(20)救急車利用の手引き
「救急車に乗ったら、お金がいるの?」
ある知人に、能天気な質問をされたのである。
「乗車料みたいなものを後で請求されたりしないの?」
「いや、しないけど」
「あら、それじゃ丸儲けなのねえ。 タクシーがわりに使う人がいるのもうなずけるわね」
「そんなことしちゃダメです。
それとね、例えタダでも、そしてどんなに急を要していても、絶対にお財布を持って乗らなきゃダメよ。
例え意識がなくってもよ!」
私は力いっぱい言った。
そう、財布なしで救急車に乗ったら、あとでとんでもない目に会うことを、私は身をもって実証したことがあるのだった。
そう、それは長男がまだ幼稚園に入ったばかりの頃。
12月の半ばを過ぎて、毎日寒かったのだが、その日は快晴だったせいか、日中は少しだけ暖かかった。
主人は忘年会でその晩泊まりの予定だった。 家の中では長女がひとり遊びをし、生後3ヶ月の次男が同じ部屋で昼寝をしていた。 長男はすぐそばの公園で遊んでいる。 穏やかな土曜日の夕方だった。
5時を回って、洗濯物を取り込んでいた時に、同じアパートの奥さんが血相変えて飛び込んで来た。
「大変! 司ちゃんを車で轢いてしまったの!
奥さん電話電話! 救急車呼ぶから早く!!」
「轢いたって、ど、どこを! 意識ないんですか?」
「あるけどとにかく転げまわって痛がるだけで、起き上がらなくて。
電話借りるわ。 どのみちもうどこの病院もやってないもの」
お互いがとにかく慌てていて、私も長男の様子を確認しないまま、相手の奥さんも自分の身辺を整理しないまま、とにかく救急車を呼んでしまった。
そして、どういうわけかものすごく早くサイレンの音が聞こえてきた。 何を用意する暇もない。
私はとにかく裸足に突っ掛けを履いて、エプロン姿のまま、長男のところに駆けつけた。
長男は駐車場から発進する車のすぐ正面でしゃがんでいたため、気づかれずに車輪の下に入ってしまったらしかった。 痛い痛いと泣いていたが、どこかが折れたりしているようには見えない。 怪我のことよりも、走り回って暑かったらしく、タンクトップのシャツ一枚になっている事の方に驚いた。 上着がどこにあるのか分かりもしない。
とにかく到着した救急車に、誰か同乗しなければならない。
相手の奥さんは、家に財布を取りに行ったところで間に合わなかったので、私がひとり、まるきり手ぶらのまま付き添って、救急車に乗り込んだ。 次男と長女は家に置き去りである。
それからが更に大変だった。
連絡して最寄りの病院へ行く予定が、どこも外科の医者がいなくてダメなのである。
隣町ももっと遠くの町もダメ。 順番に電話しながら、目的地はどんどん離れて行く。
そして、やっと決まった受け入れ先は、私の自宅から自家用車でも30分、バスだと1時間はかかる病院。
しかも市内で一番賑やかな繁華街のど真ん中だった。
幸いにも、怪我自体は大したことはなく、検査を終えてすぐに帰れることになったのだが。
帰れと言われても、まずバス賃が無い。
第一、夜になって冷え込んだ街の中に出て行くような服装をしていないのだ。 私はブラウスに割烹着をつけただけ、息子に至ってはタンクトップ一丁である。
どこかに連絡しようにも家には幼い長女と乳児がひとり(ほったらかしだ)だけ。 相手の奥さんの家の番号もわからない。 当時は携帯も普及しておらず、財布がないとどうにもこうにもならない。
繁華街、ジングルベルが鳴り響いている。 ちらちらみぞれも降っている中を、そんなとんでもない服装の親子が手を挙げていてもタクシーが止まらない! 何に見えてるんだ私たち。 「一杯のかけそば」か?
「かあちゃん、お腹すいたよう。
僕、いつになったらご飯食べれるの?」
長男は大真面目に、ものすごくタイムリーなセリフを吐きやがりました。
バス停で、見かねた人がバス賃を貸してくれ、なんとか家に帰ることができたが、当然ながら大風邪をひいてあとが大変だった。
救急車はタダで病院まで連れて行ってくれる。 でも、家まで連れて帰ってはくれないのだ。
必ず財布を用意すること!