たくあん
【5】
部活の朝練だったり風変りな転校生だったり、不測の事態に気を配らされたりと、私の神経は近来稀にみるへばりかたを余儀なくされていた。お腹もへった。
昼休みとあって、教室の人影はまばら。みんな、なけなしの食物を求めて購買部をたよっているか、食堂に足を運んでいるかしているのだった。なので残留組は、弁当派か、まえもって購買部からめぼしい品をかっさらった連中で、たいはんを占めている。
私も自分の机に弁当箱をひろげ、箸で白米を口に運んでいた。――だがあえて強調しよう、ぼっち飯ではない。ひとつまえの席には梶槇仁江が、私と正面から見合えるよう椅子の向きをかえて腰掛け、同じ机をはさんで昼飯を食べているのだから。
ちらっと、左方に目をくれる私。――窓ガラスのむこう。明澄な青空のもと、区画ごとに多種多様な建物が混在する、のどかな住宅街が見通せる。その手前には、野球部員の打ちあげた硬式ボールがあやまって民家へ飛びこまぬよう、グラウンドのすみに設けられた緑のネット。街のはずれにそびえるは、北茜駅の一部分。ショッピングモールの背高ビル。春風にそよぐ横断幕に垂れ幕……。
「遠い目をしてるねえ」
云って、あかい花びら模様のカバーで保冷した500mlペットボトルに口をつけ、仁江が泰然と渇きをうるおす。容器にふたをしながら、中年が酒をあおったように「ぷはあ」とひと息ついた。
「そんな気になるの? あいつ」
「………」
私はなんとも答えられず、味も分からない米を飲みこんだ。
四限目が終礼してから、複数名の女子から食堂に同席するよう勧められていた光明寺琴子。
転校初日、肩身がせまい彼女を気づかっての呼びかけだった。冷やかしてやろうだとかの、他意はなかっただろう。当然、ことわる理由もなく、それから彼女はうながされるままに席をたったわけだが――。
いっしゅん、目が合った。――ような気がした。
椅子から腰を浮かすちょくぜん、光明寺が、私の顔を刹那的に見やったように思えた。
あの時の、光明寺さんの心中はいかがなものだったろう。もしかして、私のことを気に留めてくれていたのか。これは好感触なんじゃないか。我先に私から光明寺さんを食事に誘っていれば、彼女もそれにこころよく従ってくれたのではないか。お弁当がないようなら、適当に買うなりして、それに私もつきそって……。
なんて、妄想をたくましくすればするほど、なんというか、脱力やら、虚無感にも似た感傷にとらわれる。どうでもよくなる。しかし片一方では、ぐずぐずしたわだかまりも確存する。空腹でも飯はのどを通らないし、やるせない気持ちにもなってくる。
――「悔しい」んだと思う。たぶん、私は……。
「とりあえず腹ぁ満たしなよ。思考がまとまらないから、考えごとすんだったら飯食ってからにしろって、あたしのパパ云ってたぜ」
いかにもな顔をして頷きながら、仁江は手に持ったわりばしの先端を、私の弁当箱にさし入れた。器用にミニトマトを摘出し、ぽいと口に放る。
「あむ。――いっしょになって腹ごしらえしなくても、仲良いやつは仲良いやつでしょう。べつべつに飯食ってるからって、光明寺に嫌われたことにはならないんだからさ、そう落ち込むなよ」
個室トイレでの云い分とはうって変わり、仁江はちゃかさずに私を慰めてくれた。私としても、気の利いた返事をしたいのだけれど、それどころじゃなくて。力のない笑みを浮かべるだけ。
「なんだよ。テンションさがるな」
すまん……。申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、言葉がでてこなくって……。
仁江は心持ちぶすっとして、左手のひらでほおづえをつく。そして右手に持ったわりばしでさも自然に、私の弁当箱から唐揚げをひとつ誘拐していくのだった。……あ。さいごの唐揚げをとられた。くそう。
昼食代を毎朝親から渡されているのに、貯金しているのか、べつに使い道があるのかそれを消費せず、こうして臆面もなくよそさまの昼食に寄生する梶槇仁江であった。
白米を口にふくむ私。
元気がでない時は、とにかく腹いっぱいお米を食べろと母方の祖母から教わった。だからおかずが喉を通らなくても、米だけは気合で食す。喉を通す。と、ふと――。
弁当箱の一角を占領していた“それ”が、目についた。薄切りにされ、バランに包まれた、黄土色の……。
「たくあん……」
私が、ぼそりと云った。ほおづえをついた姿勢で、仁江はいぶかしむような目つきで私をねめつける。
「はあぁ? たくあん?」
「うん。私は、たくあん。――たくあんって、お米ともおかずとも仕切られてるんだよね。塩味がしみ込まないように、主役の風味を阻害しないように……。だから、お弁当箱の中のみんなから離されてるの。私の生き写しみたい。――嫌われものなんだ」
梶槇仁江は親密な幼馴染であって、親密な友達ではない――。
友達をつくれたことのない私に、人生で初の友達ができるのかもしれない――。
なんて、転校生に過度な期待をした反動だと思う。胸のもやもやはからきし鎮まらず。厭になるし。それどころか、火で炙るようにじりじりと悪化してさえいる。
我ながら、扱いずらい女だなと思う。
抑制しがたい胸のむかつき(むかつき……?)に、八つ当たりだとは重々承知していたけれど、私は誰でもいいから毒を吐き捨てたかった。だから、仁江にそれを……毒をぶつけた。これを否定してほしい、親身になってほしいという下心はそこにはなく、ただ突発的な衝動にかられての、大胆なカミングアウトであった。
「あ、そう。……いつにもまして、ねむてえ考え方ですね」
どこかしら冷めた調子の仁江は、姿勢を直さず私を睨み、
「そんなだから、友達すくねえんだよ」
わりばしをおもむろにあやつり、弁当箱のたくあんをとる。そうしてから目線を箸の先端に合わせ、くちびるを尖らせるのだった。
「あたし、漬け物って嫌いじゃないけどね。嫌われものとは心外だぜ。――ほっとする、のかな。ごたごたした後とか、塩分摂取すると疲れがとれるんだ。――あむ」
たくあんを食べ、ゆっくりとそれを噛みくだく。すぐに仁江の口は空になり、彼女はそこにお茶を流しこんだ。
「悲観視しなくても人間、生きてけるだろ。いちいち後ろ向きにならないでくれよ。めんどくせえから」
「ごめん……」
「その覇気がない喋りもやめろって。こっちまでテンションさがんだって。禁止、はい禁止」
「――そうだね。どうかしてた、ごめん」
自分の責任で湿っぽくなった場を執りなそうと、私は意識的にあっけらかんとして「つぎの授業なんだっけ」と、尋ねた。しかしその顔は、はたしてどれだけ平然としていられただろう。いまだ怪訝そうな目つきの仁江を見れば、私の演技力のなさが痛感できるというもので……。
「体育。ハードル走やるらしいぜ」
――よく意外がられるんですが、得意科目は体育で……。
彼女が今朝、教壇に立って口上していた自己紹介の一部……。って、おいこら、真伐。光明寺さんのことは、いまはもう考えるな。あくどいぞ、いいかげん。
「ハードル……。陸上競技、苦手なんだよなあ。走りも速くないし」
「運動部じゃん、真伐。剣道やってて、スタミナは人一倍ついてるっしょ?」
「それはまあ、そうだけど。それとこれとでは、基準が違うというか。ハードル走のルールには、“いっぽん”も“技あり”もないわけだし」
「はあん。そんなもんなんだ。――あたしは水泳がよかったなあ。走るのは大嫌いじゃ」
「汗かくのが嫌いなのではなくて?」
「それもあるけど、風に吹かれて舞った砂やほこり、粉塵が走りたくない主因かねえ。空気中の細菌を息の出し入れと同時に吸収してるかと思うと、うげえ、胸やけしてくらあ」
胃に優しくない昼食を、仁江の助力もあってなんとか完食する。
昼休みの時間帯は、流行りのミュージシャンが歌ったものや人気アイドルのCDなど、放送委員がえり好みした曲を流すのが決まりだ。今日も今日とて、先程から聴いたことのない歌詞にメロディーの曲が、各教室に一台ずつ備わったスピーカーより流されていた。これには、室内の生徒らのあんばいによって、壁のつまみをいじれば音量の増減がきくようになっている。
男子がひとりつまみを左にしぼり、音の大きさを下げたときだった。
唐突に、男性ヴォーカルが云いのける歯の浮くような台詞が、ぶつりと途切れた。それからゴトッと、放送用のマイクに手をかける音。――放送室のマイクを介して発せられたのは、
「――連絡します。――剣道部員は帰りのHR終了後、ただちに武道館へあつまるように。委員会、居残りがある部員も、こちらを優先させてください。――連絡します……」
淡々とした、狐智教諭の声だった。曲が再開されたのは、念を押すように二度同じ連絡内容を繰り返し、スピーカーの回路がブッツンと音をたてて遮断されてから。
「あぶらあげでも配給するんかね」
と、放送を聞いた仁江が軽口をたたいた。いっぽう私は、それを訊き流すよこ、狐智教諭に廊下へ手招きされ、そこで事情聴取まがいの質問をされたことに思い当たっていた。
武道館で何かがあった。なにか……。厄介なことが起きたのは確かだった。
道内に忘れ物があったとか、竹刀や防具が出しっぱなしだったとか? ――ちがう。そんなことで、犯人捜しをするような様相で剣道部員を査問したりしない。もっと重大な事件。それこそ、道場の内側から窓ガラスが破られていたとか、先生の貴重品が紛失したとか……。
「どうしたんだろう、先生」
「真伐、心当たりないの」
「――ない」
「ふぅん。それにしては、深刻そうなご連絡だったけど」
満腹だからか、仁江は「うぅん」と気持ちやすそうにのびをする。それから水浴びをする猫のようなしぐさで右目をこすり、私の机につっぷすのだった。
「寝ないでよ。つぎ、体育なんだから。移動だよ」
遅刻は厳禁だ。教室内でトレーニングウェアに着替えてしまい、始業五分前にはグラウンドでウォーミングアップに取りかからないと、蛭允教諭からさんざ嫌味を見舞われるはめになる。
蛭允真。
てかてかと脂ぎった顔。ぺちゃんこの鼻、黄ばんだ不揃いの歯、ぺったりと頭皮にねばりついた、わかめのようにくたびれた髪……。下品な言葉になるが、これがまたむなくそ悪い男なのである。肉体的な畸形のあれこれをさし措くとしても、しかし問題点は彼の性根にあって。
教職に就いたことが根本的に間違っているとしか思えないほど陰湿で、なにより手癖が悪いことで第二学年全般の女子のみならず、男子生徒からも敬遠されている。
私も、あの先生だけは大嫌い。苦手とか好きになれないとかではなくて、じゅんすいに大嫌い。
肉体。喋り方。性格。どれもこれもが気色悪いこの感じ。本能的に鬱積するあの感じ……。実物とかかわった経験のある者にしか分からないだろう、身体が受けつけないあの感じ。――生理的な嫌悪。
ある程度の信憑性をもってささやかれる巷談によれば、なにかと難癖をつけ、ひと気のない体育倉庫などに気に入った女生徒を連れこんでは、不潔な行為を強いている。でも、それの被害にあった生徒は蛭允教諭に弱みを握られていて、まわりの大人や親友に助けをもとめることができないのだとか。
――にわかには信じられないが、それにしては全部が全部しょせんは風評であると素直に結論づけることもできない、ブラックな噂話である。
「あ、そうそう。女子体育の教師にさ、蛭允っていんじゃん」
と、眠そうな仁江。首を右へねじり、左のほおべたで机に頬ずりしながら云った。期せずして同じ人物のことを考えていたので、私は心の中を見透かされたのかと一瞬どきっとした。
「いるね。あいつが、どうかしたの」
「小耳にはさんだがね、蛭允に関する新説……もとい、“ヒル”にそくした新たな噂を思い出してさあ。――聞かせたげよっか?」
「指導にかこつけて、セクハラしてくるやつ? なら知ってるよ」
「あいや、それとは別説。聞き手によってはだけど、セクハラよりどぎついかもね、これ」
「断固、遠慮しとく」
せっかく食べきった弁当を、ここで吐いてしまうわけにはいかないから。私はきっぱり拒絶した。
補足するまでもないだろうが、「ヒル」とは、体育教師・蛭允真にささやかな風刺の念を込め、どっかの誰かが勝手裏に名づけた「あだ名」である。誰でも命名し得そうな安っぽい出来だが、この安直さこそが彼の人望の薄さを確実に物語っているようで、少なくとも私が在学しているあいだに「ヒル」が改善されることはないだろうと思われる。
ふう、そうかそうか。お次は苦手な体育に、嫌いな先生の二段構えですか……。
今日は厄日だ。いとわしい出来事がたて続きにひんぱつする。
おかげで失意するは――光明寺さん――憂慮せずにはいられないはで――武道館の変事?――、私は昼休みだというのに、心ゆくまで休めた気がしなかった。それどころか、ことさらに疲労した気さえした。
Part1、これにて終了です。
次回(?)、開幕と同時に時間軸がたしょう前後することをご承知置き下さい。