序論 もう一つの火星
二人が全人類から代表された開拓者であるだけの事はあった。彼らは1時間もしないうちに現状をほぼ理解し終え、机に取り付けられたタブレットに私見をまとめていた。
大きな字で書かれた最初の2項目。
・宇宙船は安全!生命維持装置に問題無し!
・宇宙船に篭り続けても半年は生きていけそう!
その下には、加えて3項目が小さく書いてあった。
・宇宙船の離着陸システムに異常あり。(電気系?あるいはスパークプラグ?)
・地球本部とも宇宙ステーションとも交信不能。(原因不明)
・おそらく、その原因は
「その原因は、ここが地球ではなく、地球から遠い遠い場所だから、か。」
東堂は長い指を丸め、自らの髪の毛をむしる。地球との交信が一切叶わない環境にいる事は、安全帯もせずハシゴを登っているときのような嫌な感覚を生み出していた。今どき、地球にいれば嫌でも何らかの信号を受信する。地球から外、多少遠くの惑星にいても受信してしまうだろう。地球は電波を発信する装置で溢れており、相当うるさいのだ。しかしこの宇宙船の受信機は、騒音を一切感じずにスヤスヤと寝つづけていた。
「どうやら俺達は全く偶然に、命ある新しい惑星を見つけたみたいだな。この事を地球に持ち帰ることができれば英雄だぞ。」
「この状況から地球に帰れたらそれだけで英雄たけどね。んむむ。」
セウォンは分厚い緊急時マニュアルを読みながらマニュアルに向かって呟く。彼女は指をしおりにして計4ページ程を何度も読み比べていた。
「自動航行システムに異常はみられなかったわ。無事、火星への離着陸プログラムが作動して、現に今は着陸している。おかしな話よね、火星の特徴と大きく離れた星には着陸できないはずなのに。」
彼女は宇宙船居住室の小さな丸窓から見える外の景色を覗きながら話を続ける。小さな窓からは、やはりコックピットと同様に緑と川が見える。
「たぶん、この星は火星、あるいは火星と瓜二つの星でないと有り得ないわね。」
セウォンの奇論に東堂は動じず頷いた。
「ああ、幸運だな。この星の重力加速度は火星と非常に近い。少し高いけどな。だけど、もしそうならば少し問題があるんだ。」
東堂がタブレットで宇宙船の通信状態の確認画面を開くと、セウォンが「私も知ってたわ」とばかりに話を遮った。
「電波のことでしょ、私も気になっていたわ。いくら通信設備の調節がズレたとしても機能が正常なら地球からのノイズを拾うはず。それすら無いとすると、この太陽系に同じ人間が全くいないことになるのよね。」
二人は途方に暮れる。セウォンは手元にある宇宙食の空袋を見ながらため息をついた。彼女がふと隣を見ると、東堂もまた、宇宙食をただ見つめていた。
それから更に1時間程度経った頃だろうか。東堂はふと立ち上がり無言でスペースジャケットを着込み始めた。地球文明と離別した事実が変えられないと気がついた彼にとって、唯一の生きる意味は「この世界を探検すること」だと悟ったからだ。
3段階ある宇宙服のうち、ちょうど中間の役割を持つ"ジャケット"は、もっぱら宇宙船内や火星基地内での作業用だった。一通りの工具や緊急用具は携帯しているものの、長期間宇宙で過ごすための耐圧耐真空その他諸々の装甲はついていない。宇宙船の測定装置を見る限り、この星の大気は地球と瓜二つであったため重たいだけの“アーマー”を着込む必要は無いと考えていた。ジャケットを着込むと備え付けの装備を一つ一つ確認していく。右耳上部の小型カメラ、ライト付きヘルメットに取り付けられた半透明の液晶ゴーグル、背中から伸びる電源コードとそれに繋がった幾つかの工具、背中に取り付けられた大型バッテリー、胸や膝を守る頑丈なオレンジ色のプロテクタ。一つ一つ指差しをしながら慎重にジャケットの点検する東堂にセウォンは思わず問いかけた。
「どうするつもりなの。まさか外に出るつもり?」
彼は振り向き、ヘルメットを少し持ち上げるとニヤリと笑った。
「ああ、そのまさかさ。少し考えてみたんだがこの星は案外悪くないかもしれない。民家が遠くにあったのは見ただろう?」
「小窓から見えるあの四角いの?でも家じゃなかったらどうするのよ。それにもし家だったとしても中からタコ型宇宙人が出てきたら嫌よ。私、タコは嫌い。」
セウォンは手で払うような仕草をしながら口をへの字にした。
「初めて聞いたよそんな事。だけど、宇宙船の中に引きこもってタコが握手しに来るのを待つよりはマシだろう?」
東堂はジャケットの最後のパーツの点検を終えると、セウォルの方を向いた。
「あそこに行ってみるのさ。どうせ死ぬにも、少しばかり散歩してみないと科学者としては満足できないだろうよ。それに、もしここが天国なら、もう死ぬことはないんだしな。」
セウォンにとっても外の環境は興味があった。もしも宇宙船にベランダがあれば、彼女もスッと外に出ていただろう。しかし夢見がちな理論物理学者と違い、工学者の彼女にとって未知の状態を無防備に歩く事は抵抗があった。
「いきなり行って、戻ってくる気なの?リスクが高すぎないかしら。船外活動用のローバーがあったでしょう。あれでまずは探ってみない?」
「ナイスアイディアだな。しかしせっかく着たジャケットを脱ぐのも面倒だ。なに、特に何も起きないさ。」
東堂はヘルメットのライトを意味もなくチカチカ点灯させながらニヤリと笑った。
「どうだ、お前も行くか?」
「私は遠慮しておくわ、タコさん宇宙人に会ったらよろしく伝えといてね。あと、くれぐれも安全に、ね。作戦から大きく外れるのだから誰にも責任は負えないわよ。」
セウォンはまだ恐怖心をもっていたものの、これ以上引き止めることもできないと思い立ち上がった。宇宙船のドアは二人でないと開けられない仕様だったからだ(なお緊急時には一人でもドアを開けることができる。緊急時ランプが点灯している現在は、実は一人で大丈夫だったがセウォンは気がつかなかった)。
「何度でも言うわ。気を付けてね。遭難した後に別行動する展開は、フィクションだと必ずどちらかが大変な目に合うと相場が決まっているわ。」
「なら、フィクションではないから安心だな。」