Scene.16
9日目ーー。
曇天のこの日は『斎藤班』と『戸崎班』の二班が屋外探索を行う事となり、『斎藤班』は今日も表参道方面へ出向き『戸崎班』はビックカメラ周辺のスライムの数が多く二の足を踏んでいた箇所へ赴く運びとなった。
「ん?」
曲がり角の壁に背を張り付けた『斎藤班』の斥候を勤める坂城が手に持った手鏡に写し出す、これから進む通りを見ながら疑問符を浮かべた。
その通りは青山通りよりは道幅は狭いが中央線も歩道も有り、スライムが常時徘徊するような陽の光が余り差さない薄暗い路地では無い。
だが、鏡に写るその通りには三匹のスライムが蠢いている姿が見てとれた。
(今日は太陽が隠れてるからか?)
太陽の位置が今一つ掴めない程厚い雲が垂れ籠めた空を一度見上げ、再び鏡の中のスライムに注視する。
坂城には三匹のスライムが場違いな場所を徘徊している事よりももっと気に掛かる事があった。
三匹のスライムの内、二匹の中にぷかりと浮かぶ一人の女と一人の幼女、そして一人の男の亡骸。
遠目から見たそれらは殆ど消化されているようには見えず、極最近取り込まれたのではないかと想起させた。
「どうかしたんですか?」
背後から控え目な声量の声が掛かる。見れば先行した坂城に追い付いた本隊の、先頭を歩いていた荷物運搬人役の女が訝しげな表情を浮かべて立っていた。
「この先にスライムが屯している。数は3」
坂城の返答に三十絡みの女の顔に緊張の色が走る。
「殺すんですか?」
「龍起にどうするか聞いてくる。その間あいつ等の見張りを頼む」
「え?あ、はい」
一瞬、戸惑うような拒絶するような表情を見せるも直ぐに同意する女に、坂城は気付かない振りをして手鏡を渡すと、小脇に挟んでいた金属バットを持ち直し斎藤の元へと向かった。
「何かあったか?」
一列縦隊の中央に陣取る斎藤が、近付いて来る坂城に対して問い掛ける。
「進行方向にスライムが三匹。どうする?」
「三匹くらい今の俺等にゃ大した事無ぇだろ?殺って進めば良いじゃんか」
あっけらかんと即断する斎藤に浮かない表情を見せる坂城。その理由が解らず問い質す。
「何か問題でもあるのか?」
「今日は出来る限りスライムには関わらない方が良いんじゃないかと思う」
「何でだ?」
「龍起も知っての通りスライムは日中、陽の光が当たらないような暗がりに身を潜めて夜になると街中を徘徊する性質があるだろ?」
「だな」
「それなのにあの角の向こうに居るスライムは日中にも関わらず、往来のど真ん中に三匹も姿を見せている。
それってひょっとしたら直射日光を浴びない、若しくはこの程度の明るさであればスライムは苦も無く活動出来るんじゃ無いかって新たな推測が出来る」
「で?」
「もしこの推論が正しかった場合、三匹以外にも近くで誰かがやって来るのを待ち構えてるスライムが居る可能性も考えられる。
その場合、目の前のスライムを退治してる最中に他のスライムが音や熱に釣られてやって来たら、果たして俺達は無事に乗り切る事が出来るんだろうか?」
「ふーむ・・・」
坂城の推測に耳を傾ける斎藤が、両手で持った金属バットを地面に突き立てた仁王立ちの姿勢のまま目を瞑り思案顔で考え込むが、直ぐに諦めたのか短く溜め息を吐き出した。
「『軍師危うきは力ずく』だよな・・・。仕方ない、別の道を探すとするか」
ーーーーーーーーーー
「一つ確認したい事が有るんだが」
昼前ーー。
スライムの居た通りを大きく迂回して目的のスーパーに到着した一行は、まだ荒らされていない店内から数多くの物資を持てるだけ掻き集め、早目の昼食を取っていた。
「何だ?」
床に胡座を掻き、口の中一杯に頬張ったカレーふりかけを混ぜ込んだ握り飯をプルタブを開けたばかりのトニックウォーターで流し込んだ斎藤が、対面に座り此方に視線を向ける坂城に訊ね返した。
「もしこの先俺達以外の人間に出会った時、どうするつもりでいるんだ?」
唐揚げを口に入れていた黒烏龍茶で口の中をさっぱりとさせてから坂城口を開く。
「人間って・・・他のチームの奴等にって事か?」
「いや、何処のチームにも属して無い、行く宛の無さそうな人間」
二人が同時に割り箸を伸ばし、同じ卵焼きを摘まもうとして慌てて箸を引っ込めた。
賞味期限を大きく超過した物が目立ち始め、現地調達で昼食を摂る事が困難になりつつあった斎藤達は今日から弁当を持参して探索を行っていた。
「あ~、そっちな~」
一度は引っ込めたが改めて卵焼きを取る斎藤。坂城はそれを確認してから別の卵焼きへ箸を伸ばす。
「使える奴なら是非ともチームに入って欲しいけどな」
「使えるって?俺の時みたいにスライムと戦わせるのか?」
「いやいや、フツーそんな事しねぇって」
その言葉を半笑いで否定して、手にした残りのカレーおにぎりを平らげる斎藤。坂城は紫蘇のふりかけを混ぜ込んだ握り飯を一口噛る。
「普通は声掛けて、俺等に従うって誓うなら仲間に入れるって感じだ。その時に何か取り柄があるのか聞いてみるんだが今の所、数人以外に驚いた奴なんて居なかったな」
思い出すように視線をさ迷わせながら二個目の若布を混ぜ込んだ握り飯を手に取る。
「相手が従えないって言った場合はどうするんだ?」
「これまでそんな事言う奴は居なかったが、もし居たとしてそんな奴を仲間に入れる必要が有るのか?野垂れ死ぬなりスライムかマッドラットの餌になるなり好きなのを選べば良いさ」
「やっぱりそうなるか」
坂城は残りの紫蘇おにぎりを口に放り込む。
「しかし何でまたそんな話をしようって気になったんだ?」
「此処に来る時に迂回した道に居たスライム供の中に、殆ど消化されてない人間が入ってたのが見えたんでな。ちょっと気になっただけだ」
「ふーん」
坂城の言葉の意味が理解出来たのかどうか解らないが適当に流し唐揚げとワカメおにぎりに噛り付き、何度か咀嚼した後缶を垂直まで傾け中身を飲み干す。
「ふぅ~~、ごっつぉさんっと」
腹がくちくなった所で斎藤が食後の挨拶を済ませると、やおらポケットからくしゃりとシワの寄ったタバコのパッケージを取り出すと、指で頭を軽く叩き、中に入っていた内の一本を開いた口から一飛び出させた。
その巻き紙の黒い一本のタバコを口に咥えると、残りは元あったポケットへ仕舞い、代わって最近見かける事の無くなった何処かの店の紙マッチを取り出した。
半分ほどに減った中身の一本を千切ると頭薬部分を側薬に擦り付け、咥えタバコの先っぽを儚く揺れる小さな灯火へと近付けた。
チリリ ジジ・・・・・・
「・・・・・・ふぅぅぅぅ~~~」
口の中で転がした煙を溜め息を付くように燻らせる。煙に乗って辺りに広がる濃厚な甘いバニラの香りが坂城の鼻先をくすぐった。
「龍起タバコ吸ったんだな」
「煙草じゃなくて葉巻と言って欲しいな」
嗅いだ事の無いタバコの匂いに面喰らう坂城に、斎藤がヘッドを甘噛みしながら子供のようにニカリと笑う。
「千早が嫌がるんであいつの前では吸わねぇだけだ」
そう言いながら笑みを苦笑へと変え、もう一度煙を吐き出す。
再び広がる甘い香り。
「ま、あいつ等には元気なガキを産んで貰われねぇとだからよ」
「あいつ・・・等?」
葉巻の灰を空になった缶に落とす斎藤の言動に、思わず坂城が疑問符を投げ掛ける。
「そ。歌音と千早と、ひょっとしたらもっと多くの女達にな・・・って、どうしたよ?変な顔しやがって」
助平な笑みを浮かべる斎藤だったが、ジト目を向ける坂城に怪訝そうな表情を返す。
「いや、何でも。当人同士がそれで良いって言うのなら、他人がとやかく言うような事じゃ無いだろうしな」
「何だ?お前も『一人の女だけをぉ~~』とか、眠たい事言う奴等の一人か?
チッ、チッ、チッ。解ってねぇな~、数人さんはよぉ~」
斎藤が坂城の顔の前に人差し指を突き出して舌打ちに合わせて左右に振る。
「男と女じゃ愛の形ってのは全然違うんだぜ?女の愛は底無しに深くて男の愛は果てし無くだだっ広い!
そんな男の愛が一人の女の器に収まりきると思うか?収まりきる訳無ぇじゃねぇか。
それに何てったって男には、身体の中で愛の結晶を後生大事に育む事は逆立ちしたって出来ねぇんだからな」
「うん、まぁ、頑張ってくれ」
大仰に演説を垂れる斎藤に、坂城はやれやれと溜め息を吐いてその演説の大半を聞き流した。
「お前もいつか解るようになるさ。岬辺りとヤりまくってればな」
「なっちょっおまっ、こんな所でっっ!?」
「あっはっはっ・・・」
坂城の言葉になら無い言葉を口にしながらあわてふためく様を見て大笑いする斎藤。周囲の面々は聞かなかった振りをしてくれているのか此方に関心の無い体を装ってくれている。
斎藤は一笑いすると再び黒い葉巻をふかす。再び漂う甘いバニラの香り。
「それにしても凄い匂いだな」
平静を取り繕った坂城が一嗅ぎしながら感想を呟く。
呟きながら、バイト先の休憩室でオッサン連中が吸っていたタバコの、鼻から喉に掛けての粘膜が剥ぎ取られるようなタールだかニコチンだか巻紙だかの焦げる、鼻が曲がりそうな臭いを思い出していた。
「『ブラスト』のバニラだ。やってみるか?」
ニヤリと口元を笑みの形に歪め薦める斎藤。が、坂城はその申し出にあっさりと首を左右に振った。
「いや、タバコ吸うと飯の味が変わるって言うからな。俺はタバコの味覚えるより飯の味の方が大事だ」
「そっか。ま、何が大事かは人それぞれだしな」
拒否された斎藤は若干ガッカリした顔でそう言うと葉巻を缶の中へと捨てる。
「そんじゃま、飯も食ったし休みもしたし。そろそろ出発するとしますか」
「そうだな」
立ち上がろうとする二人だが、そこへ一番離れた場所で昼休憩を取っていた攻撃要員が待ったを掛けた。
「スライムがこっちに近付いて来ます!数は1!」
「ありゃ?俺の声がデカ過ぎたか?」
斎藤が小さく舌を出して照れ笑いを見せると二人は改めて立ち上がり、ゴキジェットとチャッカマンを腰に提げたペットボトルホルダーから取り出した。
ーーーーーーーーーー
『斎藤班』一行が危なげ無くスライムを倒し大量の戦利品を手に帰路に付いて暫く歩いた先での事ーー。
「キャアアアーーーーーッッ!!」
絹を切り裂くような女の悲鳴が、うら寂しいコンクリートジャングルに木霊した。
「何の声だ?」
誰かが答え手の無い問いを誰とは無しに投げ掛ける。
斥候として本隊から離れて移動していた坂城は、悲鳴が聞こえた瞬間、その方角に辺りを付け走り出していた。
(何でだ?)
走り出し、そして走り出した自分に驚く。
以前の自分であれば悲鳴が聞こえるような危険が転がって居そうな場所へ、わざわざ走ってまで近付こうなんてしなかった。
『軍師危うきは力ずく』ーー。
ではなく、
『君子危うきに近寄らず』が自分の性分だと言う自覚があったのに、今現在全く逆の行動を取っている。
(止めた。今は現場に着いたらどうするかだけに集中しよう)
混乱しそうになる思考は一旦切り捨てる。悲鳴の上がった場所は直ぐそこまで迫っていた。
「ぃ、いやぁぁぁーーっっ!!」
再び上がる悲鳴はほんの10メートル程先の角の向こうから聞こえてきた。
(あそこか!)
坂城は数歩で角まで走り寄り、そのままの勢いで外に膨らみながら曲がる。
「や!いやぁ!!やめてっ・・・」
中央線の無い6メートル弱の幅の通りの手前には、女が仰向けに倒れ馬乗りになった一匹のマッドラットに必死に抵抗しており、その奥ーー数メートル向こうでは俯せになった男が三匹のマッドラットに集られていた。
坂城は迷わず手前の女に向かって走る。
はじめの三歩で金属バットを両手に持ち直し掲げる。
次の三歩で距離を測りバットを振りかぶる。
最後の一歩はアスファルトの地面を強く踏みしめた。
体重と勢いを上手く載せる事が出来ず身体が流れるが、此処で止めると全てが台無しになる。
無理矢理腰を回し外角低めのマッドラットの顔面目掛け、構えたバットを振り抜いた。
ゴッッ 「ヂュィッ」
最初に伝わったのは衝撃。
バットの芯がマッドラットの眉間を捉えた瞬間、鈍い衝撃がバットから両腕へと伝わり痺れさせる。
次に伝わって来たのは重さ。
高々6キロ超の物体を動かすだけとは思えない力が必要になった。腕や腰の筋肉がミリミリと音を立てる。
最後に伝わったのは感触。
ゴリゴリとした固い石膏のような物が砕ける感触と、巨大な保冷剤を叩き付けたような感触を手の中に残し、標的は女の上から数十センチ先の地面に転がった。
坂城は振り上げたバットをヒクヒクと身体を痙攣させるマッドラットの脳天に降り下ろし止めを刺した。
バットを握る手がジンジンと痺れる。斎藤はこれを数メートル吹っ飛ばすのだからどれ程膂力が有るのかと驚嘆し、自分の貧弱さと比べ落胆した。
(と、そんな事より・・・)
「大丈夫かっ!」
足元に転がる女の横に跪き声を掛ける。
やや窶れた感のある顔色の悪い女は、顔面に恐怖の一語を貼り付かせ攣き付けを起こしそうな勢いの呼吸を上げていたが、坂城の顔が視界に入ると開きかけた瞳孔が収縮して焦点がそこに定まり、安心したのかそのまま意識を失ってしまった。
身体を庇うように前へ出していた両腕の肘から先に掛けて幾つもの傷が付き血に塗みれ、庇いきれなかった身体のあちこちにも傷がある。しかし、素人判断で絶対とは言えないが致命的な傷は無いように見えた。
しかし、問題は傷の深さよりマッドラットが保有しているであろう菌による感染症ではないかと坂城は推測した。
「ヂウ!」「ヂヂュウ!」「ヂューァッ!!」
男に集っていた三匹のマッドラットが坂城を敵と認識したのか警戒色の強い鳴き声を上げて威嚇する。
マッドラット供が上から降りても男はピクリとも動かない。
睨み合う坂城と三匹のマッドラット。
「マズイな・・・」
坂城は弱気な台詞を口に出し、乾いた唇をペロリと嘗める。
マッドラット三匹相手に女を護りつつ無事に勝てるイメージがどうしても湧かない。何度シミュレーションしてもバッドエンドに行き着いてしまう。
「チュァッ!!」
マッドラットの一匹が声を上げると突進を開始した。
軽くフェイント掛けるように左右に振れ、およそ10メートルの距離を一気に削ると喉笛目掛けて飛び掛かる。
「くそ!」
金属バットを正眼に構えていた坂城は、マッドラットの動きの速さに振りかぶる事すら出来ず、舌打ち一つ、地面を蹴って横へと避けた。
「ヂゥ!」
そこへ二匹目のマッドラットが喉笛目掛けて飛び掛かってくる。血と涎でテラテラと光る牙をバットを使って遮った。
(ヤバいっーー)
更に三匹目が血塗れの爪と牙を突き立てようと深く地面に伏し、避した一匹目が着地と同時に二撃目の為に力を溜める。
絶体絶命。
最悪の結末が脳裏を過る。
とーー。
坂城と三匹目のマッドラットの間に割り込む一つの影。
「どるぁぁっっ!!!」
ドゴッッ 「ヂギィーッ!」
怒声一閃。
影の向こうで頭が胴にめり込んだマッドラットが吹っ飛んだ。
「待たせたな」
飛び掛かって来た一匹目を蹴り飛ばし、坂城に向かって不敵な笑みを浮かべる男。
「龍起っ!」
悲痛に彩られた坂城の顔に希望の光が射し込んだ。
「そっちの奴はお前に任せた!」
「任された!」
坂城はバットに噛じり付くマッドラットを引き剥がすと正眼に構えて仕切り直す。
マッドラットは一度距離を取る為にアスファルトの上を背を向け駈けると、直ぐ様地を蹴ってV字ターンを描き、再び坂城に迫り来る。
「ヂュァッ!」
「くっ!」
鋭い爪を閃かせて飛び掛かるマッドラットにタイミングが合わず身を避わす。
「何やってんだ数人!」
もう一匹のマッドラットを相手取りながら斎藤が檄を飛ばす。
「済まない、こいつがあんまりにもすばしっこくて!」
再び喉笛に喰らい付こうと飛び掛かるマッドラットを避わしながら坂城。紙一重だったせいで尻尾が頬に触れて通り過ぎる。
「落ち着け!こいつ等は原付より遅いし野球の球より的はデカイ!よっぽどの間抜けじゃなけりゃラクショーだ!!」
斎藤が喉笛目掛けて飛び掛かって来たマッドラットをフルスイングで殴り飛ばす。
固いバットが顔面を鼻先から砕き、それを身体にめり込ませたマッドラットは、数メートル先の地面まで吹っ飛んで行った。
坂城は身体に溜まった熱を吐き出すように深く大きく深呼吸するとマッドラットを睨み据える。
獰猛な牙を剥き出し地を蹴るマッドラットは人より早いが原付より遅く、人より小さいが野球の球よりは大きい。しかし、バットを振りかぶろうとするとその身体は目前まで迫って来る。
「ヂギュィィ!」
「ちぃっ!」
また避わす。もう何度目の回避になるのか覚えてもいなかった。
「来てから構えるな!来る前から構えとけ!来たら下がってそのまま振り抜け!!」
仁王立ちになり両手に持ったバットを地面に突き立て斎藤が、言葉足らずな助言を坂城に叩き付けた。
(来てから・・・来る前・・・下がって・・・振り抜け・・・?)
斎藤の言葉を反芻しながら執拗に喉笛を狙ってくるマッドラットの攻撃を避わす。爪が耳の縁を掠めて髪の毛が数本宙に舞った。
その瞬間ーー、
(そうか!)
圧倒的閃きが雷撃の如く、脳天から肛門へと突き抜けた。
坂城は着地して背を向けるマッドラットに対し、正眼に構えていた金属バットをバッターボックスに立つ野球選手のように振りかぶる。
マッドラットの軌道がV字を描き反転した。
坂城は動かない。
マッドラットが地を駈け迫った。
坂城はまだ動かない。
マッドラットが地面を蹴って跳躍した。
坂城は漸く一歩半後ろへ飛び、軸足が地面に付くともう片方の足で踏み込む。
マッドラットが坂城の喉笛が有った場所へと身を踊らせた。
坂城は軸足に溜めた力を解き放ち、腰を。胴を、肩を肘を手首を回転させてバットへ伝える。
メゴッッ 「ギュヂュッ」
力の載った金属バットがマッドラットの下顎を粉砕する。
次いで前足二本を根本から叩き折り、最後は中空を一閃。
マッドラットは縦に回転しながら弧を描き、後方へと飛んで行ってしまった。
野球で言えばファールチップだが、マッドラットにとっては致命打だ。
「やるじゃねぇか」
半死半生でまだ息のあるマッドラットの脳天を、バットの先で突き潰し止めを刺した斎藤が、ニヤリと笑い坂城を称賛する。
俯き背を曲げ、バットを杖替わりにして老人のように立つ坂城が片手を上げてそれに応えた。
息粗く身体が熱い。
狂ったように血潮が全身を駆け巡り、細胞の一つ一つが滾る。
全てが終わり、今さらながら震える手足は、遅れてきた恐怖のせいか、はたまた荒々しく昂った魂のせいか、坂城には解らない。
何度か大きく深呼吸をして息を整えた坂城が顔を上げる。
と、そこで初めて斎藤以外の面々が遠巻きに此方を見ている事に気付いた。
それらの表情は在る者は繰り広げられた戦いに興奮し、また在る者は繰り広げられた戦いに嫌悪を浮かべる。
斎藤の姿を探すと直ぐに地面に倒れる女の隣で跪いているのが見てとれた。
「こっちの方は取り敢えずは大丈夫そうだな。まだ死にゃしないだろ。あっちの方は・・・ダメだなありゃ」
ざっと見てそう判断すると荷物運搬人にタオルを要求する。
「そいつをどうするんだ?」
渡されたタオル二枚で女の両腕の付け根辺りを縛り、腕の傷から血の流れる量を減らそうと試みる斎藤に坂城が尋ねる。
「あん?どうするって?」
「このまま置いていったりはしないよな?」
「このままここに置いてったりなんかしたら寝覚めが悪ぃだろうがよ。しゃーないから連れて帰るさ」
「そうか・・・」
斎藤のその言葉を聞いた坂城は安堵の息を漏らした。
「そんじゃま、この女を誰が担いで行くかなんだが・・・」
「ああ、それなら俺が・・・」
「ちっ!」
「担いで帰る」と続けようとした坂城の台詞を遮って、舌打ち一つ、敵を見るような形相で睨み据えて来た。
(そう言えば戦闘要員は荷物は持つなって言われていたか・・・)
何時だったかは忘れたが確かに言われた事を思い出す。
しかし、そのくらいの事でそんなに睨まなくてもと、若干心に澱を溜める坂城だったがどうやらそうではないらしい。
斎藤の視線は坂城の更に先を見据えていた。
「新手だ・・・」
斎藤の短い台詞に振り返ると通りの先20メートルくらい先にある左の角から一匹のスライムが這い出して来ていた。
「何だ一匹か・・・」
坂城はホッと胸を撫で下ろし、金属バットからゴキジェットとチャッカマンへと持ち帰る。
スライムはのそのそとした動きで坂城達に近付くかと思いきや、途中に転がる男の上に乗り上げると歩みを止め、男を周囲に流れ出た血液ごと体内に取り込み始めた。
「動き出す前に仕留めるか」
坂城が正面と思われる面を避け、スライムの背後へ回り込もうとしたその時ーー、
「うぉっ!?」
背後から野太い男の驚声が辺りに響く。
声のした方向へ目を向けると何人かが攣きつった表情で同じ場所に視線を向け、その方向を目で追うと一棟のビルの一階から新たなスライムが這い出して来ていた。
それだけでは無い。
別のビルからもう一匹。
最初のスライムが現れた通りの角からもう二匹。
更に別の角からもう三匹。と、そこかしこから現れて、あっと言う間に十匹近い数のスライムに半円形に囲まれた。
半透明の薄い水色の壁がジリジリと迫り来る。
「おいお前!」
斎藤が一番近くに居た、タオルを受け取った男を呼び付けた。
「お前は荷物を全部捨ててこの女を抱えて走れ!他の連中も戦闘要員を先頭に隊列を維持したまま塒まで荷物を守って全力で走れ!
尻は俺と数人が持つっ!」
やおら集団パニックを起こしそうだった後ろの面々が、斎藤の指示で我に返ると女を抱えた男を含め、スライム供を刺激しないよう間合いから外れようとジリジリと動き出す。
「なあ数人よ・・・」
「何だ?」
ゴキジェットとチャッカマンを両手に握り諸々との間合いを測ってマンジリと後退する斎藤が、同じく隣で後退を始める坂城に向かって声を駆けた。
「俺は今、むっちゃ生きてるって実感がある。正直たまんねぇ♪」
狂喜の色の帯びた声音で危ないカミングアウトを宣うと口許に嗤みの形に歪める。
それに対し坂城は、
「俺は今、無茶苦茶生きた心地がしない。正直たまんねぇ」
と、嘯く。
だが、実際は脳下垂体からドバドバと溢れるアドレナリンにシナプスは灼かれ、早鐘の如く脈打つ心臓が沸騰しそうなくらい滾ぎる血を暴れ馬のように全身へと駆り立てる様は、マッドラットを相手にしていた時の比では無かった。
そんな坂城の秘めた心情を感じ取ったのか、斎藤は横目でチラリとだけ坂城を見ると何も言わずに「へっ」と笑う。
息をするのも憚られると言わんとする空気の中、全員がにじり、にじり、と移動する。
薄氷の上に立つかのような緊張ーーそして、
「走れぇぇぇっっ!!」
斎藤の号令の元、薄氷は音を立てて打ち砕かれた。