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短編横丁  作者: 友野久遠
13/27

(13)変人の謝罪

 まず、保育科の授業がどれほど「恥」を主体としたものかというところから説明せねばならない。


 保育士や幼稚園教諭を志す学生たちは、まず人前に出ることにとことん慣れることを要求される。

 ひとりで歌わされる。

 ひとりで踊らされる。

 どんなにへたくそでも大勢の前で日常的にピアノを弾かされ、どんなに不細工でも書いたものを自分で掲げて説明させられる。

 「学友たちの前で平気で恥がかけない人間に、参観日に来た保護者の前で踊りの見本がやれますか」

 という論旨である。 否も応もない。

 こういうことをやり倒しているうちに、人前で転んだら床の上で踊りながらジョークが言えるような心臓の人間が出来上がる。 そうしたら保育士の完成間近である。



 ところが、何故か私はこの厚顔無恥の地獄技が、入学当初から出来てしまった。

 普通は顔を赤らめないで大声で歌えるようになるまで1年かかるのだが、要するに軽音楽のステージのおかげで神経が図太くできていたわけだ。

 そのため、入学当初は非常に目立つ学生だった。


 

 入学して間もない頃。 その日は初めてのピアノのレッスンがあった。

 10人一組でひとりの指導者の部屋に集まり、ひとりずつ幼児用の伴奏曲を弾いてレッスンを受ける。

 この日、私は行進曲の伴奏を練習して来て、「テンポが遅い」と叱られたのだった。


 授業が終わって、学食で他のクラスの友人と一緒になり、食べながら雑談がてら、ピアノレッスンでどんな目に会ったのかを聞いてもらった。 若干腹も立っていたのだ。

 お昼ご飯の時間だったので、持参の弁当に加えて学食で買ったサラダの小皿をテーブルに置いていた。

 



 「で、何を注意されたって?」

 「子供が駆け足をするんだから、もっと歩幅が小さいでしょう、そんなに遅く引いてはダメです!って。

  でも私の腕ではそのテンポが精いっぱいって曲で、かなり速く弾いてると思ってたわけ」

 「うんうん」

 「で、もう一回、もう一回、って弾いて何回も怒られて、『自分で走ってみればわかるわ、そんなんじゃころんじゃうわよ!走りなさい!』って激怒されたわけ。 でも試しに走って見たくても、自分でピアノ弾いてたら走れないでしょう」

 「なるほど」


 「でもさ、部屋にあと9人も学生が居るんだよ。 誰か試しに駆け足の真似ぐらいしてくれてもいいと思わない? なのにみんなすまして立ってるのね。 こっちが『だれかやって』って頼んでも照れ笑いするだけで」

 「ふうん」

 「しょうがないから自分で走ったわ」

 「ピアノは?」

 「口伴奏よ。 ♪タラランタララン、タッタラランラン、ランタラララッタランランラン♪

  先生が横から『もっと歩幅が狭いでしょう!』

  でもう一回、♪タラランタララン、タッタラランラン、ランタラララッタランランラン♪

  『そこまで早くない!』」

 「大変だねえ」


 話に花を咲かせているその時。

 とんでもない物を見てしまった。 学食の長いテーブルの向かい側に座っていた、壮年の教授である。

 上品なロマンスグレーに知的なメガネをかけた男性で、学食のうどんと、自販機のパック牛乳をトレーに乗せておもむろに食事に移ったのだが。

 いきなり牛乳パックの中身を、ざーっとうどんのどんぶりに注いだのだ。

 お汁が鉛の色になり、うどんの湯気は立たなくなり、周囲の学生が振り返って口をゆがめた。


 私もあきれて言葉を失ったが、友人は平然としていた。 小声で私の袖をつんつんしながら

 「木原教授の牛乳うどんは有名なんだって。

  まあみんなすぐに慣れると思うよ」

 私はあまり慣れたくない光景だと思ったが、友人に促されて話の続きを再開した。



 「で、こっちが息切らして歌いながら部屋をくるくる回ってるのに、あとの9人はくすくす笑いながら見てるの。 ねえ、これもさ、テンポの確認さえすればいいんだから、歌ぐらいみんなで歌ってくれてもいいと思わない?」

 「うーん、まあそうかなあ」

 「で、やっとテンポが決まって、そのテンポで弾こうとするんだけど、今度は腕が付いて行かないのよ。

  速く弾くって急にはできないこともあるわけ。 で、最初はスピード出るんだけど、段々ゆっくりになっちゃうの。 そしたらまた叱られるでしょう。 でも弾いてる方はもう前のテンポを忘れかけてるのよ。

  『さっきの口伴奏と違う!』って怒られて、今度はまず大声で歌ってみてから弾けってことで。

  ねえ、これも手拍子してくれるとかさ、みんなでやってくれてもいいと思わない?」


 その時の「口伴奏とピアノを交互にやる」という恥ずかしい技を実際にやって見せると、友人は笑い転げた。

 「何で笑うのよ!」

 「だって、そこまでやるのってあんたくらいだと思うよ」

 「やれって言われたのよ」

 「言われたってやらないよ」

 ごほごほごほ、と激しく咳き込む音がした。

 見ると、向かいの席で牛乳うどんを食べていた教授が激しくむせながら笑いをこらえている。

 「見なさい、誰でも笑うじゃん」

 変人でもね、と友人は小声で囁いた。


 結局私が変なのかい!

 ぶつぶつ言いながら食事を終えて立ち上がった私を、

 「あの、もしもしすみません」

 なんと、問題の木原教授が呼び止めるではないか。

 「なんでしょう?」

 「申し訳ない、さっきは盛大に笑ってしまって。 大変失礼なことをしました」

 「はあ」

 「ホントにご迷惑おかけしました」

 「はあ?」

 笑ったくらいで馬鹿丁寧に謝るなんて、やはり変わった人なんだなあと思った。


 すると教授は更に丁寧に、こう質問した。

 「時にあなた、サラダがお好きなんですか?」

 「はい?」

 「大変おいしそうに召し上がっておいででしたね。 好物なんでしょうか」

 「いやその。 まあ、た、食べ物は何でも好きですよ、ははは」

 気色悪い奴だと思って適当なことを言ったところ、相手はフンフンとうなずいて、

 「では少々お待ちください」

 そう言って席を離れ、なぜか売店に行って菓子パンを4つも買って来た。


 「どうぞ、差し上げます」

 「は?」

 「あなたの好きな食べ物です。 失礼したお詫びに受け取ってください。 では」


 一礼して立ち去って行く背広姿を、あっけにとられて見送った。

 「変人のすることはわかりませーん!」

 あきれ返った私たちだったが、サラダのお皿を片づける段になって、全ての謎が解けたのだった。


 サラダのお皿を持ち上げると、その皿があったところを除いて、テーブル一面が水浸しになっていることが判明したのだ。

 その水は、白いテーブルの上では透明に見えたのだが、光にすかすと茶色と白の間の色、つまりあの鉛色のおつゆと同じ色であることが判った。 うどんのかけらも点々と散りばめられていた。

 慌ててサラダの皿を見直すと、縁にかすかにうどんのかけらが吹き付けられている。


 あの教授、笑った時に口の中身を吹き出したのだ。

 それが霧状に散ってサラダの皿に降り注ぐのを、吹いた本人だけが視認したのであろう。

 我々は目を反らしていたので全く気付かなかったのだ。

 

 テーブルに置かれた4つのパンが、ごめんなさいねと小さくなっていた。



 この話には実は後日談があります。

 木原教授は科学が専門なのですが、私は選択してなかったのでそのことを知りませんでした。 で、ある日、文芸部の部誌のエッセイの中で、

 「科学室は教卓が広くて、教授たちの唾が飛んでこないとこが気に入ってる」と書いたら、この教授から「私の唾は教卓を越して行くことがあります」という謝罪の言葉を頂きました。 むこうも私の顔を知らずに。 

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