4話
翌日、鈴代が起き出す頃には、太陽がすっかり昇りきっていた。
静海はとっくに出掛けている。四の五の言う鈴代の背を押して、甘斗は外へ出た。
いつもは仕事をしない鈴代だが、江戸に来たからには、張り切って往診をするかと思えば。
「あ、あそこの茶屋って新しいのじゃない? じゃあさっそく休憩にぐえ」
甘斗に黒羽織を引っ張られ、鈴代は蛙が潰れたような声をあげた。
着衣を直している鈴代に、甘斗は呆れ果てた。
「なんで先生はいつもそんなんなんすか? 江戸まで来てそれって。山にいても変わりないじゃないっすか!」
「だって、やる気が出ないんだもん」
と、鈴代はうそぶいている。
結局、江戸にまで来て女性しか診ていないのだ。
「いいよ。本当に必要な人は、静海みたいな有能な医者が診てくれるでしょ。今はちょっと子煩悩になってるけど」
静海の昨晩の様子を思い出す。確かに、子供を目に入れても痛くないというほどだった。
「子供ってそんなにかわいいものなんすか? オレには、ちょっと信じがたいですけど」
甘斗は口を尖らせた。
全ての子供が親にとって可愛いわけではないことは、よく知っている。
それでも、鈴代はしたり顔で片目を閉じた。
「持ってみればわかる。特に待ち望んでた子ならなおさらかわいいんだろうね。僕は子供より女の人の方がいいけど。あ、もちろん甘斗もかわいいよ?」
「あっそ」
「ああ、なんか弟子が冷たいよ!? 氷室の氷より冷たいよ!?」
「自分の胸に手を当てて考えてください、ったく」
しゃかしゃかと速足で先を行き――甘斗は顔を赤くした。
ああも堂々と人を褒めることができるのは女たらしの賜物か?
自分がかわいくないのは知ってるけど。
でも。
「甘斗、本当に足速いって! ちょ、待ってってー!」
情けなく呼ぶ師の声に、甘斗はほんの少しだけ歩を緩めた。
江戸の町は非常に広い。
武家屋敷街ならともかく、特に庶民の家はごく狭い範囲に数十戸がつめこまれている。
それが集まって町となるのだが、とてもひとりで回りきれるものではない。
現に静海に教えられた数軒を回り終える頃には夕方となっていた。
「ふぅ、頑張ったらお腹減っちゃったな。今日のご飯はなんだろ?」
「またタダ飯食う気ですか!? たまには外で済ましましょうよ、居候じゃないんだから」
江戸の町には棒手振りなどの売り子や、ものを食わせる店には事欠かない。
たとえば、少し腹が減ったなら鮨や蕎麦の屋台ならばそこかしこにある。草履をつっかけて外に出れば、すぐに何かを腹に入れられる環境だ。
だから、わざわざ静海家に帰って食事を取る必要もないのだが……
「でも静海の奥さん、張りきってたよ? 今日のお帰りは何時ですかって聞かれたし」
「そんなバカな――」
「ついでにおかずはカツオが良いですよって言っておいたよ」
「あんたも遠慮しろよ!? ったく、先生は寄生しないと生きていけないんすか?」
などと言いつつ、門をくぐるが……
「?」
甘斗と鈴代は顔を見合わせた。
昨日ならば、ここで静海が来たのだが――
「留守でしたっけ?」
「いや、今日は出掛けてないはずだけど……静海?」
首をひねりながら家を覗き込むと入ってすぐの廊下に静海と妻の杉の姿があった。
どちらも青ざめた顔をして、額には深い皺が刻まれている。
(あれ?)
甘斗は違和感を覚えた。
何かが足りない、と直感が告げている。
一部を切り取ってしまった絵のように、何かが。
「静海? なんだ、いるじゃん」
鈴代が後ろからひょっこりと顔をのぞかせた。
すると、静海も狼狽を隠すようにこちらを見た。
「お、おお――先生。お帰りでしたか、お見苦しいところを」
「いや、今はいい。何かあったのかい、静海?」
鈴代が、真剣な眼差しで問いただす。
静海が答えるより早く、甘斗はぽつりとつぶやいた。
「……あれ? お子さんは?」
静海の妻、杉が抱いている赤ん坊がいない。
片時も離すことなく、まるでひとつの物のように思っていたから、不自然に見えたのだろう。
色を失くした医者夫妻の顔を見ればわかる。
赤ん坊に何かがあったのだ。