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はじめてだ。信じられない。自分でも。

「はじめろ」


 師はそう命じたが、二人はすぐには動かなかった。

 ルートヴィヒは、ぜいぜいと喘いでいる。はじめろと云われても、こちらはなんとか立っているという状態だ。未だに、躰はろくに動かない。こちらから相手に仕掛けられるはずもない。

 

 そうしたルートヴィヒの状況は、その苦しそうな姿を見てゴーマにもわかった。

 どうやらルートヴィヒの奴の躰の具合は、まだよろしくないらしい。師に手ひどくやられたばかりだから、当然だが。

 その反面、俺の方はまだ躰は痛むが、しばらく休んだこともあってかなり動けるほどに回復している。

 だったら、こちらから仕掛けるか。

 

 ゴーマは徐々に、ルートヴィヒの方へ近づいて距離を詰めていく。


 俺が勝つ。

 ゴーマは自分の勝利を信じて疑わない。

 たしかに、ついさきほど自分には到底できないことをルートヴィヒがやってのけたときは驚いた。

 なんと、あのひどく強い師を蹴り倒すとは。正直、信じられなかった。

 この俺だってそれ相応に、剣や体術の技量を練ってきてはいる。その俺でさえ師の躰になんらかの攻撃を決めたことなど、かつて一度としてないのだから。

 

 しかし師を蹴り倒したとはいえ、それをやってのけたのは所詮この俺より弱いルートヴィヒ。

 

 師が倒されたのだって、どうせすこしばかり運がルートヴィヒの味方をしたに決まっている。

 あるいはいつもの、奴によくあるまぐれか。それとも、師が油断でもしていたのかもしれない。

 

 いずれにせよ師を蹴り倒すという自分にできないことを奴がやってのけたからといって、剣の実力でルートヴィヒに抜かされたと思うのは尚早というものだろう。

 

 これまでだって俺は、何度となくルートヴィヒを訓練で打ち倒してきた。

 喧嘩であろうと、戦えば必ず勝てた。最近は奴も実力をつけてきたので、苦戦することがあるにせよだ。

 その事実を踏まえれば、ルートヴィヒの奴は俺よりも実力で劣っているのはあきらか。

 しかもいまの奴は、俺よりも深い痛手を負っている。

 いまは俺の方が、腕も体調も有利な状況にあるんだ。

 

 そんな状況下で、ルートヴィヒに不覚を取るだなんてことがあろうはずもない。

 

 すでに俺の手で、ルートヴィヒが打ち倒される情景が目に見えるようだ。


 ゴーマの唇に残忍な笑みが浮かぶ。


 いつものように叩きのめしてやる。

 そもそもこの俺はルートヴィヒを憎悪して、奴と敵対してもいる。

 憎たらしいルートヴィヒをこのまま戦えば今日も叩きのめせると思うと、うれしくてならねえや。

                   

 ひるがえり、ルートヴィヒの方でも自身の考えに浸っていた。

 

 また今回もやられてしまうかと思えば正直、戦いたくない。

 

 ちらりとゴーマの表情をうかがう。

 

 相当に自信ありげだ。今回も自分が勝つ。そう確信している顔だ。

 さもあろう。奴は常に、俺に勝ってきたんだ。負けるだなんて、ついぞ思わないのだろう。

 

 でも俺にだって、一縷の望みがないわけではない。


 俺の実力は、たしかに上がったとは思う。

 その実感はある。その実力次第では、自分が勝つ状況も生まれるだろう。

 自分の不利な状況をものともせぬほどに、格段に実力が上がっていれば覆すことだってできるだろうから。自分の不利を。

 でも果たして、そこまで俺の実力は上がっているだろうか?

                   

 軽く首をひねる。


 自分ではわからない。だけど、俺はやってのけたんだ。

 弟子の誰もが、やってのけられなかったことを。師に一撃をくわえ、蹴倒すということを。

 だから実力が、かなり伸びているという可能性はある。それを期待したいところだけれど反面、不安もある。


 ルートヴィヒは柔らかな吐息を短くつく。

                   

 じつのところ俺の実力が、たいして伸びていないということもあり得る。実力が上がったと思う根拠は、師に一撃をくわえたことだ。

 実力でできたというならいいんだが、もしかするとそうじゃないかもしれない。

 自分の力によらず、師が油断して俺を甘く見すぎたためかもしれない。単に運が味方した、さもなければその両方が重なったため。たったそれだけのことかもしれないんだ。

 そういう見方もできる。もちろんこちらの実力が上がった実感はある以上、多少そのことも寄与したのかもしれないけどね。

 

 でもその見方が真実であるならば、こちらの勝てる見込みが薄いのはあきらかだ。あまつさえ、不安に思う要素はいま一つある。

 

 この俺は二週間まえにほかの弟子たちに負けたばかりなんだ。だったらやはり負ける見込みが、今回も高いんじゃないのか? たった二週間。そんな程度の短い期間じゃ、実力が大幅に伸びるってことなんてまずなさそうだしね。

 

 そう考えてルートヴィヒはすこしばかり悄然と弱気を見せはするものの、それも一瞬だった。すぐに毅然とこうも思い直す。

                   

 かといって、むざむざ負けてやる気になんて到底なれやしないけど。

 今回勝負をしたとしても、結果はこれまでと同じ。最後には、叩きのめされるだけなのかもしれない。だとしても、全力で抵抗くらいしてやる。せめて、ある程度の痛手をゴーマにも負わせてやろう。


 胸のうちで決意する。

                  

 誓ってやってやる。その黒い瞳に闘志も燃やす。


 誰と対戦するときもそうだけど、悔しいものだしね。相手に敵わず、ただ一方的にやられてしまうというのは。

                   

 やがて間合いが詰まり、二人は戦える位置にまでたどりつく。途端にまずはゴーマが動く。勝つ確信もあって気持ちがはやり、先攻をとった。


 ゴーマは得意げに前方へ跳躍し、ルートヴィヒに踊りかかった。ルートヴィヒの胸を狙って、ゴーマの突きが襲いかかってくる。


 一方でルートヴィヒも苦しそうにしながらも、右手に持った木剣でゴーマの胸を狙って突きを放つ。

                   

 突きと突きが交錯する。


 次の瞬間、木剣が突き刺さったのはゴーマの胸元だった。


 ルートヴィヒは突く際に、左の半身をわずかに後方へひねってずらしていた。そうすることでゴーマの突きを躱し、同時に右腕を伸ばして相手の胸に木剣を見事命中させたのだ。

                   

 うぐっ、という声を漏らしてゴーマは木剣を手放した。木剣は床に落ちて転がる。ゴーマはその場に倒れ込んだ。ぐぐぐ、とうめきながら胸元を両手で抑え込んで床にうずくまる。そのまま動けなくもなった。


 その光景を、ジマは意外そうな表情をして見ていた。

 まさかな。俺にしてみれば、ルートヴィヒとゴーマとの戦いの結末は予想外だ。思ってもみなかった。普段から俺らに実力が劣り、そのうえいまかなり弱っているように見えるルートヴィヒが勝つことになるとは。

 唖然とするしかない。

                   

 ルートヴィヒ自身にとってみても、いつも負けていた相手に勝てたことが意外だった。


 実力が上がっている可能性には気づいていたが、まさか勝ててしまうとは。ゴーマに勝ったのは、これがはじめてだ。その勝利を喜ぶよりも、信じられないという思いの方がさきに立つ。

                   

 俺は本当に勝てたのか? 

 

 どうしても信じられなくて、ルートヴィヒはうずくまって苦しそうにしているゴーマの方を見やる。

 ゴーマが倒れているというからには、どうやらそのようだ。でもそうなるとは、ほとんど思っていなかった。

  

 けれど勝負が終わってみれば、勝ったのは俺だった。


 ならこの勝利は、俺の実力によるものか。勝ったからには、そう思っていいのか。

 しかもこうも容易く勝てたということは、不利な状況を覆せるほどに俺の実力はやはり格段に上がったとみるべきなのか。

  

 俺の力はいまや凌駕しているのだろうか? すでにゴーマの力を。

 

 これまで一度として勝てなかった相手に、不利な状況で快勝したんだ。その事実をもって、凌駕した証と見ていいのか?

 

 いや。ルートヴィヒは思い返した。目を細め、思いがけない勝利に興奮していた自分を冷ややかに見つめた。予想に反して番狂わせの勝利を得て、思わず喜びに酔いしれそうだった自分を嘲りもする。

                   

 違う。なにを考えている。まだそう思うのは、早いんじゃないのか? 

 師に一撃をくわえたのに引き続き、単なる偶然で今回の勝利にしてもやってのけたに過ぎないかもしれないだろう? 偶然が二度続くってことは珍しくない。その可能性は充分にあるよね。

                   

 その美しい唇を歪めて嗤う。


 それにしたって、勝ちはしたんだ。はじめてゴーマの奴に。だから、うれしくないはずはないんだけどさ。その可能性があると思ってしまうと、勝っても素直には喜べないな。

                   

 苦笑するとルートヴィヒは、なんとか立つ体勢を維持しようとして木剣を杖代わりに寄りかかる。

 

 うう、とルートヴィヒはうめく。立つのも辛いが仕方ない。

 師によってつけられた苦痛が引いていないのに、ゴーマと戦ったんだ。その無理が祟り、かなりの負担を躰に掛けたようだ。

 

 痛みが躰を蝕んで疲弊と消耗を与え、ぜいぜいとルートヴィヒは喘ぐ。

 ただそうして立っているあいだにも、彼の黒い瞳はゴーマを捉えている。


 どうする? このときルートヴィヒは迷っていた。倒れ込んだゴーマを、さらにいたぶってやるべきか。その思いが脳裏をかすめていた。

 

 ゴーマとは敵対しているし、憎い相手だ。大体、いつもは俺がほかの弟子と対戦して倒されたあとに、こちらが奴らにかなり蹴られたりしていたぶられることもよくあるんだ。ほかの弟子どもは、この俺を憎んでいるしね。

 だったら今日は、こちらがせっかく勝ったんだ。

 この機会に、これまでの仕返しとして倒れているゴーマを逆にいたぶってやるというのも悪くはない。


 ただ、ルートヴィヒはこうも思い直す。

                   

 とはいうものの、ゴーマは師に目を掛けられて大事にされている。そんな奴を、このうえ師の目前でいたぶるのはさすがにまずいか。

 訓練で戦ったうえで、結果的に痛めつけてしまうのはいい。訓練は、師がすすめたことでもある。師にも許されるだろうが、倒してからもいたぶればすぐに止められてしまいそうだ。だったら、いたぶろうとするだけ無駄だろう。

 それに、いまは俺も苦しい。なるべくなら動きたくない。倒れたゴーマをいたぶることは、やはりあきらめるざるを得ないか。


 ルートヴィヒは眉をひそめる。

                   

 でもとりあえずは、せっかく自分が勝つことができたんだ。せめてゴーマが悔しがることくらいは云ってやろう。

 そうルートヴィヒは思った。消耗しているので、口もあまり開きたくないが。けれど、すくなくとも一言くらいは。


「はっ、ざまをみろ」

                   

 ルートヴィヒは微笑してゴーマを見下し、勝ち誇って見せた。

 

 もちろんいくらゴーマを大事にしているとはいえ、これくらいで師が目くじらを立てることもなかった。

 

 勝ち誇っているようだが、好きにしろ。その程度の科白をゴーマにルートヴィヒが吐き捨てたところで、所詮はたいしたことはないしな。師はあえて聞き逃してやることにした。

                   

 まるで関知しないような師の素振りは、ルートヴィヒにとっては思った通りというところだった。もちろん師の怒りを買わないと踏んだからこそ、こんな科白をこちらはゴーマに吐いてやったのだ。その甲斐も、どうやらあったようだ。

 見れば、ゴーマの顔に悔しそうな表情が浮かんでいる。あんな些細な科白だけでも、多少なりともゴーマの矜持を傷つけられたようだ。

 結果に満足し、ルートヴィヒはほくそ笑んだ。

                   

「ふん、なかなかやるな」

                

 そうつぶやくと、椅子に深く寄りかかって師は酒樽を口に運んで麦酒を飲んだ。

                   

 すこし意外だった。

 よもや、ルートヴィヒが勝つとはな。ゴーマより深手を負っていて、奴の方が不利な状況であったにもかかわらず、ものともせずに。しかも苦戦もせず、こうもあっさりとゴーマを打ちまかすとは。

                   

 師は上体を沈めると、考え深げに顎先を指に乗せる。


 またも、まぐれが出たのか? 師はルートヴィヒに猜疑の目を向ける。俺を蹴倒したときと同様、今回もふたたび運に恵まれたということか?

 瞠目する真似を、またしても立て続けにやってのけたのはそういうことか?

 今回の奴の勝利は、ただそれだけのことやもしれんな。さもなければゴーマが格下のルートヴィヒが相手と油断し、それによって生まれた隙を突いて勝利したのやもしれん。

                   

 ここまで考えて、師は首をわずかに横に振った。こうも思い返しもする。


 さりとて、実力で勝った線も否定できんな。もしそうだとするならば、このような結果が出るということはだ。ルートヴィヒが実力で、すでにほかの弟子を抜き去ったということだろうか?

 そういえば、さきほど手をあわせた際に、ルートヴィヒの動きは速いような気もしたな。ほかの弟子の動きに比べて、ほんの幾分だけであるにせよ。


 師は片眉をあげる。

                  

 俺は侮ったか? ルートヴィヒの奴を。俺を蹴倒したのは、まぐれではなかったということか。そんな真似ができたのも、ほかの弟子を上回る力を持っているからこそか。

 そう考えれば、奴がゴーマに快勝する結果が出ることに一応の筋は通るが。


 ふむ、とつぶやく。一戦させただけでは、まだはっきりとわからんな。師は上体を起こし、軽く肩をすくめる。

  

 まあその実力のほどの見定めは、次に持ち越すとしようか。訓練もまだ終える気もない。もう一戦させて、ふたたびルートヴィヒを試してやろう。その力を、確実に見定めるためにもな。

                  

 師はあらためて考える。では今度の対戦相手は、ジマとするか。見れば、ゴーマはまだ苦しそうにうめいている。

 負けたゴーマは、しばらく動けなさそうな状況だ。再戦は無理そうだ。引き続きゴーマの奴にやらせるよりは、動ける状態にあるジマをぶつけた方がいいだろう。

 その結果で、ルートヴィヒの力もわかるだろう。

                   

 師は酒をふたたび飲むと、ゴーマを見やる。

 しかし何はともあれ、とりあえず俺が大事にするゴーマが苦しそうなのが気にはなる。

                   

「大丈夫か?」


 優し気に師は尋ねてみる。ゴーマは渋面をつくりながらも、はいとうなずく。だがその様は、いかにも苦しそうだ。そこで師はジマに命じる。

                  

「ゴーマがそこにいると、次の勝負の邪魔になる。ジマ、またゴーマをどこぞへ連れて行って休憩させろ」


 ジマは首肯して動こうとするが、ゴーマが手を挙げて押しとどめる。


「いい、自分で行ける」


 ゴーマはゆっくりと立ち上がり、よろよろとその場を離れようとする。その姿を見ながら、師はまたも考え込む。

   

 そう。ジマと戦わせれば、ルートヴィヒの実力が今度こそ見定められよう。ジマも少々痛めつけたが、ルートヴィヒほどにではない。そのぶんだけ、勝負はジマに有利なはず。

 ならばルートヴィヒの実力がほかの弟子どもと対等かそれ以下なら、有利な状況にあるだけにジマが勝つ。もしそうではなくルートヴィヒが実力で二人の弟子を完全に凌駕しているというのなら、むろんのこと異なる結果が出るだろう。

 

 ぐびっと、師は麦酒を呑む。

 

 少々ジマの方がゴーマよりも劣るが、その実力差はほんの僅差だ。そんな相手にルートヴィヒが今回勝てれば、実力で二人の弟子をもはや超えたと見ていいはずだ。

 奴らは敵対しているだけあって、真剣に戦うだろう。

 そんな戦いでは、実力が対等なら相手に勝つことはそう容易ではない。何度も勝ちを掴むまぐれを連発させるということも、極めて難しいだろう。

 まして勝負はルートヴィヒに不利であるのにその状況をものともせずに勝てば、もはや奴の実力のほどを疑う余地は微塵もなかろう。

 ルートヴィヒの奴は、不利な状況を覆して自らを上回るはずのゴーマを打ち倒したんだ。なら、必然的にジマにも同じ結果を出せるということにもなるだろうしな。

 ゴーマに勝っておきながら、奴より劣るジマ負ける道理があるまいし。奴の実力が本当に、ほかの二人の弟子を超えているというのなら。

もし勝てば、ルートヴィヒの力はほかの弟子よりうえ、と認めていいだろう。

                   

 やがてゴーマがよろよろと離れて、訓練場の脇に座り込んだ。もうゴーマは次の勝負に邪魔にならない状況になった。そこで師はジマの方を向き、こう命じた。

                   

「次、ジマだ。ルートヴィヒと剣を交えろ」

                    

 はい、とジマはつぶやいてルートヴィヒの方へ向かった。

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