雪。3
保健室を後にして、少し前を歩く瑠維の腕を掴んだ。
廊下のガラス窓には先ほどよりもずっと強くなった雪風が叩きつけられるようにして張り付いている。
足が竦んで動けなかった。
そんな僕を、瑠維はただ黙って見つめた後、
「足が痛むのか」
そう言って事も無げに僕の体を抱き上げた。
突然のことに身動きもできない。姫抱きというよりは、ほとんど担ぎ上げられているような状態だ。
だけど、足の悪い僕にはそれがとても楽な体勢だったし、女の子みたいな扱いをされるよりはずっとマシだったので黙っていることにした。
そもそも、同じ男に抱え上げられている時点で、男扱いはされていない気がするけど、反発するのにも体力を使うことを知っているから、今日だけは、返事も聞かずに僕を抱き上げた瑠維の、俺様で尚且つ優しさに満ちた行動を甘んじて享受しようと思った。
それほどに具合が悪かったとも言える。
ちゃんと掴まっておけよ、というぶっきらぼうな声を聞きながら目を閉じた。
瑠維には、雪が苦手だということを話したことはない。
他にも苦手なものがたくさんあるけれど、それらについて、語ったこともない。
僕は、小さな体格と細くて虚弱な様子から女の子に見られることも少なくないけれど、弱点をわざわざ口にするような人間でもない。
瑠維はしばしば、僕を、まるでガラス細工か何かのように扱うけれど、別にそれを好ましく思っているわけでもない。ただ、それについては諦めているだけだ。
僕らは幼馴染で、瑠維がどういう思考でどうしてそんな行動をとるのかが手に取るように分かるから。
彼は別に、僕を女の子扱いしているわけではなく、ただ気遣っているだけなのだ。
だけど、僕に僅かに残っている虚栄心とか、男としての自尊心とかは、自ら弱点をひけらかすことを良しとしない。
だから、わざわざ、僕の苦手なものについて口にしたことはないのだ。
もっとも、隠しても無駄なことも分かっているのだけど。
まさか気を失うほどに苦手だとは思っていないだろうけど、雪が降る度に、どこか様子の違う僕にはきっと気づいているのだろう。
だから、瑠維は朝からずっと僕の様子を伺っていた。
子供の頃から、こういう症状を繰り返していれば嫌でも気づくのだろう。
「瑠維、ごめんね」
目を閉じて、僕を抱えて歩く瑠維の肩に半身を預けると、瑠維はふ、と笑った。
「お前なんて抱えてる内に入らねぇよ」
僕の斜め掛けの学生カバンを肩に掛け、逆の肩には自分のカバンを下げている。
更に、両手で僕を抱えているのだ。重くないはずがない。
だけど、本当に重さなんて感じていないのかふらつくことも上体が揺れることもなかった。
幼い頃は、確か同じくらいか、僕の方が大きいくらいだったのに。
いつの間にかこんなにも差をつけられた。
180cmを超える長身の瑠維と、160cmには到底届きそうにない僕。
同級生に見られることさえ少ない。
「玄関前にタクシー停まってるから」
「・・ん」
下駄箱が整然と並んでいる生徒専用の昇降口は、授業中の為、しんと静まり返っていた。
外へと続く、いつもは開け放たれているガラス張りの扉もきっちりと閉められている。
思わず目を開けてしまって、途端に後悔した。
扉を打ち付けるようにして雪がこちらに向かってくる。昇降口から中に入ろうとしてガラスに阻まれ、べちゃべちゃと潰されて下に落ちていく。
その様子が、あの日、車の後部座席で見ていた風景によく似ていた。
思わず、縋り付くようにして瑠維の制服を握ると、慰めるように背中をぽんぽんと叩かれる。
「瑠維」
「うん」
「瑠維」
「うん」
そうされていると、不思議と気分が落ち着いてきた。
浅くなっていた呼吸も戻ってくる。
「家に着くまで眠っとけば」
「うん」
こくりと肯くと、止まっていた瑠維の足が動き出すのが分かった。
微かに響く振動が心地良い。
入口から外に出た瞬間は顔に冷風と雪が吹き付けたけれど、視界に入ってさえいなければ何も問題なかった。そういえば、傘を持って来ていなかったな、と、今更どうでも良いことを考える。
外に出たのは一瞬で、すぐにタクシーに乗り込むことができたのだろう。
温かい場所にそっと体を下ろされた。
そのまま、促されるようにして横に寝かされる。
自分の頭が落ちた先が瑠維の膝だと分かっていたけれど、首元を上から押さえ込まれたので動くことはできなかった。
「家に着いたら起こすから」
「うん」
肩の辺りをするりと撫でられる。
優しい仕草だ。とても安心できる。
世界で、僕の居場所はここだけだって言われてるみたいだ。
そんなはずはないのに。
僕の居場所は、この世界のどこにもない。
家族を亡くしたとき、失ったのは、家族だけじゃなかった。
それまで自分のものだと思っていたほとんどのものを失くした。
家や僕の部屋、机、椅子、ベッド、リビングのソファ、自転車、靴、服、食器、お箸、何もかも。
新しい場所に、それまで使っていた物は持っていくことができなかったから。
父の使っていたボストンバックに、詰められるだけ洋服を詰めた。
だけど、ほとんどが入りきらなかった。
兄からのおさがりも部屋の箪笥にしまったまま、取り出すことさえできなくて。
いくつかのダンボールに日用品や教科書やノートを放り込んだ。
当時、必要だったものだけしか持っていけなかった。
他のものは、後から取りに来れば良いと言われたけど、結局、そのままになっている。
そのまま、というか。
家に残してきたものの行く末を、僕は知らない。
知りたくなかったから。
処分されたとか、もしくは誰かに引き渡されたのだとしても、それを知ってしまったら、今度こそ僕は全てを失う気がしたのだ。
だから、僕は時々、あの時失ったものに思いを馳せる。
思い出だけが僕のよすがだ。
「―――――三津、着いたぞ」
一度の呼びかけで目を覚ましたのは、眠りが浅かったからだろう。
既に支払いは済ませたのか、タクシーに乗り込んだときと同様、瑠維に抱えられた。
「お前はもう少し食ったほうが良いな。軽すぎる」
ぽつりと落とされた言葉に返事はしない。
これ以上、ご飯を食べるのは無理だと判じたからだ。
食事の時間は、割りと苦行に近いものがある。
美味しいと感じられないから、口に入れてから飲み込むまでに時間がかかるのだ。
消しゴムでも噛んでいるような感触に、ただ、吐き気を覚えることだってあった。
つまり、僕は総じて虚弱なのである。
瑠維の望むようにもう少しご飯を食べられたなら、もう少し太って、もう少し縦にも成長できたに違いない。そうすれば、もっと動きも俊敏にできたかも。
だけど、仕方ない。これが、僕なのだから。
このできそこないが、僕なのだから。