雪。2
僕の名前は、三枝三津
名前の中に漢数字の「三」が二つも入っている。
幼い頃、誰かが、何だか可笑しいねと笑った。
だから僕は、何でこんな名前にしたんだと両親に抗議した。
すると母は、さも当然だというような顔をして言った。
「だってあんたは三番目だから」
そう、僕は三人兄弟の三番目。
一番上に「一弥」という兄と、その下に「二海」という姉が居る。
だから僕は「三津」なのだ。理に叶っている。
だけど名字と合わせて名前なのだということをちょっとは考えてほしかった。
そして、今は、僕が三番目ではなくなったから「三津」という名前は意味を失ってしまった。
―――――正確には、僕には、かつて兄と姉が「居た」のだと言える。
今は兄も姉もいない。だから僕も三番目ではない。
だから僕が、三津である必要もない。
兄と姉はある冬の日に死んだ。
兄と姉だけじゃない。
『あんたは三番目だから三津なのよ』と笑った母も、『そこまで深く考えてなかったんだよな、すまんすまん』と軽く謝罪した父も。
皆一緒に死んだ。
僕を残して。
僕を、独り、残して。
「―――――三津」
ふ、と上昇した意識の中に、こちらを覗き込む瑠維の顔。
精悍な顔立ちが僅かに憂いを帯びている。
けれど、基本が仏頂面なのでそれに気づくのはごく一部の親しい人間だけだ。
例えば、彼の親族や、僕みたいな幼馴染。それがその一部に当てはまる。
「瑠維、どうしたの」
そんな顔して、という言葉は続かなかった。
瑠維の大きな手が僕の額に当てられる。正確には目元だけれど、同級生よりも一回りは体格の小さな僕は顔や頭ももちろん小さい。
はみ出た手の平が頭にかかっているのだ。
「どうした、はお前だ。急にすっ転びやがって」
はあ、と大きく息をついている。
どんな顔をしているのか好奇心に捕らわれたのだが、何せ視界を塞がれているので何も見えない。
さっき、一瞬目にした風景からすると、ここは恐らく保健室だろう。
ちょうど保健室に向かうところだったのだからちょうど良かった。
瑠維の手を煩わせてしまうことになったようだけど。
「頭が痛い、気がする」
「軽い脳震盪だとよ。気分が悪かったり眩暈はするか?」
「ううん、大丈夫みたい」
「もう、お前はこのまま早退だ。俺が付き添うから」
「え、そんな。大丈、」
「大丈夫とか言うなよ、俺が、大丈夫じゃない」
最後の方は吐息交じりで、どこか震えている気がした。
今度こそ、どんな顔をしているのか気になって、瑠維の手を少し強引に引き剥がすと、そこにあったのはいつもと変わらない不機嫌そうな顔。
「お前、頼むから本当に気をつけてくれ」
僕がただ単に転んだのだと思っている瑠維は、けが人である僕の額を指で小突いた。
転んだわけじゃなくて、急に足から力が抜けたんだよ、とは言えずに笑って誤魔化す。
何でそんなことになったのか理由を追求されそうだからだ。
そして、その理由に瑠維が心を痛めることを知っているからだ。
瑠維は、周囲が思っているよりも、ずっと、僕のことを気にかけている。
僕を小突いた指をそのまま、前髪に通して、その感触を楽しむように指に絡めた。
だけど、その目は、廊下を歩いていたときと同じようにやっぱり遠くを見つめている。
大丈夫じゃないのは、きっと、瑠維のほうだ。
そのとき、ガタン、とパイプ椅子を引きずる音がしたのでそちらに目を向ければ、
「はいはい、そろそろ良いですかぁ」
何とも間の抜けた声をした若い男がいた。
ベッドの周りを囲んでいた間仕切りのカーテンを思いっきり解放される。
瑠維の手が僕の額から、ぱっと離れた。
急に温もりが失われて何だか寂しいような気がする。
乱れた前髪を直すフリをして自分でも触れてみたけれど、僕の指先はひんやりと冷め切っていた。
「担任の先生には連絡しておいたから、準備してさっさと帰りなさいねぇ」
幼稚園児にでも言い聞かせるような口調でしっしと手を払っている。
実年齢よりもずっと若く見える童顔の上の、ふわふわの茶色い髪が揺れた。
もうすぐ三十だというのに、見ようによっては十代にも見える。
そんな彼は、この学校の養護教諭だ。幸村冬至という。聞いたことはないけれど、きっと冬生まれなんだろう。
頻繁に保健室に通っている僕とは顔馴染みでもある。
「それで、神埼君は三枝君が身支度をしている間に教室へ戻って自分たちの荷物をとってくること」
さあさあ行った行った、と言いながら、瑠維の背中を押している。
瑠維は、ち、と小さく舌打ちしたが逆らう気はないのか不承不承という感じで保健室を後にする。
扉から出て行く瞬間、ちらりとこちらを見たのは錯覚ではないだろう。
瑠維は本当に心配性なのだ。
「それで、三津はどうして転んだのかなぁ」
ベッドの脇にパイプ椅子を置いて、とすっと座り込んだ幸村が起き上がった僕の後頭部を優しく撫でる。こぶができてる、といつも浮かべている笑みを少しだけ歪めた。
二人だけのときに下の名前で呼ぶのはいつものことなので突っ込むようなことはしない。
「三津?」
早く答えろ、と言わんばかりにじぃと見据えられては何となく居心地が悪くなる。
「もうすぐ神埼が帰ってきちゃうよ。聞かれたくないんでしょ?それとも神埼の前で問いただされたい?」
しんと静まり返った保健室の窓が、ガタガタと音をたてた。
きっと風が強くなったんだろうと思う。
「先生、」
「ん?」
「雪、降ってますか?」
窓の方には極力視線を向けずに、幸村に問えば、見れば分かるだろうと肩をすくめる。
「さっきよりも酷くなってるけど」
「そう、ですか」
このまま帰れるのだろうか。
あの雪の中を歩いて帰る?そんなの無理だ。
「雪が止むまでここで休んでたら駄目ですか?」
「今日は夜まで雪だよ。帰りのこと心配してるなら大丈夫、タクシー呼んであるから」
そこまで説明して幸村は、で?と先ほどの問いに対する答えを要求してくる。
再び静まり返る保健室。
中央で部屋を暖めている石油ストーブが、どこか懐かしい臭いを漂わせている。
「三津」
平時とは違う、どこかぴんと張り詰めたような声音で名前を呼ばれれば、言い逃れはできない気がして絞るように声を出した。
「雪が、」
「雪?」
「あの日も、雪が、」
雪が、その続きを口にしようとして、確かに声を出したはずなのに音にはならなかった。
雪が、雪が、と壊れたオーディオみたいに同じ単語を繰り返すけれど、どうしてもその続きが出てこない。
頭の中に響くサイレンの音。割れた窓の向こうに、雪が、雪が、降っていて、それで、
「おい、何してる」
はくはくと空気を噛むみたいに唇を動かしていると、いつの間にか帰ってきていたのか瑠維がこれ以上にないくらい不機嫌な顔でこちらを睨み付けていた。
こちら、というか、正確には幸村を、だが。
「帰るぞ、三津」
顎を行き先を示した瑠維は開け放した入口の扉にもたれるように立っている。
中に入ってくる気はないようだ。
幸村の追及から逃れる術を見つけた僕は特に反論することもなくベッドから降りる。
それを見て、幸村は苦笑しながら息を吐いた。
彼も、これ以上話を続けるつもりはないようだ。
ただ、別れの挨拶を済ませると、ぽつりと言った。
「―――――乗り越えることができるなんて、嘘だよね」
どういうつもりで言ったのか分からなかった。
それを聞いていたはずの瑠維も、理由など聞かなかったし、僕にもそのつもりはなかった。
知りたいとは、思わなかったから。