ラストステージ
父と私の間に、ベルベット張りのケースに収められた《ダフネ》が横たわっていた。艶めかしい曲線を描く木製の本体は、ニスで磨かれて飴色の輝きを放つ。ぴんと張った四本の弦は、彼女が秘める音の魔力を思わせる。
長年に渡って数々のヴァイオリニストに奏でられてきた《ダフネ》は、この三十年ほどは父の寵愛を一身に受けていた。息子の私が、母の立場がないのではないかと常々思っていたほどに。
「父様、もう限界です。折れるか諦めるか、です」
父が《ダフネ》を見つめる眼差しは、常に愛しげかつ誇らしげなものだった。だが、今その顔は血の気が失せて、恐怖さえ孕んだ目で私と彼女を見比べている。恐怖――つまり、長年連れ添った恋人と引き離されようとしている、という。
父にそのような表情をさせることに対して、息子としては忸怩たる思いを抱くべきなのだろう。だが、私はどこか高揚を感じていた。母も私も顧みなかった父を、ここまで狼狽させ追い詰めることができた。そのことに、歪んでいるとは知りながら悦びを感じずにはいられないのだ。
とはいえ、父は私の内心など気付いていないだろう。子供の頃から、この人は私の心などまともに見ようとしてこなかったのだ。まして今は、不肖の息子などより気に懸けるべきことがあるのだろう。父の矜持と信念は、今まさに折れるかどうかという瀬戸際に瀕しているのだから。
震え、強張った声で父が喘ぐ。
「もう何度も弾いてやった」
「指定されたのと違う曲でした。もっと愛国心とか戦意を奮い立たせるようなのじゃないと」
「あんなつまらん曲……!」
吐き捨てた父に、私は苦笑しながら出された茶を口に運んだ。激昂するこの人に対して、余裕を見せてやらなければ。ああ、安物の茶葉だ。この人がこんな味で満足しなければならないなんて。いや、そもそも、この人が自ら茶を淹れるようなことになるなんて。《ダフネ》を奏でることしか知らなかった、この人の指が。
「気鋭の作曲家の曲だったのに。父様は偏見なしで物事を見るべきです」
父の評価は、必ずしも正当ではないと思う。軍は宣伝には力を入れているし、作曲家にも演奏家にも報酬は惜しんでいない。それに応える才能が作り上げて演奏される曲は、私の耳には十分趣向を凝らしていると聞こえるのだが。まあ、父の楽才を受け継がなかった私には分からないということなのだろう。偏見というなら、偏見を抱いているのは多分私の方だ。父が評価するものを貶めたくなり、父が評価しないものを称揚したくなる。私がもう少し若かったなら、反抗期とでも呼んでも良いだろうか。
とにかく、それは今の本題ではない。私は一枚の紙片を取り出して《ダフネ》の傍らに延べた。
「今度の演奏会のプログラムです。《ダフネ》で――我が国が誇る名器で演奏されるということだけは決まっている」
「私以外の誰が――」
「ならば演目通りに。どうしても嫌だというなら、彼女は他の男の手に落ちることになります」
プログラムに並ぶ誇りだの血潮だのという単語が父の気に入らないことは百も承知で、私は冷たく宣告した。世知に疎い父にも、酌量の余地はないのだと、どうしても否と言うなら力づくになるのだと伝わるように。
「《ダフネ》は我が子同然だ。娘に人殺しの手助けをさせたい親がどこにいる!?」
娘というか恋人だろう、とか。実の息子が軍服を纏って目の前にいるのはどう思っているんだ、とか。そんなことを言うつもりは私にはなかった。父の不従順のせめてもの埋め合わせに私がこの道を選んだことをこの人は知らないし、どうせ知ろうともしないのだ。
「弾きたく、ないんだ……!」
「ならばどうすれば良いかお分かりですね? 《ダフネ》を引き渡しさえすれば、つまらない曲で指を汚さなくても済むのですよ」
ほら、この人の口からでるのは自分の都合だけ。叶うはずもない我が儘だけだ。だから私も遠慮なく残酷になることができる。我を通すなら代償が必要だと、突きつけてやれる。
「ひと晩じっくり考えてください。明日また来ますから」
駄目押しのような最後通告に、父は答えなかった。それを、反論が見つからないのだろうと解釈して、私は話を切り上げることにした。
立ち上がり際に《ダフネ》に手を伸ばしかけ――だが、触れることはできなかった。昔、子供の頃のこと。飴色の輝きに惹かれて触ろうとして、ひどく怒られたことを思い出したのだ。だから、彼女を抱えて俯く父の旋毛に短く別れの挨拶を告げて、私は父の部屋を後にした。
* * *
狭く急なアパルトマンの階段は、老いた父の身には大分堪えるだろうと思えた。かつての屋敷には一階だけでも使い切れないほどの部屋があったのに。《ダフネ》に相応しい――時に禁じられた――曲を奏でるために、父は援助を打ち切られ罰金を課され、軍人や役人を黙らせるために財産を切り崩した。慣れない苦労は母の命をすり潰した。挙句の果てに、父は先祖伝来の屋敷まで手放して――でも、《ダフネ》と別れることだけは頭にないようだった。
母が窶れる一方で、常に美しく輝いていた《ダフネ》。今も、塔の上の姫君よろしくアパルトマンの最上階に君臨する彼女のことを、私は多分憎んでいるのだ。
痩せた脚を引きずって、父はどのような想いでこの階段を行き来しているのだろう。上り下りの面倒のために、上階は家賃を低く設定されている。屋根裏のような最上階はなおのことだ。あの人がこんなところを住まいとするのは、屈辱ではないのだろうか。《ダフネ》と一緒ならば構わないとでもいうのだろうか。彼女と引き離されそうになって、あんな、泣きそうな顔まで見せるとは。あの、誇り高い人が!
「ふふ……」
長い階段を下りながら、知らず、私の口元は笑みの形を作っている。先ほど別れたばかりの父の顔を思い出したのだ。父が私を見る目は、まるで助けを求めて縋っているようだった。また助けてくれるのではないか、と期待していたのだろう。高潔で世間のことを何も知らないあの人に、金の力というものを教えたのは他ならぬ私だったのだから。
金の他にも、我が家に伝わる絵画だとか食器だとか。父と母とで毎年訪れていた別荘、それが位置する避暑地とか。父が当然のごとく享受していたものの中には、世間の者が法や規律を曲げてでも手に入れたがるものも多かったのだ。
『なんだ、そんなことで良いのか!』
父が嬉しそうに叫ぶのを、何度聞いたことだろう。魔法のような――父にとってだけ――解決法を示す度、父は心から感動し、私に感謝していたようだった。頭を撫でられた記憶もろくにないというのに、その時だけは両手で私の手を握りしめて。繊細な音を奏でる父の手指が意外と大きく逞しいことに驚いてどぎまぎしながら、でも、私の心は抉られた。
私は、父を喜ばせようなどと思っていなかった。それどころか、今度こそは困るだろう渋るだろう、それはできないと言うだろうと期待しては我が家の財産を差し出す提案をしていたのだ。だってそれらは皆、母が丹精込めて手入れしていたものではないか。母との思い出が詰まっていたものではないか。世俗の者の強欲に呆れつつ、でも父は母が愛した屋敷でさえあっさりと手放した。母の献身は、父にとっては記憶に残らない程度のものでしかなかったのだ。《ダフネ》と、彼女が生み出す音楽の前には。
「だが、それももう終わりだ」
密やかな呟きが、薄暗い階段に響いて消えた。今度こそ父を絶望させることに成功した喜びのために、私の口元は微笑みを保ったまま。誇りと音楽のためなら何を引き換えにしても構わない、というあの人でも、《ダフネ》だけは別なのだ。
父は、私が何々を差し出せと言い出すのを待っていたのだろうか。また、どうにかして私が骨折ってくれるのだろうと、当然のように考えていたのだろうか。あの人が所有物に価値があるものはもう《ダフネ》しか残っていないというのに! 自身がどれだけ恵まれていたかさえ、何を持っていたかさえ知らなかった。それこそが父の底抜けの育ちの良さを示していた。そして同時に、残酷さと無神経さも。
父を哀れむ者も敬う者もいるのだろう。だが、私は容赦しない。今度こそ、あの美しい魔性の女から父を取り戻してやる。《ダフネ》さえいなければ私たちは普通の親子、普通の家族だったかもしれないのだ。厄介なことさえしでかさなければ、父をひとり養うくらい、今の私には容易いこと。母の墓参にも連れて行きたい。
地上に辿り着く頃には、私の笑みは意味合いを変えていただろうと思う。父にちゃんと見てもらえることを、私はずっと切望していたのだ。子供の頃からの願いが叶うかもしれないという時なのだ、表情が緩むのも当然のことだろう。
* * *
翌朝、私はアパルトマンの前に立っていた。部下は伴わず、ひとりきりだ。他人の手を借りる事態にはなるまいと期待したかった。父は大人しく従ってくれるだろうと。
長い階段を、今度は上らなければいけないことに溜息を吐きつつ、足を上げた――その時、ヴァイオリンの音色が耳に届いた。間違えるはずもない、《ダフネ》の声だ。
最後の別れのつもりか、と首を捻りながら数段を上がる。と、不意に私の心臓は跳ねた。この曲、これは投獄された作曲家によるものだ。押収された譜面を見たことがある。父が好みそうだと思った記憶も、確かに。だが、だからといって今、この時に奏でなくても良いだろう!
そこからは階段を数段飛ばしで駆け上がった。その間にも曲は変わる。ああ、これも駄目だ。敵国の民族音楽じゃないか。こんな曲を、街中で奏でるなんて! 私の他にも分かる者がいたらどうするんだ!
段を踏み外して膝をぶつけ。場違いな音色を訝って扉を開けた住人とぶつかって押し合って。無様に息を乱しながら上る私とは裏腹に、《ダフネ》の音色はどこまでも優雅で繊細で美しかった。
ああ、なんて素晴らしい。神々しい。
この音色、この曲が描き出すのは。花咲く野で戯れる子供たち。清らかな水の流れ。満天の星空。顔を寄せ合う恋人たち。深い荘厳な森。心動かす場面の数々。でも、目に浮かぶどれにも私と母はいなかった。父様の音は素晴らしいと、母は夢見るように私に語ったものなのに。どうしてあの人は、天上の音楽を私たちには捧げてくれなかったのだ。《ダフネ》の音にも、それが描き出す情景にも負けず、母の笑顔は美しかったじゃないか。なのに、どうして。
溢れ出る涙を拭いながら、やっと父の部屋に辿り着いて、扉を――鍵は掛かっていなかった――開け放つ。
「父様! 貴方という人は――」
どうしてこんなことを。どうしてみんな無駄にする。《ダフネ》を手放せば丸く収まるように、上に掛け合ってあげたのに。私の、息子の気遣いを!
言いたいことは山ほどあったのに、口にすることはできなかった。ちょうど演奏が終わった瞬間だったのだ。余韻をぶち壊す無礼な観客を一顧だにせず、父は、ただ朝の青い空を背景に穏やかな表情で佇んでいた。青空――そう、窓も開いていた。
「父さ――」
声も、伸ばしかけた手も間に合わなかった。父は《ダフネ》を窓辺にそっと置くと、優雅な所作で一礼をした。演奏の終わりに必ずするように。
そして《ダフネ》にあの熱い眼差しを一度だけ投げて。父は。窓枠を踏み越えた。