3話
今、鈴代と甘斗は江戸に来ていた。
きっかけはごく簡単。鈴代が急に切り出したのだ。
「うん。勉強のために江戸でも行ってきちゃおっか。ついでに遊んで……げふんごふん、もとい、多くの人と出会い関わることは医者として、いや人間として大事なことだ。というわけで、明日から江戸に向かうからよろしくね♪」
いや、よろしくじゃねえよ。
甘斗はそうツッコミたかったが、腐っても師の言うことだ。いくら異議を挟んだところで無駄なことも十二分に知っていることだった。
そういうわけで、二カ月ぶりに江戸の町へ里帰りしているのだ。
ちなみに、同じ鈴代の弟子である輪廻は家で留守居をしている。彼女の麦穂色の髪は、江戸ではあまりに目立つからだ。出発前まで散々文句の雨を降らせていたから、今は同居している屋敷神の楽浪相手に管を巻いているだろう。
帰った後を憂鬱に思いながら、甘斗は久々の白米を少しずつ口に運んだ。
「たんと食べてくだされ! 甘斗殿は小さいですから、人の倍は食べねば大きくなれませんぞ!」
「ありがたいですけど……後半は余計っす」
豪胆に笑う男に、甘斗はぼそっと付け加えた。
この暑苦しい男は静海という医者だ。昔からの鈴代の知り合いという。
師から聞いたのはそれだけだったが、もちろんそれだけの人物ではない。
後で知ったのだが、静海は相当に評判の良い医者らしい。この神田に自宅兼診療所を持ち、大名に呼ばれることもあるほど腕が良いのに威張らず驕らず。庶民にも分け隔てなく接する仁医だとか
臨時の際には奥医者として城に呼ばれることもあると聞いた時には、甘斗が本気で開いた口が塞がらなくなった。
けれど。
「いっやー悪いね、押しかけたのにこうやってご飯までもらっちゃって」
と、鈴代は飯をかっ込んでいる。
タダ飯だというのに、悪びれた様子は欠片もない。
甘斗はじろりと師を睨んだが、静海はからからと笑った。
「なあに。吾輩としても先生に久しぶりにお会いすることができ、歓喜にうち震えるほどですぞ。ここ一、二年ほどは姿もお見かけせず、またどこぞへ旅に行かれたのかと思っておりました」
「そうなんすか?」
胡瓜を除け、たくあんばかりを箸でつまんでいる鈴代は頷いた。口の中に物が入っているので答えられないらしい。
「この人、そんな優秀なんですか? 静海さんが尊敬するほどの人じゃないと思うんですけど」
除けた胡瓜をこっそり移動させようとしている鈴代の腕を掴んでねじりながら、甘斗は疑問を口にした。はるかに年下の甘斗にも、鈴代の弟子ということで丁重な態度を崩さないのだからむず痒いものの話しやすい。
静海はやはり大仰に首を振り、獅子吼のような大声を出した。
「優秀でないなど、とんでもない! 先生と初めてお会いしたのはちょうど十年ほど前。この静海も駆け出しで尻の青い若造でした。遊学に訪れた長崎にて先生と会い、この眼を開かれたのです! あの頃は、恥ずかしながら自分より優れた者などいないと天狗になっておりました。あれほどまでに頭をかち割られたのは、後にも先にもござらんぞ」
「ちょ、甘斗。いだいいだいいだい。関節きまってるから! ごめんごめんごめん!」
床を叩いている鈴代をよそに、甘斗はちょっと眉を上げた。
「そこまでですか? この人が?」
「無論。その上、当時の先生はまだ幼少の時分。背も小さく……ちょうど、今の甘斗殿くらいでしたな。あれぞ、天から与えられた才と言うのでしょうな」
「ええ……? この人が?」
甘斗はさらに疑わしげに眉根を寄せる。静海の言う師と今まで目にしてきた師とがまったく、これっぽっちもつながらないからだ。
ひょっとしたら優秀なのかもしれないが、何せ鈴代は仕事をしない。退屈が嫌いなのか遊びに出てばかりいるし、女性しか診たくないと常に公言している。
そこまで褒められると感心するよりも先に困惑してしまう。
と。
「また鈴代センセイのお話ですか? あなた」
楽器のように凛とした声をかけ、盆を持った女性がやって来た。
白い肌は線が細く、うりざね型の輪郭は溶けて消えてしまいそうなほどに儚い。朝に咲き、昼にはしぼんでしまう空色の朝顔のような女性だ。
胡瓜のみ残った皿をさりげなく引き、人数分の茶をてきぱきと並べる。
「あ、すみません」
「いいですよ、そのままで。この人、いつもセンセイの自慢話ですから。ごめんなさいね」
「杉。話を誇張してはいかんぞ」
「ふふ、誇張なんかじゃありませんよ。ねぇ?」
杉が優しく語りかけたのは背に負っている赤ん坊だった。
まだ歯も生えそろっておらず、指を口にくわえている。床に沈んでいる鈴代を見ると、ゆっくりと首をかしげた。
「ああ、そういえばお子さん生まれたんだっけ。よかったねえ静海。そしておめでとうございます、奥さん。できれば嫁がれる前のあなたとお会いしたかった」
即座に復活して起き上った鈴代に、静海は照れたように頭を掻いた。お互いに話が噛み合っていないのだが、気にした様子はない。
「いやお恥ずかしい。この前、宮参りも済ませましてな。それも、これも先生のおかげですぞ」
「それほどでもないよ。子供がいるってことは、やることやっちゃってるわけでしょ。もう、ちゃっかりしてるな、静海は。このこのー」
「へ? この人が何かしたんですか?」
甘斗は置いてけぼりを食らっていることに気づき、じゃれ合っている鈴代を指さした。
「うちの家内は身体が弱くて、子供はなかなか望めぬと思っておったのですが。先生が薬を処方してくださいましてな。まさに我が夫婦の恩人。いや、この年で授かる子供というのは可愛いものですぞ」
「ふふ、そうですね」
柔らかく笑いあう夫妻を見て、甘斗はため息をついた。
「先生もそろそろ身を固めたらどうすか? そうしたら、ちょっとは落ち着くでしょうし」
「いやいや。この色男が誰かひとりのものになったら他のみんなが悲しむ。それよりはお嬢さんたちの美点を褒め称えてあげたいね」
「一生ぬかしてろ」
ともかく、そんなこんなで。
この夜はつつがなく更けていった。
そう――この夜は。