつもよりは、今日は全然ましだよね。とりあえず師にも手傷を負わせられたし、ほかの弟子連中もはじめて倒せたわけだから」


 これまでは訓練だろうが私闘だろうが、対峙したとしても師を傷つけることなんてまるで無理だった。あの二人の弟子たちも対戦した折に、多少の痛手を与えられても倒せなどしなかったのだ。


 なのに今日は違う。


 これまでは実力差がありすぎて、まるで敵わなかった師を蹴倒すこともできた。弟子たちも今日は普段と異なり、はじめて倒せもした。一対一で対戦しても、最後にはいつも奴らにはやられてしまうばかりだったというのに。


 ただしそのあげく怒りを買って、これほどまでに痛めつけられはしたけどね。


 でも自分にしては、上々の結果を得られたと思う。そのことによって満足しこそすれ、後悔などするはずもない。訓練で望ましい戦果を挙げられた今日は、記念すべき日だ。そう云えなくもない。


「こうまでやられていては、素直に喜べないんだけどさ」


 ルートヴィヒは伸ばしていた腕で、長い黒髪を掻きあげる。


 上々な結果に満足感はあるものの、これほど酷い目にあわされては負の感情が昂ってくる。


 ルートヴィヒの顔に陰が射す。


 幼いころは、こういう目にあわされたときはひどく泣き濡れたものだった。


 いまでは成長し、すこしは大人になって心が強くなったこともあってそんなことはない。

 幼子のようには、もう振舞えないけれど。


 かといって酷な目にあわされてしまえば、その苦しみを完全に失くせるわけでもない。


 酷な目には何度あっても、慣れることもない。


 心無い振る舞いにあえば、傷つくことだってある。場合によっては、その振る舞いが鋭利な刃となって自らの魂を深く切り裂いていくことも。


 のみならず自らの魂が、黒い焔で焦がされてもいく自覚もあった。いまだって、俺の内面には渦巻いている。怒り、悲しみ。悔しさ。屈辱。憂鬱。悲哀が。


 それらありとあらゆる負の激情は酷な目に幾度も遭わされる都度、俺の奥深くに根ざして堆積していく。幼いころからそうだったように。


 その堆積した負の感情が、ルートヴィヒの黒い瞳に憂愁の色を帯びさせていた。


「ここまで痛めつけてくれるとは、本当に奴らはひどい」


 憂愁の瞳で腕のあざを見つめていると、ふと彼は確かめてみたくなった。自分がどれだけの傷を負ったのかを。


 苦痛に顔を歪ませながらも、そばの小卓のうえに置かれた手鏡に手を伸ばす。


 その手鏡はこうして痛めつけられることがよくあるので、どれほど傷つけられたのかを知るためによく利用するものだ。


 手鏡を手に取ったあとは、まず顔にかざす。


 顔には傷一つ、ついていない。


 考えてみれば、当然だ。弟子どもには散々蹴られたが、そのとき奴らも頭への攻撃は避けていた。奴らもあえて俺の頭部を傷つけようとは思わなかったからだろう。俺が死んだりする大事があっては困るのは奴らだしね。


 いつものことだ。連中は俺を痛めつけるとき、大概は避けるから。俺の頭部への攻撃は。


 奴らとしても、狙えるわけがないものな。師は弟子に禁じているしね。


 ほかの弟子に極度の負傷を負わせたり、その命を奪ったりすることを。


 師が弟子を必要としていることから。


 もし俺が奴らの手にかかって死んだり動けなくなったりすれば、奴ら自身が師の怒りを買ってしまうことになる。


 奴らにしても、そんなことになって師にひどい仕打ちを受けるのは嫌だろう。


 そんな展開をあえて迎えるほど、奴らも愚かではないはずだしね。


 ルートヴィヒは低く嗤って、なおも考える。


 それに弟子だけではなく師にも、今回は顔を傷つけられた覚えはない。


 腹部については、俺が師を打ち倒したあのときに仕返しとして散々に蹴られたが。


 しかし、頭部は攻撃をされたなかった。おそらくは、手心をくわえたのだろう。下手に頭部へきつい攻撃を仕掛けることで、俺を失いたくない。そう思ったのだろう。


 もっとも師にもほかの弟子たちにも、ときに例外的に頭を傷つけられることがありもする。余程、連中が激昂していて頭に血がのぼり、我を忘れていたときにはとくにそうだ。


 だが今回、師もほかの弟子たちも激昂していたが、我を忘れることはなかったようだ。


 どうやら頭部には、さほど傷がないみたいだしね。


 ルートヴィヒはとりあえずほっとすると、今度は上半身の服をすこしうえにめくって自らの腹部を見た。かなり蹴られたこともあって、腹部にはひどいあざがついている。


 背中はどうだろう。様子を見るべく、背後に鏡を向ける。同じだった。あざだらけだった。服をめくって手足を見れば、もちろん傷ついている。


「ふふ、ひどい姿だね」


 ルートヴィヒは微笑した。とりあえず確認を終えたことで、鏡はもう必要ない。ベッドのうえに置いた。ため息をつく。


 過去には、もっと酷く痛めつけられたこともある。最悪のときと比べれば、今回の負傷の度合いは随分とましだろう。それでもどちらかといえば、今回は派手に師や弟子に虐げられた部類に入る。


「奴ら、いつも俺を酷く虐げやがって」


 一瞬、心のむかつきを抑えきれずにルートヴィヒは憤った。いまやルートヴィヒは自身の考えに夢中になっていて、なにもせずに休むという気にもうなれなかった。


 昂った感情によってさらに自分の考えに囚われながら、ルートヴィヒは瞳に深い憂愁の光を湛えて天井を眺める。


「逃げ出したい。本音を云えば、ここからね」


 ルートヴィヒは深く嘆息する。


「こんな暮らしからは、すぐにでも抜け出したい。もう嫌だ。死刑執行人として人から憎まれたり、嫌悪されるなんて。師やほかの弟子どもに痛めつけられる、こんな暮らしを送るのも」


 その気持ちは、幼いころからずっとある。俺の心のなかに。


 死刑執行人というだけで、どれだけ俺は人から蔑まれてきたことだろう。処刑のときにはもちろんのこと、日常でも人からひどく暴言を吐かれるなんてことはしょっちゅうだ。物を投げつけられたり、手も出されたりだってする。


 なんでそんな振る舞いを、こちらは人から受けなくてはならないんだろう。こちらはただ、自分の務めを忠実に果たしているだけなのに。


 師も弟子連中も、こちらに悪意を持ってひどく俺を虐げる。


 いままで程度の差はあっても、俺は連中に苦しめられてきた。


 今日のように訓練でひどい目にあわされることもあれば、ちょっとした嫌がらせを受けることまでいろいろあった。


 師の気まぐれやその機嫌をすこし損ねただけで殴られ、何日も食事を抜かれたこともある。訓練以外でほかの弟子たちに喧嘩を吹っかけられて、散々に痛めつけられたことなどいくらでもある。


 これまで世間の連中や、師やほかの弟子たちにいたぶられた覚えは数え切れないほどあると云っていい。でもなんだって、俺がそんな目にあう暮らしを送らなくちゃならない?


 いますぐにでも抜けられるなら、こんな暮らしとは縁を切りたい。もしそれが叶うなら。


 ルートヴィヒは切実にそう思った。

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