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Scene.4

 

 ガタッ ガタガタガタッ



 二日目ーー。



 耳障りな物音に鼓膜を叩かれ、坂城さかきの意識は微睡まどろみの海の中からゆっくりと浮上した。


「ぅ・・・んん・・・」


 最初に感じたのは寝床の固さと冷たさから来る背中の痛みと身震いするような冷えだった。それから逃れるように寝返りを打つと枕がガサリと紙が擦れるような音がした。


 いつもと違うーー。


 そう感じて未だ重く蓋をするまぶたを僅かにこじ開ける。

 瞳孔のピントが合わず微かに差し込む光ですら目が痛い。


 ガタッ  ガタンッ


 ピントの調節も整い視界に映った物を見て、坂城の意識は瞬く間に覚醒した。


(夢じゃなかったのか!?

     くそったれっっ!!)


 最初に悪態が頭に浮かんだのは仕方の無い事だろう。


 目の前ーーこの店唯一の出入り口である自動ドアにへばりつくように、昨日散々見尽くしていい加減見飽きた水塊すいかいの姿がそこにあったのだから。


 それに伴い芋づる式に、昨夜の出来事が掘り起こされる。


 先ずは音を立てずに、昨日ずっと持ち歩いていた『マツモトキヨシ』の買い物(かご)から冷却タイプの殺虫剤を二本取り出すとビニールを破く。

 宇江原うえはらは未だスヤスヤと寝息を立てて眠っている。

 時間は朝の九時を回った所か。

 身体は起き抜けで強張ってはいるが、昨日歩き過ぎたせいで足の裏が痛むくらいで動かない所は無さそうだ。息を殺して四つん這いからゆっくりとクラウチングスタートのような姿勢へ移行し身構える。


 ざっと回りの状況を確認し終えると、視界は再び水塊へ。

 巨大な大福を思わせるフォルムに薄い水色の透き通った身体。その中には男と思わしき人物が一人浸されていた。

 男と思わしきと言うのも、中の人の皮膚や筋肉や脂肪、その他諸々が酸に浸されたように半ば溶け、およそ着ていた服装からくらいしか判別出来なかった為である。


(寝ていてくれて助かったな)


 一瞬、宇江原へ視線が動く。そして一番最初に考えた事がそれだった事に驚く。他人と関わるのが苦手な自分が最初に他人の心配をするなんてと。

 その後、やはりこいつ等は飲み込んだ人間を喰らうのかと確信した。


 そんな坂城の考え等知った事かと、自動ドアにへばりついたままウゾウゾと蠢く。しかし鍵の掛かった自動ドアを強引に開ける程の力も知能も無いらしく、また中に人が入っているせいかしくはそこまで軟体構造では無いのか、僅かに開く隙間から侵入してくるといった事も無さそうだ。


 坂城が目を覚ましてから自動ドアとじゃれる事およそ五分。

 入れない事を無い頭でやっと理解出来たのか水塊が自動ドアから離れると、のたりくらりと身体と中身を揺らしながら何処どこかへ去って行ってしまった。

 見える範囲から完全に姿を消したのを確認し、ようやく坂城は肺一杯に吸い込んだ息を吐き出して、手にした殺虫剤を籠へと戻すと床に座ってレジ台へもたれ掛かった。


 それにしても・・・と坂城は考える。


 昨日したくもない観察を嫌と言う程した結果。

1、あの水の化け者共は接触か音の振動を表面で感じて大まかな位置を把握して近付く。

2、進行方向ーー恐らく正面と思われる向きに備わっているのではなかろうかと推察されるサーモセンサーのような器官で、おおよそ5~10メートル程度以内の範囲にある熱源の正確な位置を把握してそれを襲う。

 と、推論を立てていた。


 しかし今目にした行動は、そのどちらかにも当て嵌まっていなかったように感じる。


(偶然移動してた所俺達を感知したのか?それともまだ他に人を襲う為の、別のセンサーか何かがあるのか?若しくはそんな事は全く関係無く、もっと別の理由があるのか?)


 そう思い至って外を観察してみる。


 今の時刻は朝の九時半になったばかり。アスファルトの地面は当たり前では無い非日常をその上に載せているのに対し、雲一つ無い空は太陽が当たり前のように上っているようで実に良く晴れていた。

 その晴れた青空の下、店内から見える青山通りは明るく照らし出されており、そこに水塊の姿は一つとして見付け出す事は出来なかった。

 それ所か五分程外を眺めるが、動く物は何一つとして無い。


(ひょっとして・・・日の当たらない場所を探していたのか?)


 確証付ける証拠は何一つ無いが、坂城はそう推論を立ててみる。


(当たっていたとしら、次からの移動は昼間の方が良いかもな)


 そしてさっきの水塊の中身から別の推論も立てる。

 中の人物は明らかに消化されており、それはつまり消化後は吸収されて栄養になると言う事を意味するだろう。

 ならばその栄養は何に使われるのか?


 その答えは自己の維持と、恐らく繁殖ではないだろうか。

 水の化け者供には雌雄の区別等有るようには見えない。雌雄同体でも無さそう・・・と言うより、生殖器自体有るかどうかさえ怪しい。

 となると、アメーバのように細胞分裂だろうか?


(あのサイズで人を餌として二つ三つと分かれて行く・・・)


 自民党本部付近から見た光景を思い出し戦慄する。

 きっと彼処あそこだけでは無く皇居周辺全てをあの密度で埋め尽くされていただろう。

 それ等全てが人を喰らい二つ三つと増えていく・・・。


「う・・・んん」


 宇江原が可愛らしい声を上げてむっくりと起き上がる。

 ぐぐぅっと伸びをして寝ぼけ眼で周囲を見回す。その視線が坂城の所でピタリと停まった。



 一秒・・・二秒・・・三秒・・・・・・。



 意識が完全に覚醒したらしくみるみる内に顔が上気すると、パニクるようにバタバタと手足を動かしあわてふためく。


「ああああの、その、おはおはようごございます・・・おはようござります!」

「あぁ、おはよう」


 選択肢が多過ぎて一体何に対してなのかは解らないが、恥ずかしそうに俯きつっかえながら噛みながら挨拶をしてくる宇江原と、余りの慌てっぷりに面食らいながら挨拶を返す坂城。

 いい加減グジグジと当たってるのか無いのか確かめようの無い事を考えるのが馬鹿らしくなった。


「・・・顔、洗ってきます」

「ああ」


 トートバッグを抱え立ち上がるとキョロキョロと店内を見渡し、トテテテと小走りに化粧室へと向かう。

 それを見送り、寝癖の付いた頭をガシガシと掻き回すと『水の化け者増殖説』を思考の隅へと追いやった。


 少し間が空き水が流れ出る音が聞こえてくる。


(俺も後で顔を洗おう・・・)


 やおら立ち上がり、坂城は店内を巡回する。

 食糧は申し分無い程ある。タオルに石鹸、歯ブラシ等々、日曜雑貨にも困る事は無さそうだ。これなら二人で一月くらい十分凌しのげるだろう。


 しかしーーと、坂城は先を考える。


 救助は何時いつ頃来てくれるだろうか?

 明日?明後日?一週間後?

 もし二週間、三週間後に来た場合、果たして精神的に無事で居られるだろうか?


(後は最悪救助が無かった場合、別の場所への移動も視野に入れておいた方が良いか・・・)


 そしてもう一つ。

 救助が来た場合では無く、救助を()()来た場合の事を考える。

 一人くらいならまだ良い。

 三人になっても食糧は何とかなるだろう。

 しかし、二人、三人、四人とその数が増えた場合どうだろうか?

 食糧問題が発生するだろう。意見の対立から争いが生じ、最悪殺し合いになるかもしれない。


(ならば来ても拒否すれば?)


 向こうも生きるか死ぬかで来る筈だ。食糧目当てに無理矢理にでも侵入して来ようとするだろう。

 そうなればここに立て籠る事も難しくなるかも知れない。


(『助けに来た』以外の人間が来た場合厄介だな・・・)


 自分が生き残る為に場合によっては非人道的な決断をらなくてはならないか。と、心の中で決意する。


 と、丁度顔を洗った宇江原が戻って来た。

 化粧っ気の無くなった今の顔はそれまで見ていた顔よりもずっと幼く見えた。

 坂城の視線に気付き、宇江原は慌てて持っていたハンドタオルで顔を隠した。


「やっ!?あの、今素っぴんなんであんまり見ないで下さいっっ」

「どうして?」

「どうしてって・・・恥ずかしいです!」

「そうなんだ?済まなかったな」


 坂城は宇江原から視線を逸らす。

 朝素っぴんで電車に乗り、人前で平気で化粧をする女も居れば、今の宇江原のように恥ずかしいと言う女も居る。

 女の化粧に対する位置付けが今一つ解らない坂城であった。


「それにしても未成年だとは思わなかったな」

「えっ!?」

「違ったか?」

「わ、私これでも21ですっ!お酒だってちゃんと飲めるんですからねっ!!」

「わ、悪かった。化粧落としたら若く見えたもんで・・・」

「むぅ~・・・」


 顔の殆どを隠したタオルを少しずらし、拗ねた視線を坂城に向ける。隠れて見えないが口は尖らせているかも知れない。


「坂城さんはいくつなんですか?」

「俺?23だけど」

「23!?」

「見えないか?」

「・・・はい。落ち着いてるし、しっかりしてるので、若くてもアラサーだとばかり・・・」


 くきゅぅ・・・


 唐突に何かを締め上げたような音が鳴った。


 坂城が音の出所を探そうとすると、宇江原がハンドタオルと両手で顔を覆い隠してうずくまった。


「あー・・・、何か食べようか?」

「・・・・・・はい」


 隠した顔は羞恥で真っ赤になっているのではないだろうか。

 消え入りそうな涙声で言葉短く答える。



 二人は遅めの朝食を摂る為、棚の物色を開始した。



 坂城は焼き肉重にとろけるチーズを乗せてチンしたものとゴマドレッシングを掛けたサラダとレモンティー。

 宇江原は冷製サラダパスタとレタスサンドとミルクティー。


「いただきます」

「ごめんなさい、いただきます」


 それぞれ会計台の上に置き立ってまま食べる。



 食後、坂城は自動ドアに『SOS』の形にガムテープを貼り付けると、コンビニから一切出る事は無く二日目の終わりを迎えた。




ーーーーーーーーーー




 三日目の朝ーー。



 宇江原が熱を出した。


 今は午前七時を少し回った辺り。妙な音で目が覚めた坂城は、寝ている宇江原の姿を見て顔を青ざめた。

 顔は赤みを帯び、全身から大量に汗をかいている。

 呼吸も浅く短くを何度も繰り返し、寝ていると言うよりも倒れていると言った方がしっくりと来る有り様だった。


(俺は馬鹿だーー)


 坂城は自分を責める。

 自分が平気だからと言って他人も同じだと何故なぜ思ったんだと。

 一緒に居るのは男の自分よりずっと体力の劣る女だったのにと。


 しかし何時までも自責の念に駆られているだけでは、宇江原の体調が元に戻る事はない。

 坂城は直ぐ様行動に出る。


 先ずスイング・ドアを勢い良く押し開き、倉庫スペースで何か無いかと物色を開始する。

 目に入ったのは所狭しと棚に積まれた段ボール。直ぐ様冷たい床へ体温を奪わせない事に思い至り、棚と棚の間に畳んであった段ボールを手に取った。しかしそれだけでは数が足りず、大きな物から中身を放り出して畳む。

 作業中倉庫の奥に仕舞われた銀色の派手派手な断熱シートも見つけ急いで店内へ戻った。


 床に段ボールを二重三重ふたえみえに重ね合わせて敷き詰めて、ぐったりと動かない宇江原を抱き上げその上に寝かし付けると上から断熱シートを掛ける。


 次に店内を歩く。この店にはで安い栄養ドリンクの類いはあっても、解熱剤等、薬の類いは一切無かった。


(こんな事なら『マツキヨ』で薬も幾つか持ってくれば良かった・・・)


 今更後悔しても後の祭りだ。

 冷えピタと二枚組のタオル、それと冷蔵棚で冷やしておいた最後の五千円のユンケルを手に再び宇江原の元へ。


 首筋の頸動脈の辺りに一枚ずつ冷えピタを貼る。


「ぅっ・・・」


 冷えピタが冷たかったのか声を漏らすとうっすらと瞼が開けた。焦点の合ってない潤んだ瞳がゆっくりさ迷う。


「・・・坂城・・・さん?」


 譫言うわごとのように視界に映った男の名を呼んだ。


「気付かなくて済まなかった。辛いだろうが我慢してくれ。必ず良くなるから」

「ぁ・・・」


 坂城はユンケルの蓋を開けてからある事に気付くと立ち上がり、レジ下に収納されていたストローを取り出すと、封を開け飲み口に差して戻ってくる。

 背中に腕を回し身体を支えながら半身を起こさせると、ストローを口許に近付ける。


「さあ、飲んで」

「・・・んっ、げほ、げほっ!」

「急がなくて良い。ゆっくり少しずつ飲んで」


 やはり飲み慣れないせいか、宇江原は眉をしかめるが、それでも我慢して全部飲み干した。


「よぉし、良い子だ。ほら、横になって」


 起こした身体をゆっくりと髪の毛が身体の下敷きにならないように除けながら倒し、近くに積んでいた雑誌の束とタオルを折り畳んで頭に噛まし枕代わりにする。


 熱に浮かされた瞳で見詰めてくる宇江原に余り人に見せた事の無い微笑みをぎこちなく作って見せると、最後の仕上げにもう一枚のタオルを手に、レジ向こうにある流し台へと向かう。


 卸したてのタオルは肌触りが悪く、水に濡らしては絞りを何度か繰り返して生地を解す。最後に固めに絞ったタオルを手に、戻るついでに事務所へ向かうと空調のコントロールパネルの自動空調を『高め』に設定して三度みたび宇江原の元へ。

 顔にかいた汗を丁寧に拭ってやり最後に額にタオルを乗せる。


「取りあえずの処置はこれで良いんだろうか?」


 一通りの事を済ませ大きく息を吐き出すと、額に滲んだ汗を手の甲で拭い取る。

 と、じっと坂城を追っていた宇江原の霞んだ瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ始める。


「ごめ、なっ、ざい・・・足引っ張ってばか、りでごっ・・・べんなざぃ・・・」


 何か失敗したかと思いギョッとする坂城の目の前で、涙と一緒に謝罪の言葉がこぼれ落ちる。

 何だそんな事と一つ嘆息すると、一瞬躊躇(ちゅうちょ)した後そっと優しくーー実際には恐る恐る宇江原の頭に触れる。


「気にするな」


 困惑しながら何とかそれだけ言葉にする。

 それが人と接する事が不得意な坂城にとって、泣きながら謝る相手に対して出来た精一杯だった。


「ありがど、う・・・ござ、ぃまず・・・」


 涙と鼻水でくちゃくちゃになった顔をタオルで拭うと、それを洗いに流しへ向かった。




ーーーーーーーーーー




 坂城は食事や水分補給、その他諸々の宇江原の世話を焼き、夕暮れ刻には万全とは行かないまでも一人で身体を起こすくらいには復調していた。


「坂城さんのお陰で体調もすっかり良くなりました。ホントにありがとうございます」

「困った時はお互い様だ。この先俺だって身体の調子を崩す事もあるだろうし」

「その時は私が全力で看病させて頂きますね♪」

「あぁ、その時はよろしく頼む」


 二人の顔に自然と笑みが浮かぶ。


「それであのぅ・・・厚かましいとは思うのですが・・・一つお願いがですね。有るのですけれども・・・」

「お願い?」


 もじもじと言いにくそうにする宇江原に、一体何を頼まれるのかと思わず身構える坂城。


「はい。その・・・熱が出てしまいましてですね・・・それで物凄く汗をかいてしまいまして・・・出来ればお湯を少しばかり用意して頂けないかと思った次第で・・・」

「何だそんな事か」

「お手数お掛けします」

「何、気にするな」


 坂城は立ち上がると流しの方へ向かう。その背中を見送り宇江原は笑顔を消して何事かを決意するような神妙な面持ちをした。

 幸い流し台の下にプラスチックの桶があり、それに水道から出したお湯を溜める。


「ありがとうございます」


 坂城が戻ってくる時に笑顔へと戻っていた宇江原がお湯の入った桶を受け取ると、さっきまで額に乗せていたタオルを温かなお湯へ浸した。


「あの・・・」


 そして恥ずかしそうに視線を落としつつ、坂城をチラチラと覗き見る。


「服を脱ぐので後ろを向いてて貰っても良いですか?」

「ぉあっ!?す、済まないっっ!!」


 坂城は間抜けな声を上げ、面白いくらいの狼狽ろうばいっぷりを見せつけると宇江原に背中を向ける。

 自分が見ず知らずの女と一つ屋根の下に居るんだと言う事を、これまでに無いくらい坂城に強く意識させた。


 強く意識した途端、善からぬ妄想が鎌首かまくびもたげ、全神経が耳へと集約されて行く。


 ガサガサと言う障りの悪い音は断熱シートをめくり上げた音だろうか。

 次いでシュルシュルと衣擦れが聞こえてくる。

 今のカチッと言う固い音は何の音だろうか?

 湯に浸けたタオルを絞る水の音。

 身体を拭く音が聞こえてくる。今どの辺りを拭いているのだろうか?首か、腕か、それとも・・・。


 目に見えない音が坂城の内側で渦巻く劣情をこれでもかと焚き付ける。くすぶっていた線香程の灯火がメラメラとその勢いを増して行く。


(こんな非常事態に何を考えてるんだ俺はっ!!?)


 ギュッと目をつむりギリリと歯を食い縛り、想像と妄想を頭から振り祓う。

 万が一劣情に負けて欲望を剥き出しにして宇江原を襲ってしまったら、その後一体どうすれば良いのか皆目検討が付かない。


 罪の意識にさいなまれ続けるのだろうか?それとも開き直ってしまうのか?


 恐らく前者ではなかろうか。胃に穴が開く程の罪の意識に苛まれ居たたまれなくなるに違いない。

 考えただけでキリキリと胃が痛くなる。


「・・・坂城さん」


 背中に声が掛かる。


「何だっ!?」


 情けないくらい声が裏返る。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


 沈黙が続く。長いような短いような色々な物がない交ぜになった張り詰めた沈黙。薄氷の如き緊張感。

 最初にそれを叩き割ったのは宇江原だった。


「てっ・・・手が届かないので背中を拭いてくれませんか・・・」


 微かに震える声で渾身の一撃を放つ。

 ド直球の一撃を受けてクラリと揺らぐ坂城の理性。ゴクリと唾を飲み込む音が直接脳に響く。


「いや・・・しかし、その、だな・・・それは、不味いんじゃない、かな・・・?」

「お願いします」


 最終盤のジェンガの如くグラグラと揺れながら、必死に崩れまいと堪える坂城。そこへ宇江原はさらに追撃を加える。

 状況は圧倒的劣勢である。


「いや、そう言われましても・・・」

「お願いします」

「しかし・・・」

「お願いします」

「・・・はい」


 尚も粘ろうとする坂城だったが、初めに比べほんの少し強く意志のこもる口調に、理性の一ノ門が白旗を上げた。


 大きく一度深呼吸をして決意を固め振り返ると、片腕で胸を隠し背中を向けた宇江原が後ろ手に回しタオルを差し出していた。

 緊張で震える手を伸ばしそれを受け取る。


「それじゃあ・・・」

「・・・はい」


 互いに覚悟を決めるような神妙な口調と面持ち。

 宇江原がタオルを渡し空になった手で肩甲骨の辺りまで伸びた髪を掻き上げる。露になるほっそりとした白いうなじに白い背中。

 目の前にさらけ出される、触れるのも躊躇ためらわれる華奢きゃしゃな身体。


 壊れ物を扱うようにタオルを押し当てる。触れた瞬間ビクリと震える背中。小刻みに震えるそれが坂城の物か、はたまた宇江原の物か解らない。

 撫でるように上から下へタオルを動かす。その動きに併せて背中を反らせた。「くふっ」っと、唇を押し退けて熱い息が漏れる。


 黙々と無心で背中を拭く。今の坂城には何かを考える余裕等皆無だった。

 領から肩、肩甲骨を通りくびれた腰、尻の割れ目へと視線が落ちる。離したくても目が離せない。


「あの・・・坂城さん・・・・・・」


 宇江原の声で、坂城に掛けられた呪縛が解かれた。はっと我に返る。そして呼吸を忘れていた事に気付き慌てて酸素を取り込んだ。


(助かった・・・)


 極度の緊張から朝方の宇江原以上に坂城の全身からは汗が吹き出していた。筋肉が強張り肉離れを起こしそうだった。

 精神が極限まで磨り減っていた。

 「一体何の試練なんだ!」と、叫びこの場から逃げ出してしまいたい気分だった。

 坂城の理性の二ノ門は最早陥落寸前だった。


 だが、これでもう終わり。

 坂城の理性は辛くも保たれた。


「もう少し、前の方まで拭いて欲しいです・・・」


(まだかぁぁっっっ)


 坂城の二ノ門が陥落した。


 胸を隠した腕を離し両手で髪を持ち上げる。束縛から解放された胸がその柔らかさを主張するように、ぷるんっと揺れる。

 服の上からでは気付かなかったが以外とその実りは大きく、坂城の位置からではその先端が窺えないのがまたもどかしい。

 ギリギリの攻めぎあい。理性の本丸のあちこちが燻り始める。


(いやいやいやいやいやいやっ!!)


 坂城は穴の空く程釘付けになる視線を強引に引き剥がし真正面を向く。


 その瞬間、坂城がピカソの絵のように固まった。


 正面の壁は一面ガラス張りだった。店の外と中を隔てるそのガラスに宇江原の姿がうっすらとしかしはっきりと映り込んでいた。


 括れの中央にちょこんと鎮座する縦長の窪むへそ

 たわわに実るふたつの乳房。尖端の桜色。

 目を伏せキュッと真一文字に結んだ口。羞恥に耳まで真っ赤に染まっていた。


「はぁ・・・はぁ・・・」


 思考回路はショート寸前ーー。


 錆びたブリキ人形のようなぎこちない動きでタオルを持った手を伸ばす。

 呼吸が浅く早く荒くなる。酸素が全く足りない。

 アル中末期のように、腋の下に差し込んだ手の震えが止まらない。


 宇江原の肌に触れる。

 タオル越しでも確かに伝わる柔らかで張りのある感触。


「ぁっ」


 宇江原のキツく結んだ口がほどけ艶かしい声が零れ落ちた。



 本丸大炎上ーー。



 その夜、坂城は男になった。

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