2話
皐月の半ば。梅雨にもそろそろ終わりが見えてきた頃。
雨上がりの路にも湿っぽい露を、涼しい風が吹き払っていく。
その道を、二人連れが歩いていた。ひとりはすらりとした黒羽織、もうひとりは子供だ。
「今度という今度は言わせてもらいますよ……どんだけ女性にだらしないんすか、先生?」
その小さい方――甘斗はじとっとした声音で言った。
年は数えで十。生意気そうで、世間を斜めに見て悟りきったような子供らしからぬ目をしている。話す内容は相反してまったく爽やかではない。
まだ寺子屋に通っている頃合いの少年だが、今は医者に弟子入りをしている。
「いやちょっと待って、何か誤解しているよ。彼女と僕とは清いお付き合いだよ? お茶を飲んだり文を交わしたり。ただの淡い恋心というか――」
答えたのは年若い青年だった。
伸ばした髪をひとつに束ね、若草色の小紋の上に黒羽織。帯や小物類は赤に紫と、華やかな格好をしている。ぱっと見、役者か商家の遊び好きの若旦那のようだが、そのどちらでもない。
名を鈴代と言い、山奥で医者をしている奇特な数寄者だ。ついでに甘斗の師でもある。
甘斗は半眼でつぶやいた。
「旦那さんいたみたいですけど。すげー睨んでましたよ」
「照れ屋なんだね。でも恋は障害が多い方が燃え上がるって言うよね」
「……どこまで前向きなら気が済むんすか?」
鈴代はため息をつき、滑らかな動きで指を額に当てた。妙に手慣れた所作だ。
「一目で女性を虜にしてしまう、僕って罪だなあ。この後、吉原くんだりまで繰り出してしまおうか。今ならひょっとしたらモテるかも」
「自分に酔っぱらうならひとりでやっててください。オレは帰るっすから」
と門をくぐり、玄関に入った途端。
「――っっはぁ!?」
声と共に誰かが勢いをつけ横から滑り込んでくる。
ずざざざ、と砂煙を上げ人影は目の前でやっと止まった。
出迎えたのは一言でいうと、なんというか、濃い顔であった。
僧のように剃髪した頭、太い眉。着物の上からでもわかる、はちきれんばかりの筋肉。医者というよりも、まるで武装した修行僧か毘沙門天のようである。
静海はこちらを見て、彫りの深い顔に大仰な驚きを浮かべると、がばりと頭を下げた。
「先生、お帰りでしたか! 出迎えもできずこの静海、痛恨の極み! 大層な無礼を致しました!」
「あはは。相変わらず大げさだな、静海はー」
頭を下げられた本人はといえば、いたって呑気に笑っている。
その膝を後ろからどついて、甘斗は慌てて言った。
「そんな簡単に頭下げないでくださいって。こうやって押しかけて無料で泊めてもらってるだけで十分なんですから。ほら、先生もお礼言ってくださいよ」
顔から転げていた鈴代も、こくこくと頷く。
「う、うん……無料で泊めてもらってるだけで、十分で感謝してるよ? 静海」
「おお、そうでしたか!」
静海はぱっと顔を明るくした。暑苦しい上に忙しい人である。
「なに、いくらでも言ってくだされ! 先生のためならばこの静海、例え火の中水の中ですからな! がっはっは!」
と、静海は快活に笑ったが、甘斗は頬を引きつらせた。
本当にそれを実行しかねないところが、この人の微妙に怖いところだ。
「ささ、どうぞお入りください! ちょうど家内が飯を作り終えたところですぞ!」
近所迷惑な静海の声を聞きながら、甘斗はふと後ろを向いた。
「…………?」
そこには庭の木が、噂話でもするようにざわめいているだけ。
誰かに、見られている気がしたのだが――
甘斗は気にするのを止め、師の後を追いかけた。