6話
「ちょっと、先生……」
「ん、なんだい?」
夜、それも小雨のちらつく深夜である。
鈴代は傘を片手に、もう片手に灯りを持っている。その後ろになるべくくっつくようにして、甘斗は歩いていた。
「こんな夜に、こんな場所に来る必要ってあったんですか?」
甘斗たちが今いる場所は神田ではなかった。
入谷の鬼子母神。
昼間は参拝客でにぎわう境内も、夜になり人の気配はすっかり絶えている。
有名な場所ではあるのだが……正直、寺社仏閣に夜に来たいとは思わない。
すぐそこの暗闇から、今にも何かが出てきそうだ。
「そりゃもちろん、犯人に心当たりがあるからさ」
「え?」
甘斗が聞き返した、その時。
『鄙も都も秋更けて 降るや時雨の初紅葉』
誰もいない境内に、声が響いた。
からかうように楽しげな、甲高い声。
ひゅおお、と音をたてて風が吹いた。
「うわっ!」
夏が近い季節というのに、秋のように冷たい風。
勢い良く、甘斗の着物と鈴代の羽織を巻きあげて。
風が止む。
と。
「よう」
樹の枝の上に誰かが立っている。灯篭の明かりを頼りに目を凝らす。
若い女だ。十代の半ばを越えたほどか。いかにも勝気そうで、背筋がぴんと刀の様に整っている。目には光が満ち、闇夜にも凛々と輝くようだった。
女だというのに髪も結わず、肩の辺りでまっすぐに切りそろえている。男のように赤い半被に藍の鮫絞り。まるで祭り前の職人のような格好だ。
そして、何より変わっているのが一点。
目の周りを紅で赤く飾った狐の面を、紐でたすき掛けのように身体に結びつけている。
甘斗は目を疑った。一瞬前には、こんな人はいなかったというのに。
枝が一瞬たわんだかと思うと、その人物は音もなく目の前に降り立った。
歯を見せて笑う。肉を食らう獣の笑みだ。
「久しぶりだな、鈴代。ちょっと顔見せないと思えば、弟子なんて取ってやがったのか?」
「弟子を取ったのは最近だよ、石榴。君の『ちょっと』はどのくらいの範囲のことを言うのかな」
「おれには関係ねえ。にしてもな――」
せきりゅうと呼ばれた女性は、呆気に取られている甘斗を上から覗きこんだ。女性にしては背が高く、荒っぽい職人にでも見下ろされている気分になる。
「う……」
と、気圧される甘斗に、女はきゅっと眉を寄せた。
「ずいぶん間抜けづらしたガキじゃねえの? こりゃ師に似たかな?」
「……はぁ?!」
あんまりな言いように言葉の出ない甘斗に、鈴代が苦笑した。
「ちょっと、あんまり僕の弟子を悪く言わないでくれない? 君の口が悪いのは相変わらずなのはわかったから」
「ふふん、間抜けを間抜けと言って何が悪い」
石榴は悪びれず、鼻を鳴らすだけだった。
そのふんぞり返っている赤半被を指さし、甘斗は小声で問うた。
「先生、この人誰っすか!? なんかむやみに偉そうなんですけど!?」
「どうどう、正確には人じゃないね。彼女は稲荷だよ」
「はぁ?」
甘斗は我ながら素っ頓狂な声で聞き返した。
何を言っているのか、さっぱり意味がわからない。いや、言葉の意味はわかるのだが。
「稲荷って……稲荷神のことっすか? あの長屋とかに置いてある?」
「そうそう。ほら、静海の家に社があっただろう? あれは屋敷神の稲荷で、彼女はあそこの社の主――というか、神使の石榴だよ。ようは神社の神様みたいなものだね。神は常に社にはいないから、代わりに神使がひとつひとつの社に常駐してる」
「……なるほど」
甘斗は鈴代の説明に頷いた。
すると半被の女性、石榴は肩すかしを食らったような顔をあうる。
「なンだよ。もう少し驚くかと思ったのによ」
「いや、ちょっと個人的な知り合いがいて」
甘斗は頬を掻いた。
何せ家に自称屋敷神という前例がいる。
なので、また変な人が増えたとしか思わない。驚くに驚けないのだ。
まったく、先入観というのは恐ろしい。
弟子が納得した様子を見て、鈴代はため息をついた。
「で、今度はなんの用事なのかな? 僕は、なるべく女性には優しくしたいんだけど」
「おっと。忘れてたぜ」
石榴が手にとったのは、着物の帯代わりの紐に挟んだ脇差だ。
ずっと見ないようにしていたのだが、もう誤魔化せまい。
「単刀直入に言うが――てめえ、もう静海のダンナに近寄るな」
「ごめん。意味がよくわからない」
本当に手短な要望に、鈴代は肩をすくめた。
「静海のダンナは見ての通り人が好い。しかも、心底てめえに惚れこんでる。てめえのどこで得てきたんだかわからん知識と、自分よりも広い視野だかなんだかにな」
ここで一拍、息を吐いた。
「わかるか? てめえと会った時はともかく、今のダンナには両方とも揃ってる。けど、相も変わらず先生先生って言い続けてるんだよ。あの人は、てめえには敵わないと思って自分の限界を定めちまってる」
決して短くはない脇差を逆手に持ち、腰を深く落とす。下から睨み上げるようにして鈴代を見る。
まるで、鎌首を持ち上げた蛇のようだ。
鈴代はやれやれと首を振った。
「ずいぶん買いかぶられてるみたいだけど? 僕にとっては迷惑極まりない話だよね。それは静海の問題であって、君の問題じゃない。そんなので友達に近づくなって言われてもさすがに困るよ。綺麗なお嬢さんのお願いでもね」
「てめえみたいなのが周りをうろついてると子供に悪影響なんだよ。ダンナにてめえは必要ない。それを悟って、消えろ」
それだけ告げると、石榴は紐で繋がれた狐の面を顔にかぶせた。
急に読めなくなった表情の下から、声が聞こえる。
それは唄の一節だった。
『鄙も都も秋更けて 降るや時雨の初紅葉――』
その言の葉は言霊となり、脇差を通して発現する。
境内にあった樹や草が、一斉に繁茂し、増殖する。
「っ!?」
目の前の現象に、甘斗は声にならない悲鳴をあげた。
稲荷神の祀られるきっかけとなったのは、射た餅が白い鳥へと変じた奇跡である。
五穀豊穣、子孫繁栄、商売繁盛。稲荷が祀られる目的とは概ねそのようなものだ。
それはすなわち、生命を他に与え、自然から生命を取り込むことにも繋がる。
その伝承から生まれたのが、稲荷の神力《稲成》。
他のものへと生命を与え、同時に他のものから生命を奪う力。
その効果を、甘斗は後で師から聞くこととなる。
「うわわわ!?」
鈴代はやっと悲鳴をあげた甘斗の首根っこを掴んで後方へと下がった。
数瞬前にいた場所を鞭のような枝や木の根がずたずたに引き裂く。
社のすぐ前まで退いて、鈴代は真剣な面持ちでぽつりとこぼした。
「ごめん甘斗、重いから降りてくれない? 楽浪みたいに持ち抱えては戦えないや」
「カッコいいのかカッコ悪いのか、どっちかにしてくださいよ!」
と言うが早く、甘斗はその場にぺたんと腰を下ろした。半ば以上腰が抜けていた。
弟子入りして一カ月ほど。その間に何度かロクでもない目に遭ったことはあるが、こんな超常現象を身近に感じることなど滅多にない。
「さあて」
鈴代はぐるん、と錫杖を回して見せた。先端の六輪が涼やかな音をたてる。
「お荷物を置いたところで仕切り直しと行こうか、お嬢さん」
「ちょっと、お荷物ってオレのことっすか?」
甘斗は顔をしかめて聞くが、双方聞いた様子はない。
「てめえのことは前から気に食わなかったんだよ、鈴代ォ。ふらふら現れたと思ったら旦那の所に居つく。おれたち稲荷の仕事も横取りする。おまけに何年も――」
「――なんだ。嫉妬か」
かすかに笑う声。
雨音にかき消されそうになったが、はっきりと届いた。
「……なんだと?」
「執着、憎悪、嫉妬は物の怪へと変じる。それは人間も神も変わらない。ああ、場所柄にもぴったりか」
この神社に祭られているのは鬼子母神。
印度の伝承では他人の子を食らう鬼の母と伝えられている。
「てめえ!」
石榴は腰を低くした独自の構えのまま一気に踏み込む。
杖がその足元をすくった。だが、その時には地面には石榴の姿はない。
上――!
がぎんっ!
鋭い音とともに振り下された脇差は、杖を弾き飛ばし、鈴代の首を落とす寸前で傘によってかろうじて防がれていた。
「でっけえ傘持ってて命拾いしたな、鈴代! けど、雨洩りするような安普請の紙切れがどれくらい保つか、こりゃ見ものだな!」
甘斗は思わず腰を浮かせかけた。
確かに、傘は紙の裂ける嫌な音をたてている。
所詮は柿渋をぬった紙だ。刀を防ぐほどの頑丈さはない。
「君は何か勘違いしているようだけど、傘とは張りかえるものだよ。何度も繰り返し使えるものだ。だから、僕は傘の本体は骨だと思う」
ぎりぎりと刃が迫る中で、
「それともうひとつ。この傘は雨漏り傘じゃない」
一瞬、鈴代は傘を強く押した。虚を突かれ、石榴の脇差が一瞬弾かれる。
鈴代の傘の紙地も大きく裂け――
『鳴る神の 少し響みて さし曇り 雨も降らむか 君を留めむ』
鈴代の言霊が響いた。
さああああ――
音を立てるかのように鮮やかに、傘の紙が変わった。
それは、人の心のように移り変わる万華鏡のようであった。
無地の赤から紫へ。
鈴代は傘を、その場で一振りした。閉じた傘が花開く。
かっと見開いた蛇の目模様だ。
「小細工を!」
鈴代がしたのは単純なことだった。
傘の柄を、槍を構えるように短く持って、くるりと差し向けただけだった。
近くに立っている、大木へと。
「光って何よりも速いって知ってる?」
蛇の目の神は雷の神。
かつて、古代の王が神の姿を見たいと所望した際、連れてきた蛇の周りには雷電が走っていたという。
「――遅い」
刹那。
かっ!
「っ!」
巨大な岩が落ちたような音と地響きが鼓膜を叩く。
轟音とともに目の前が真っ白になって、そして――