曲者
【3】
「――で、どんなひとだった。光明寺琴子さん」
木造の壁をいちまい隔てたむこう側で、姿の見えない幼馴染は突拍子もなく話題を切り替えた。
西校舎二階、女子トイレにて。私と仁江は隣接した個室にそれぞれ閉じこもり、それぞれ別種の用を済ませていた。とはいっても、生理的な欲求を排していたのではなく。
靴下を脱ぎ、裸にした脚をローファーに乗せて、親指のつけ根からずれてしまったガーゼを修正、新品のサージカルテープで補強――。剣道部員なら避けては通れない、足裏の裂傷と私は格闘していたのである。物音のしないあたり、仁江は仁江で何をするわけでもなく、壁に寄りかかっているようだった。
一限目のさなか、傷がうずいて仕方なかった。我慢できない痛みではないのだが、気分がわるいことには変わりない。
狐智教諭が職員室に引き揚げてからまっさきに仁江を誘い、ここ女子トイレまで足を運んだ。終礼から間もないため、よって他に利用者はいない。そこで私と仁江は隣り合った個室にこもり、第三者が場に現れようものなら喋りを中断すれば良いと、かなりの声量でくっちゃべっていた次第である。
「話してみたんでしょう、光明寺さんと。どうよ、友達になってくれそうな感触はあった?」
テープを巻きながら私は、その問いを皮肉と解釈した。
「どうだか。でも、あっちがその気なら、私はよろこんで友達になりたいね。かしこまってはいたけど、普通に優しい女の子だったし。なにより、他人を見た目で判断しない」
面食いの仁江をからかったつもりだったが、しかし彼女は特に皮肉を返すこともせずクッと忍び笑い、
「悪魔祓いの専門家がお友達かぁ。いいね、ぞくぞくする。ぱっぱらぱーすぎて鳥肌がとまんねえよ」
「おい、あんま莫迦にしてやんな」
「だって、すべった感がやばかったんだもん。真伐も思ったでしょ。あれはないわ、ないない」
そんなことはないぞ、と云えば嘘になる。事実、光明寺のクラスメイトと打ち解けようとする努力は空回りしていた。それは誰の目にしても明らかだったろう。
「いやまあ、すべったけどさ」
「このままじゃあいつ居場所なくなるぜ。孤立しないためにも、心麗しい少女ぐらいなんなく演じるさ。第一印象がもっとも重要だもんな」
……演じる、だって?
「仁江は、あれが演技だって云うの?」
「実物は見てないけどな。どうせ、そうなんじゃねえの」
「――ふん。あんたには分らないよ」
彼女の緊張が、惑いが、不安が……。……そこから垣間見せた悦びが、行動力が(あなたの、お名前を……)。あれらがすべて嘘偽りだったとは、とうてい考えられない。私は考えたくない。
――もし本当に、光明寺さんが見た目で他人を判断しない、“その気”のある女性なのだとしたら……。だとしたら……仁江に放ったような皮肉ではなく、もし本当に友達になれるなら私はよろこんで……。よろこんで……。
「あれえ。怒っちゃった?」
無言をつらぬく私に焦燥心を刺激されたか、わざとらしい猫撫で声が仁江の口から投じられた。
憤怒ほど大逸れた怒りではないにしろ、少々ささくれ立っていたのが本懐で、私はしゃんとした反応をしあぐねる。そのせいで余計に憂いを煽られたのだろう、仁江は個室を隔てる壁をノックして「おぉい」と、トーンを落として再び投げかけた。
「ごめんね。ほんの冗談だから」
「――あ、いや、べつに怒ってはないよ」
やっと言葉を返した私。なんだか、彼女の気を揉んでしまったようで申し訳ない。意地悪する気はこれっぽっちもなかったのだが。
私は急いで靴下とローファーを履き、靴ずれを手直しした。制服のポケットに小振りなハサミとテープ、剥がした古いガーゼを詰めこんで、それから仁江に声をかける。
「テーピングできたよ。教室もどろっか」
個室を出、ふいと私は洗面台の三面鏡を見遣った。そこには私自身が……お世辞にも、女らしいとは云えない泉未真伐が反映されている――。
盆の窪にかかる程度の後ろ髪は、丹念に手入れしているわけでもないので毛質が硬い。自然体と表記すればまだましだが、とどのつまりは髪に無頓着なだけで。風呂こそ毎晩欠かしていないが、どうも不衛生な感じを拭えていないのが、目下の悩みだったりする。
愛想とは程遠い、鋭利なひとえまぶち。痩せた唇も手伝って、顔は憮然とした表情を形成していた。
化粧に関しては無知に等しいし、挑戦する気も起きない。だいいち表情の変化に乏しいうえ、化粧映えするとも思えないから、挑戦したところで無駄骨だろうし……。
あまり自分の容貌を見るのは好きじゃない。だって、自分があまり好きではないから。
私達ふたりは連れ立って、女子トイレを出た。教室の近場に手洗い場は備わっているので、すぐさまクラスメイトらの話し声が耳に飛び込んでくる。
光明寺さんはどうしているかな、と教室の後方ドアを開けようとしたやさき、後ろから「泉未さん」と肩を叩かれた。びくっとして振り返ると、そこにはむすっとした女生徒の姿が。
中肉中背。毛先にくせが残るショートボブが、彼女の丸顔にぴったりマッチしている。――二年三組。同じクラスの松囃さんである。が、なんの用だろう。松囃さんとは、日頃の接点などゼロみたいなものだったが。こうして話しかけてくるとは、いったい。
「あの、なんでしょう」
私は冷静を崩すまいとするがしかし、それが原因で同級生と対峙するには不自然な言葉使いになってしまった。どんだけ小心者なんだ、私は。
いっこうに松囃の顔は冴えない。よもや私に何か告白するつもりでもないだろうに、どことなく思いつめているようでもある。いよいよもって空恐ろしいぞ、この状況。
「泉未さん。あなた、光明寺さんと早くも仲良くなれたみたいね」
「はぁ。まあ、そうなのかなぁ」
もちろん間柄が進展するに越したことはないが、いざそうやって見解されても、いまいちピンとこない。仲良く……か。
「そうだよ。わたし見てたもの、泉未さんたちのこと。すっごい微笑ましかった。それはもう、十年来の親友も裸足で逃げだすような、それぐらいの仲だったわ」
じょじょに調子が昂ぶる松囃は、興奮を抑えきれなくなっているよう。いっぽうで話がちっとも見えてこないのは、私が鈍いからなのか?
少なくとも十年来の親友……仁江が裸足で逃げだすことはなかったわけだが。これを指摘するは、松囃さんのあげあし取りになってしまうのかな。と、このタイミングで私は、ついさっきまで一緒だった幼馴染が忽然と消失していたことに気付く。――あいつ、前のドアから独りでとっとと教室に戻りやがったな。
「それで、どうだったの。あの話は本当だったの」
食い気味に云って、松囃はつっと私に詰めよる。わずかながらそれに気圧され、私も詰めよられた分だけ後退する。
「……松囃さん。ちょっと怖いよ」
離れてくれと暗に訴えたのだが、彼女は耳を貸そうとしない。
「ごまかさないで。ねえ、教えてよ泉未さん。あの話は本当だったの?」
異様ともとれる態度で、どこか切実に歩みよってくる。私をくすぐるように両手の指を差しだして、前傾した姿勢で。過去作、映画ド*えも*太陽王伝説に登場した悪辣な魔女、レディナが終盤でみせたあの、破滅への執念を彷彿とさせる迫力で。
「あの話って、なに……」
私はまた、後方に退いた。だが退いた分だけ、松囃は差をつつっと穴埋めする。
「ごまかさないで!」
かっと瞠目し、背丈でまさる私を見上げるようにして凄んだ。
「悪魔祓いの話だよ。泉未さん。あなた、光明寺さんと友達になったんでしょう? だったら訊きだせたはずじゃない、光明寺さんの真価を、パワーの有無を」
「はあぁ?」
「この際だわ、泉未さんだけには話してあげる。――疑うべくもない。わたし信じてるの。光明寺さんが、悪魔祓いのスペシャリストだって。そう、そうなのよ。そうに決まってるんだわ。――泉未さん。ねえ、教えてよぉ。光明寺さん、なにか云ってなかった? 『……匂う。ただならぬ魍魎の気を感じる』とか云ってなかったの?」
高揚から赤らみ、玉の汗がちよろずに噴いている松囃の顔は、私こと泉未真伐の防衛本能を働かせ、危険信号を灯らせた。
彼女と差し向って話したのは初めてだったけれど、それだけで私は察することができた。
……やばい。松囃さんは頭がやばい。かわいそうなひとなんだ、かかずらうだけ損なんだ。だから仁江は、それを熟知していたから我先に教室へ戻ったんだ。
こつん。と、靴のかかとが教室の扉にぶつかった。もうこれいじょう下がれないのに、松囃はお構いなしに私へ詰めよる。
「泉未さん。あなたも見たでしょう、あのひとの黒髪」
松囃の吐く息が、私の鼻頭にかかった。
ぞっとして、私はもうやめてくれと云わんばかりに小さくかぶりを振った。が、彼女は「見たでしょう」と繰り返すばかりで、これに取り合ってくれない。
「なにか、尋常じゃない精気を感じたわよね。隠さないで。ありのままを云ってみて。ね、泉未さん」
――腰よりも長く伸ばした見事な黒髪が、まずもって印象的だった。
――その髪自体が、まるで意思をもち、生を孕んでいるかのよう。
「いろいろ……確かに思うところは、あったけど……」
「そうよね。席、お隣だもん。心がゆれうごいて当たり前……。でね、わたしにもひしひしと感じるものがあったの。訊いてくれる? それはね」
私の言葉に充足してくれたのか、松囃はすいと廊下の真ん中辺りに飛びのいた。眼は空の一点を凝視しており、ホームルームでの光明寺を鮮明に思い出しているようだった。
「あんなに綺麗な髪……いえ、妖艶ともいえるあだっぽい黒髪。あれこそに“秘密”がある。きっとそう、醜悪な闇の住人を祓うパワーが……光明の水源が、あの髪には存在している。そう感ぜられてどうしようもないの。ああぁ……」
両の耳を覆うように両手を顔の側面に添え、吐息に併せて恍焉じみた笑い声を洩らした。彼女の口許はゆがみ、目はとろんとだれている。
まともに相手してらんない。
私は後ろ手に、扉の引手に指をかける。仁江にならい、さっさと教室に退散してしまおうと謀ったのだった。が――。
「泉未さん」
松囃の、吐息交じりのひと声に動きを制された。通路の空気が粘っこく身体に絡み、私を逃がすまいとする。いや、じっさいもんだい私を制御しているのは、松囃当人がもつ不可思議な“ナニカ”に他ならないのだが……それの実態は皆目つかめそうにない。
「廊下で長話もなんだわ。いったんお手洗いに場所を移してから、こっそり会議しようよ」
「えっ?」
「そうしましょうよ。警戒しないで、泉未さん。なにも酷いことはしないわ。ちょこっと協力してもらいたいだけ。――さあ、こっちに」
右手首を握られ、ぐいと右腕ごとひっぱられる。けっこうな握力がその時、松囃の手には込められていた。
会議? 協力? なにそれ。いやだ、気味がわるい。
「いや! 離して」
力任せに彼女の手をふり払った。瞬間、高らかに響きわたる予鈴。こぉぉおおん、と。その音色の網目を潜って、松囃の苛立たしげな舌打ちが聞こえてくる。
このひと、まじで何なんだ? なにか企んでのことなのか。
私は恐れつつも、なんとか彼女を睨みすえた。高圧的に努めなければつけ入られる、嘗められる、と判断したのだ。
すると、想像より遥かに効果はてきめんだった。
松囃は「んっ」と唇をひきしめ、すねたようにそっぽを向く。探るように私をちら見しては、また目線を逸らし……と、あきらかに怖気づいているふうなのである。
続けざまに非難しようか、それとも放っていこうか。――鐘の余韻が脳裏にこびりつくなか、どうしたものかと私が決めあぐねていると、
「なにかあったのかな」
突然、男性のしゃがれた声がした。ずっしりと胃にもたれるような、傷んだかすかすの声……。私の背後からだった。驚いて、声の主へと全身をひるがえす。
「いま誰か、悲鳴をあげなかったか」
真っ黒な服に土色の袖なしベストを重ね着した、さながら骸骨のような巨躯痩身、はげ散らかした頭部の宿り主――首辺鈴士郎教諭である。私と松囃を交互にへいげいし、表情筋のひとつも動かさずに尋ねるのだった。
「どうしたんだ」
首辺教諭は国語科の教師だが、選りすぐりのエリート生徒だけを招集した一組、二組でしか教鞭を執らない。
一組二組と三組四組では階層が異なるのだから、こうして出逢うことはまず有り得ないはず。なのに、出くわしたということは……。階段の下層を歩いていたら偶然、私の上げた悲鳴を聞きとめたので駆けつけた……というのか。洞窟のような双眸を見つめ返し、私はそう推し測った。
「――すいません。ふざけて遊んでました」
と、口を開いたのは松囃だ。
首辺教諭はつっこんだ質問をするでもなく、スンと鷲鼻を鳴らしてから「そうか。以後、みだりに騒がぬよう」とだけ私達ふたりを戒め、まわれ右をする。その足で階段の踊り場へと進み、壁の死角に消えてしまった。