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プリンセスの日記

作者: inh

 今日はつよい春風の日でした。

 窓ガラスをガタガタとたたくものですから、朝のとてもはやい時刻にわたしはまどろみから覚醒したのです。

 いつもわたしを起こしにメイドが運んできてくれるハーブティーの匂いはしません。それをお気に入りのカップに注いでもらって、ベッドテーブルに置いてもらい、その匂いに誘われて目覚めるのがわたしの始まりです。

 けれども今日は風がわたしを起こしにやって来ました。

 わたしがからだを起こすと、散らばったわたしの髪の束がシーツの上を音もなく流れました。じゅうたんに降り立ち――そこでわたしは自分がはだしだったことに気付きました――ベッドから出した足がややつめたい空気にふれてむずむずしたのを感じました。

 部屋のなかは薄暗いものでした。太陽の存在を確認できませんでしたから、人も町も山も、そして城もすべて、すべてがまだ眠っている、そして今わたしだけがそれを知っている人間なのでした。

 わたしは東の窓を開け放ちました。

 さきほど足の甲をむずむずとさせた空気が、部屋のなかに入ってきました。大きく深呼吸をすると、空気はわたしのからだの中にまで入っていきました。指の先にまで行き届くしびれる心地でした。

 東の窓は大きな山々を一望できる窓でした。山の手前には民家が連なって、どこからかはわかりませんでしたがニワトリの鳴き声がたしかに聞こえていました。

 そのうち山々に陰が差していきました。

 あたりはどんどん薄紫色に染まり、陰は民家をおおっていきました。民家からは人の声がさっぱり聞こえませんから、やはり人々はまだ眠っていたのでしょう。

 やがて、光が、山の鞍部から姿を現しました。

 なんとつよい光だったことか、空は靄の通した白に近い青を映し、太陽が風にのってわたしの頬をやさしく包みました。

 春風は世界の息吹のようでした。

 わたしは、その唯一の目撃者なのでした。


 太陽が子午線を過ぎると、わたしの気分はすでに低迷期に入っていました。

 というのも、それまでずっと勉強の時間に割り当てられていたから、部屋から出ることを許されず、机に積まれた歴史書や外交の本、仰々しい装丁にため息がこぼれてしまうのを、諦めることはかないませんでした。

 痛みを訴えるおしりのガマンもなりませんでしたし、庭でこっそり飼っている猫のカミューにもごはんを与えに行かなければと思っていました。

 わたしはとにかく退屈で、いらだちと焦りを感じていたのです。

 好機を得たのは、それから小一時間をかけた時でした。

 わたしの横についていた執事のアーサー・ヘルソンを、王がお呼びで御座いますとメイドが呼びにやって来ました。

 二人はわたしに聞こえないよう意地悪く気を使った声量でお話をされていましたが、姿勢だけは国史の書物を読み進めていたわたしでのこと、なるたけ神経を自分の耳に集中させてお話をうかがっておりました。

 アーサーは自慢の髭をひと撫ですると、わたしに向かって「私は少しばかり席を外しますが、貴女が席を外してはなりません」と釘を差し、わたしが頷いたのを満足して退室しました。

 当然、呼びにやって来たメイドがアーサーを王のもとまでお連れしなければなりません。

 アーサーが部屋から出ていく様子を確認し、ひと間を置いてわたしもアーサーがそうしたように扉へと手をかけました。

 この時、彼らが最後まで注意を怠らなければ、部屋の扉にカギを掛けたに違いありません。わたしは心のなかで二人の手抜かりを誉めていました。

 扉は錠らしきものに引っ掛かることなく開きました。出来るだけ音をたてないよう努めましたが、廊下には人っ子ひとり見当たらず、とても静かなものでした。

 こうしてわたしは部屋から簡単に脱出することができたのです。

 わたしは騎士の修練場へ向かいました。

 騎士たちの修練する姿は雄々しく猛々しく、彼らの声や甲冑の軋む音は小気味良いものです。

 端の柱に隠れて彼らの様子をながめていると、騎士団副長のガイが近付いてきました。赤みのある黒髪と、甲冑をまとっているために日に当たらない肌は、剣の稽古をしていたようで、汗のせいでしっとりしているように見えました。

 ガイが呆れた顔で「お前、また抜け出してきたのか」と言うので――彼は、わたしが、こっそり抜け出す習性があるのを幼少から知っています。時には共犯として立ち回っている身ですから、わたしの行動をそ知らぬ顔で見過ごすことはできなかったのでしょう――わたしは「アーサーとの知恵くらべの結果です」と言って笑顔を向けました。それでガイが意地悪く笑うことで、わたしたちはまた共犯になるのでした。

 しかしながら、同じ場所に留まっていればアーサーが追いかけにやって来てしまうので、早急に立ち去らねばなりません。すでに他の騎士たちが、わたしの存在に気付き始めていました。ガイは騎士たちに向かって「皆は稽古を続けろ。少しばかりここを外す」と声を出し、わたしの腕をとってわたしを部屋へ連れ戻しにいく振りをしました。

 わたしたちはまんまと監視の目をかいくぐって庭のひみつの場所へと向かうことができました。

 庭は人気がありません。昔からよくしてもらっている庭師の老人がいつも手入れをしていますから、花木が荒れたことなどありません。彼の腕は見事です。庭師の老人はわたしとガイのために、彼の他にはわたしとガイしか知らない、ひみつの場所を庭の茂みの中につくってくれたのですから。ひみつが白日のもとにさらされてしまうことだけは困りますから、ひみつの場所についてを書き連ねることは控えます。

 ともかくも、わたしたちはひみつの場所にたどり着きました。すぐさま猫のカミューがわたしたちを出迎えてくれたのでした。

 カミューは黒猫なのですが、よくよく観察してみれば黒と灰のまだらで、特に腹の毛が薄く、日の光で銀色に輝きますからわたしはこのまだらがとても気に入っていました。こっそり準備していたごはんを与えると、ミュウ、とひと鳴きするのがまたたまらなく愛しくなります。ガイはその様子を見守るだけでした。カミューを初めて発見したのは彼でしたが、わたしの献身ぶりにここで育てればいいと提案してくれました。その時のことを思い出すと、ガイの手を取ってついつい踊り出してしまうほど、わたしはとてもうれしかったのです。

 わたしたちとの触れ合いに飽きたのか、ただ満腹になっただけなのか、気まぐれなものでカミューはトトトと茂みの中へもぐっていってしまいました。若干の手持ち無沙汰になってしまって、少し胸の内がさびしくなっていると、ガイがわたしを愛称で呼びました。振り向くと、それはおだやかな表情でわたしを見つめていますから、途端に胸がぎゅうと音をたてたようで、わたしはさらに落ち着かなくなりました。なんとか返答すると、修練場で見せたあの意地悪そうな微笑みを浮かべてわたしの動揺を問うてきますから、そのわざとらしい問いかけにむっとしつつも、落ち着きのなさは抗いようのない事実にきまり悪くて押し黙ることしかできません。視線をそらしてそっぽを向きました。けれど、しっかりとした指にわたしの顎はとらわれて、抵抗むなしく彼の顔を見上げる形になりました。わたしの紅潮した表情に満足したのか、「答えろよ」と催促する声は実に楽しそうでもあり、いつくしむようにやさしくわたしの耳に響いていました。間もなく、わたしは目を閉じました。

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