表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

Tears from ...

作者: 花井草次郎

性というものに自由奔放な人間が登場人物として出てきますが、性的な描写はしていません。(ニュアンスのみ、のつもり)

性的な気配すら嫌悪される方は読むのを控えたほうが良いと思われます。

 そろそろ関係を清算する必要があるなと、北村は思う。

 そう思う相手は佐山理恵だ。北村は理恵のことを「リエさん」と呼ぶ。北村は今年で二十七になり、理恵は三十二だ。年の差は五つ。北村の方が理恵より若い。だから、この場合、北村が理恵のことをさん付けで呼ぶのは自然なことだ。ただ、理恵は北村からそう呼ばれるのを嫌がっている。呼び捨てにされれば、立場は対等だと錯覚しやすい。理恵が年上であるという事実も多少は曖昧になる。

 確かに、理恵は周囲から若く見られやすい。それが幾分かのお世辞を含んでいたとしても、やはり本当の年齢より若く思われるのは、理恵にとって嬉しいのかもしれない。

 それでも北村は、理恵のことを「リエさん」と呼ぶことにしている。

 いずれ別れてしまう人間に、そんな気遣いは無用だ。理恵にしてみた所で、そんな甘ったるいご機嫌取りは必要ないと思っているはずだろう。

 少なくとも北村は、理恵の心情をそう分析している。


「お待たせ。……御飯、食べてきた?」

「食べましたよ。リエさんは?」

「私も。……もう、行く?」

「そのつもりです」

 二人連れ立って歩く。並んで歩きはするが、腕は組まない。最初に会って、こうやって歩き出した時、北村が「腕でも組みますか?」と聞くと、理恵は「そういうのは止めましょう。……私達、そんな関係じゃないでしょう?」と言ったのである。その答えを聞き、北村はこれはアタリかもしれないと、思ったことを忘れていない。そして、その夜の内に北村と理恵は肌を合わせ、形式的な自己紹介を済ませた。その時の乾いた距離感を、北村は今も忘れず、大事にしている。

 六月の湿っぽい夜の空気が肌にまとわり付く。時刻は夜八時を回ったばかりだ。大宮の駅前は明るく、いつもの様に賑わっている。

 道行く人は誰が誰であるかを気にせず、誰の行方もまた知らない。人々の足取りは無関心の中に埋もれてしまっている。北村と理恵はそんな無関心の中を練り歩き、目的地へと向かう。

 目的地が見えてきて、二人は中に入る。建物は明るくライトアップされていて、入り口手前には料金表が出ている。「平日休憩3H XXXX円~」と書いてあり、北村たちが利用するのは、このコースだ。宿泊したことは今まで一度もない。排泄行為に三時間以上も掛けるなんて馬鹿馬鹿しいと北村は考えている。行為は行為でしかなく、そこに本来的な休憩や休息というものを混同して考える人間がいることが、北村には理解できない。しかし、北村は自分の考えが少数派だということを自覚している。北村の思考を知っているのは、これまで別れてきた「彼女」達と、理恵くらいのものだ。北村の両親も、兄弟も、友達も、昔の恋人でさえ、知ってはいない。


「じゃあ、私帰るね」

「はい。さようならです。……リエさん、今日もすごかったですよ」

「私も良かったよ」

 理恵が微かに笑い、ドアを開けて出て行ってしまう。

 行為が終わった後、理恵はシャワーを浴びて、メイクもせずに一人でさっさと帰ってしまう。でも北村は気にしない。いつものことだからだ。

 理恵の帰った後、チェックアウトの時間が来るまで、北村は一人でビールを飲みながら本を読む。読む本は大体いつも決まっていて、週間ベストランキングなどで、その週に一位となっている本だ。その本を読んだことのある場合は二位の本、それも読んだことがあれば三位の、といった具合に、未読の本に当たるまで、次第に順位を下げていく。その他には会社の上司から薦められた「坂の上の雲」や、ビジネス書などを読むこともある。

 北村には本に対する執着がない。いや、というよりも、何に対しても執着を持ち合わせていないと言った方が正しい。


    *


「どうしてそんな酷いことを言うの? もっと相手の気持ちを考えなさいね」

 北村が小学生の頃、担任の先生によく言われた台詞だ。根に持っている訳ではなく、ただ北村が小学生だった時に、あまりにも何回も聞かされた言葉なので、今でも覚えているというだけのことだ。北村にとって、それは豊臣秀吉の行った刀狩や、大化の改新の起こった年号のような純粋な記憶と差異がない。どういったいきさつで先生からそう言われるようになったかも覚えていない。とにかく叱られているのだから謝ろうと思い、頭を下げたことだけは覚えている。

 ガキの頃から他の人間とは違ったんだと、北村は思っている。

 自分は極端に感情の薄い人間だ。

 それに気が付いたのは、北村が中学に上がってからだ。

 小学生の間、北村は自分が他人と大きく異なっているとは思いもしなかった。

 北村はよくいざこざを起こした。女子も男子も教師も関係なく、誰ともでもぶつかった。いつだって北村はいざこざの中心にいた。

 北村自身に悪気はない。小さい頃から変わらず、北村は誰であろうとも傷つけたくはないと考えている。

 ただ北村には己の感情に支配されるという感覚が理解できない。

 小学生くらいなら自分の感覚が世界の全てであり、その世界こそ絶対だ。泣き、笑い、怒る。時に人がそうしたことに真剣に取り組んでいるとは、北村にはどうにも信じられない。自分のように半分以上が演技なのだろうと、どうしても訝ってしまう。

 悩み苦しむ姿は演技だ。悲しみむせび泣く姿は演技だ。手を叩き笑う姿は演技だ。感情的振舞いというものは、社会を円滑に回すための奇妙な慣習に過ぎない。自分がそうなのだから、相手もそうに違いない。

「ノロマは全員リレーには出るな」「デブは給食を食うな」「泳げないなら溺れ死ねばいい。誰も悲しまない」「役立たず。カラスの餌にでもなれよ」

 どれも北村の口から出た言葉だ。

 傷つくはずがない。自分なら決して傷つかないのだから。

 北村は言葉によって、感情によって、傷ついたことがない。


    *


 ――来週はちょっと仕事も詰まっているし、会社で飲み会もあって、多分会えないと思う。ゴメンネ。


 ホテルを出る頃になって、北村の携帯に理恵からのメールが届く。


 ――そうなんですか。残念ですね。飲み会、楽しんできてください。再来週会えるのを楽しみにしています。それでは。


 理恵のメールに手早く返信し、理恵に対する送受信メールを削除する。自分を不利にする証拠は残さない。都度々々、こまめに消していくのが失態を演じないためのコツだと北村は考えている。

 そろそろ理恵との関係を清算する必要がある。

 メールを削除すると同時に、北村はそう思う。


 次の日、退社直後に北村にメールが届く。


 ――今週の土曜日、空いてませんか? 東京タワーに行ってみたくて。(まだ行ったことがないんです……。本当はスカイツリーに行きたいんですけど、その前に東京タワーかなって)ご都合どうでしょうか? 返事お待ちしています。


 木村沙弥からだ。沙弥は、一月程前に結婚相談所の紹介で知り合った女性だ。彼女は北村との結婚を真剣に考えているらしく、北村も彼女との結婚を望んでいる。沙弥は今年で二十七になる。北村と同い年ではあるが、学年的には北村より一つ下で、そのせいか、北村に対し丁寧すぎるきらいがある。真面目なのは美点だが、何事も過度なものは万人が遠慮するところだ。

 容姿も悪くない。それなりに整った容姿をしている。にも関わらず、男に慣れていないのは、その性格が原因だろうかと北村は分析する。ただ、人によって振舞いを変え、それが苦痛でない北村には、沙弥の性格などどうでもいい話ではあるが。

 彼女にはまだ手を出していない。もう少し時間を掛けた方がいいと、北村は判断している。


 ――土曜日はいつも空いているんです。あなたと会ってからですけどね。お邪魔かもしれませんが、ご一緒させていただきます。


 以上の文面に日時、場所の提案を入れて、北村はメールを返信する。


 ――邪魔だなんて……。わがまま聞いてくださって嬉しいです。土曜日、楽しみにしています。


 沙弥からの返信に北村は問題なさそうだと考える。一応、もう一度メールを読み返してみる。

 慎ましくも、相手の好意を媚びるような打算的な意図が、文面から感じられる。

 彼女は自分に好印象を持ってくれているようだ。まずまずの出来だ、と北村は思う。

 携帯を閉じる。闇の中、携帯のディスプレイに照らされた北村の青白い顔が、暗闇の中に消える。


    *


「北村って、本当に変わってるな。他の奴とは全然違うみたいだ」

「それは知ってる。でも、どこが違うんだろう?」

「北村ってさ、何するにしても、真顔で淡々とやるだろう? そういう所は変だと思う」

「変だと、何か問題なのか?」

「問題って訳じゃないけど……。ただ何考えているか分かんなくて、そこがちょっと怖いと感じる時はあるな。まぁ、とにかく北村は普通の人間とは違う奴だよ」

 北村は小学校時代の悪名により、中学入学早々からクラスで孤立していた。入学してから二週間もする頃には誰に話しかけても無視されるようになり、そしてそのことで北村は自分が嫌われているのだと知る。

 面倒なことになったなと、北村は思う。だが、それならそれで、まぁ、仕方がない。原因が分からない以上、改善のしようもない。

 北村は、その状況を不便に思いながらも、特に焦ることもなく、自然に受け入れる。

 しかし、しばらくすると、北村にも話相手ができる。隣のクラスで、北村と同様にクラス中から総スカンを食らっている奴だ。人の気に障ることを、ついつい口に出してしまう。彼がそういう無神経な一面を持った人物であることは、北村も聞き知っている。

 ただ、北村は、彼の発言など問題にしない。話し掛けられるから相手をしてやってる。いてもいなくても同じだ。それが、北村の彼に対する姿勢だ。

 それでも、彼の側からしてみれば、北村は学年唯一の話し相手である。必然的に、休み時間や昼休みなどは彼と会話することが多くなる。

 何の話から派生したのか、北村は覚えていない。ただ、北村は彼に「変わっている」と言われ、「普通とは違う」と言われたことに興味を引かれる。北村は普通の人間ではない。それは北村自身も良く知っている。

 だが、「普通」とは何だろうと、北村は疑問に思う。「普通」と自分との違いは何だろうと。

 長い間周囲を観察し、そして北村は結論に至る。

 感情だ。感情という色合いの強弱の差だ。

 この時から、北村の感情が擬態を始める。反対に、事実や合理性を冷静に見つめるそれまでの「北村」は、表面的には鳴りを潜める。

 間もなく北村は、感情とは利用しやすい便利なツールだと知るようになる。


    *


「すみません、もうスカイツリーもできているのに、今時東京タワーだなんて……」

「いえ、いいんですよ。休日は部屋の掃除以外にこれといってやることはないですし。それに、東京タワーって僕も行ったことがなくて、ちょっと行ってみたかったんです。だから、気にしないでください」

「そう言っていただけると助かります。……優しいんですね?」

「そんなことないです。それより、早く行きません?」

 そう言って北村は歩き出す。慌てて沙弥が隣に並ぶ。北村は沙弥のことを気遣い、少しゆっくりめに歩く。

 外は小雨が降っている。北村は透明なビニールの傘を、沙弥は深い青色をした傘をそれぞれで差して歩く。傘によって互いの顔が見えにくいせいか、二人の間に会話は少ない。互いの体の距離が遠い。水を巻き上げなら、車が北村の隣を走っていく。

「その傘、いい色ですね。今日みたいな初夏の雨曇りの日には、そんな色が良く合います」

「そうですか? ありがとうございます」

 思えば、こんなことも言えるようになったと、北村は考える。色彩の調和などに北村は興味がない。それでも、中学の頃より随分と、色や、音や、形に言及できるようになった。それが口先だけだったとしても、どうせ相手には分からない。「普通」の人間達は、もっと鈍い。世界の在りようについて、「北村」という人間の本質について、人々はほとんど感じ取ることができない。そこが彼らの隙だと、北村は考えている。

 東京タワーの中に入り、チケットを買う。塔中層にある大展望台を素通りし、先に最上階の特別展望台に登る。特別展望台行きのエレベーターには現在高度を表示するランプが付いていて、それがエレベーターの上昇と共に、より大きな数字に灯っていく。エレベーター自体はガラス張りになっていないから、外の様子は確認できない。気圧の変化による耳の違和感でのみ上昇が実感される。

 目的階まで着き、ドアが開く。北村と沙弥が他の客達と一緒に展望室に入っていく。東の方角を見渡せる位置で、二人手すりの前に並んで立つ。

「わぁ……。やっぱり高いんですね、東京タワーって」

「ですね。何でも、1958年の当時、世界最高の塔だったエッフェル塔に張り合って作られたらしいですよ」

「良く知ってますね?」

「調べたんです。今日のために」

「そうなんですか。……1958年。もう五十年以上も前に建てられたんですね」

「立派な歴史的建造物ですよね。五十年って言えば」

「五十年じゃ、ちょっと歴史が浅いですよ。せめて百年くらいでないと。……時々、おかしなことを言いますよね、北村さんって。楽しいです」

 北朝鮮が核兵器の開発に成功した場合、その最初の標的になるのは、ソウルだろうか、東京だろうか。東京だったなら、ここから見える景色全てが核の火に焼かれることになる。焦土は一体どこまで広がるのだろうか。だが、そんなことは気にしたところで仕方がない。自分はきっと、その火に焼かれて死ぬか、または、倒壊した建物の下敷きになって死んでいるに違いはないのだから。

 雨雲で沈み、小雨で曇った展望には、末世の予感がある。北村は沙弥を相手に談笑しながら、そんなことを考えていた。

「やっぱり、晴れた日に来た方がよかったですね。雨で煙って遠くまで見渡せない」

「ですね」

「あっ、すいません。私からお誘いしたのに、こんな事言ってしまって」

「いえ、いいんですよ。次はスカイツリーを見に行きましょう。ただし、その時は晴れた日に」

「そうですね」

 沙弥が笑う。北村も笑顔を返す。作業だ、と北村は思う。


 特別展望台から塔の中層にある大展望台に下り、その階にある喫茶店に入る。店内は込み合っているが、座れないこともない。北村はコーヒーゼリーサンデーを、沙弥はチーズケーキとアイスティーを注文する。代金を北村がまとめて支払い、出された品物を席まで運ぶ。

「すみません、ごちそうになってしまって」

「そんな、いいんですよ。大した金額じゃないですし。喜んでもらえるなら安いものです」

 沙弥が右手で取っ手を持ち、もう一方の手をカップに添えるようにして、アイスティーを飲む。一口含んだ後、カップを元に戻す。カチャ、とカップが音を立てる。

 こんな風に、女の人を前にしたのは、これで何度目だろうかと、北村は考える。


    *


「捨てないで」

 そう言って、北村が初めて付き合った女の子は泣いた。

 北村が高校三年生の時のことだ。付き合って一年になる同じ高校の同学年の子だった。

 捨てるわけじゃないよと、北村は言った。

「大学受験の準備が本格的に始まるし、僕は国立文系、君は国立理系狙いなんだから、お互い勉強で忙しくなる。ストレスが溜まって、喧嘩になることもあると思う。僕はそうやって醜く争って、結局別れるなんて最後が嫌なんだ。だから受験が終わるまで、お互いに距離を置こうと、そう言っているんだよ」

「距離を置くことと、私を捨てることの、何が違うっていうの?」

 北村の言葉に耳を貸さず、その子はずっと俯いて泣いていた。

 北村にはその涙の理由が分からない。高校生の未熟な男女の付き合いなんかより、後々の人生を考えれば、大学受験の方がよほど重要だろう。それに、ここで終わりにすれば、お互いの事を高校時代の良い思い出として残すことができるじゃないかと、北村はそう考えていた。

 妥当だと思える選択をしないのは何故なのだろうと、北村には思えてしまう。


「あなたは私を好きじゃない。きっと他に好きな子がいるんだ。最低よ」


「ねぇ、あなたを嫌いになったわけじゃないの。けど、好きだと言える自信も、やっぱりないの。もうないの」


「きっと誰も好きじゃないんだよね、君は。私も、そして、君自身でさえも」


 様々な人が様々な瞳に涙を浮かべ、それが流れる様を北村は見てきた。

 その度に北村は何故泣くのだろう、自分のどの選択が間違っていたのだろうと考えた。人生にはそれぞれのステージで相応しい恋愛や恋人の像があるはずだ。その像に見合った人を、人生のその時々で選んでいくことが、互いの成長に最も利する方法だ。

 別れたとしても、お互いの中に経験は糧として残る。その経験こそが互いの成熟の養分となるはずだ。時が来たのだとは思わないのだろうか。花がしおれ、成長の果実を受取るに相応しい、しかるべき時が。確かに別れは悲しいかもしれないが、この結末は予期されていたもののはずだ。なのに、一体何に泣くというのだろう。

 北村は涙を流す彼女達の前で、沈痛な面持ちを作りながら、そんな疑問を抱いていた。


    *


 北村と沙弥が東京タワーを出る頃には雨は止んでいた。それでも空には以前として暗い雲がかかり、太陽の輪郭は見えない。空調のかかった場所から出てきたせいで、空気の湿気を強く感じる。

 二人はそれから六本木ヒルズを散策し、一緒に食事をして、その日は別れた。その帰り際、北村が沙弥の肩に手を回そうとすると、沙弥は驚き怯えるような素振りをした。

「いや、誤解しないで下さい。虫か何かが肩に止まっているように見えたものですから」

「え!」

「いえ、大丈夫。見間違いでしたから」

「ビックリした。もう! 驚かさないで下さいよ、北村さん」

すみませんと謝りながら、北村はガードの固い女だと内心で思う。


 次の一週間を北村は沙弥とも理恵とも会うことなく過ごした。沙弥とはメールのやり取りを定期的にしていたが、理恵とはメールでも電話でも連絡を取ることは無かった。

 仕事が忙しいのだろうと、北村は想像している。実際、理恵は忙しい。去年、異例の若さで課長職に抜擢され、慣れない仕事と責任に振り回されている。だが、それが楽しいらしい。仕事こそ生きがいだと、本人は豪語している。恋人も、もう何年もいないのだと言っていた記憶が、北村にはある。今は、男は必要ない。仲の良い女友達と、北村のような「男友達」がいれば、それで十分なのだと。

 北村は以前、理恵の横で腹ばいになりながら、そんなことを聞いた。妙にサバサバした性格の女だと思ったなと、理恵と出会ったばかりの頃に思ったことを、北村は思い出す。

「彼氏とか、作らないんですか?」

「今はいらないのよ。仕事が楽しいし」

「でも、仕事だけじゃなく、プライベートも充実させたいっていう人、多いじゃないですか」

「確かにいっぱいいるね、そういう子。でも男なんて、もう真っ平。私の足引っ張るだけなんだもん」

「じゃあ、僕はリエさんにとって、どういう位置づけなんです?」

「あなたは私の、女の部分をメンテナンスするためのもの」

「メンテナンス、ですか?」

「そう、メンテナンス。……ガッカリした?」

「いいえ、その何て言うか、嬉しい、と言ったらいいのか分かりませんが、納得できます。心から。……僕もそうですから」

「私はメンテナンス用?」

「ええ、そうですね。まぁ、僕の言葉で言えば、性欲処理用、ということになるんですけど」

「性欲処理用……。酷い扱いね、私」

「まぁ言い方は良くないんでしょうが、目的はリエさんと同じですよ、きっと。日常の維持。そしてそのための性欲処理、ですから」

「なるほどね。……似てるわね、私達」

「似てませんよ、全然」

 三度目だったか、四度目だったかの密会の後に交わされた会話だ。

 北村はベッドの中で腹ばいになり、理恵は北村に背を向けたまま衣服を着けていた。そして着替えが終わると「私の分のお金、ここに置いておくね」と言い、テーブルに紙幣を数枚置いて出て行った。

 納得できます、か。まさか、女の人に対して、自分がそんな言葉を発する日が来るとは思いもしなかったなと、北村は思った。

 これは本当にアタリかもしれない。

 出会ったばかりの頃の感想が、北村の心に再び浮かんでいた。


 それからも北村と理恵は幾度も密会を重ねた。理恵と会うたび、それにしても不思議な女だと、北村は思わざるを得なかった。理恵の中にあるものはなんだろうかと北村は考えた。この自分の中に漂う虚ろな感情と同調する理恵の本質とは、一体何なのか。

 リアリズム。

 理恵は現実を見据えて動く。行動が目的と手段、それに、計画と実行で成り立っている。その様は確かに女性らしい一面に違いないが、それにしたって、いささか殺伐とし過ぎている。

 リアリズムの代償は誰かの愛情だ。理恵がリアリズムに支配されているなら、誰かの愛情が必要になるはずだ。しかし、理恵は、男の愛情が不要だという。北村の経験では、女という生き物は、のべつ幕なしに男の愛情を欲し、男の愛情にしがみつく存在となっている。

 だから、愛情を希求しない女がこの世にいるとは、北村にはどうしても思えない。

 本心を隠しているのだろうか? それとも、理恵に対する、もしくは、世の中の女に対する分析が間違っているのだろうか? 

 北村には分からない。

 六ヶ月が過ぎる。


「今度、本気で結婚相手を探そうかと思っているんです」

「……えっと、つまり、その時は私との関係も終わりってこと?」

「ええ。名残惜しいですが」

「そう。……仕方ないわね。早く見つかるといいね、良い人が」

 慣れた行為に浸った後で、いつものように着替えをしている理恵に、北村は言う。理恵は北村の言葉にも笑って返してくる。焦りも執着も理恵は見せない。こうした態度にも、北村はもうすっかり慣れている。

「結婚相談所に登録するつもりなんです。相手が見つかって、無事に付き合うことができたら、リエさんともサヨウナラになります。でも、それまでは……」

「今まで通り?」

「はい。それが僕にとって、一番都合がいいですね」

「……いいわよ。今、仕事が立て込んでいるし。代わりを探すのも大変だから」

「ありがとうございます」

 この人は一体何のために仕事をするのだろう?

 北村はそう思う。

 着替えを済ませた理恵が厚手のコートを着て部屋から出て行く。テーブルの上には理恵の支払い分と、飲みかけのグラスワインが残されている。薄暗いホテルの一室で、グラスの中の赤ワインはどす黒く見える。

 ドアの間から理恵の背中が見えなくなる。オートロックの鍵が閉まる音が部屋に響く。


 理恵との関係を清算する必要があるなと、北村は思う。

 理恵と最後に体を重ねてから二週間がたった。今夜、北村は理恵と会うことが決まっている。

 理恵はまだ来ない。ついさっき、仕事が長引いて少し遅れると、連絡があった。今日は七月の一日だ。月初は仕事で立て込むことが多いと、理恵から聞いている。

 既に午後九時を回っている。七月頭の湿った夜風に吹かれながら、北村は理恵の到着をしばし待つ。

 ネオンの光が夕方に降った雨に濡れて、アスファルトを照らしている。雑多な人々がその上を往来し、街の音を作っている。歩道の銀色をした手すりから水滴が落ちる。雨は降っていない。

「ゴメン、長く待った?」

「少しは」

「ホント? ゴメンね?」

「そんなに気にしないで下さい。仕事ですし、仕方ないですよ」

「うん。……行く?」

「ええ」

 月は出ていない。雲で隠れている。

 二人でいつもの場所に向かって歩きながら言葉を交わす。結婚相談所で紹介された人とうまくいきそうだと、北村が理恵に告げる。理恵が驚いた声を上げ、そして笑いながら、おめでとう、良かったねと返事を返す。

「どんな人?」

「真面目すぎる部分があるくらいで、あとは至って一般的な女性です」

「名前は?」

「木村沙弥っていいます」

「いくつ?」

「二十七です」

「えー、何よ、若い子じゃない。やっぱり男の子って、若い子が好きなのね」

「そんなことないですよ。お姉さんだって好きですよ、僕は。あなたみたいな」

「そう……? まぁ、ありがとうって、言っておこうかな」

 ホテルに着き、いつものように部屋を選び、いつものように服を脱ぎ、いつものように交わる。一連の流れに変化は見られない。シーツの皺さえ同じに見える。

 今日で理恵に会うのは最後になるはずだが、それが北村には微塵も惜しくない。恋愛でないにしろ、友情のような親しみを北村は理恵に向けている。それが今日で無くなるというのに、少しも残念に思わないのは何故だろうかと北村は考える。分からない、との答えが返ってくる。北村にはそれが、ただ奇怪に映る。

「ねぇ、ちょっと聞いていい?」

「なんです?」

「不思議なのよ。私達、多分、今日で会うの、最後じゃない? でも、悲しいと思ってないのよ、私。どうしてかしら?」

「分かりませんね、僕には」

「そうよね。でも、私は不思議なの。私、この一年、あなたに毎週のように会って、それで、仲良くやってきたじゃない?」

「ええ」

「私はね、あなたのこと、好きよ。話は合うし、体の相性もいいし……。少なくとも、私はそう思ってる。北村クンは?」

「そうですね……。ええ、同感です。考え方やら、体やらの相性は良いと思いますし、僕もリエさんのこと、好きだと思いますよ」

「うん。ありがとう。嬉しいな。……でもね、そんな相手ともう二度と会えないっていうのに、私ね、悲しくないのよ。仕事のことばかり、目的のことばかり考えてる……。どうしてかしらね?」

 分かりませんと、北村は答えた。しかし、その後も、理恵は北村の横顔を眺め続けた。その表情は何かを探すようだと北村は思った。

 初めて二人でシャワーを浴びて、初めて一緒にホテルを出る。小雨が降っていて、二人が別々に傘を開く。建物を照らすライトに水滴が浮かんでいる。光の中を雨の粒が通り過ぎていく。

「それじゃ、ここで。未来のお嫁さんと仲良くね」

「ええ。リエさんも、お元気で」

「うん。じゃね」

 二人は別々の方向に歩き出す。北村は一度だけ、チラと理恵の方を振り返る。泣かないんだなと思う。別れ際に涙を見せない女は、そういえば理恵が最初だと考える。

 彼女は別れが悲しくないと言っていた。そしてそれが不思議だとも。

 同感だと、北村は思う。


 北村はこの後間もなく沙弥と結婚し、慎ましい家庭を築く。特段仲が良いというわけでもなく、特段仲が悪いというわけでもない、ごく普通の家庭である。

 三十年の後、沙弥は心疾患に倒れ、敢え無く急逝する。その死に際し、北村は冷たくなりつつある沙弥の手を握り、医師や子供達の見ている前で涙を流す。誰もが一度は見たことのあるような典型的な死別の場面で、北村はただ静かに泣く。

 医者や子供達が、北村の心痛を慮り、そっと病室を後にする。

 しかし、北村の涙は止まらない。涙を見せつける者のいなくなった後であっても、北村の涙は止まらない。

 何故自分が泣くのか、その涙が何処から来るのか。

 北村自身にも答えを出すことができない。


 白衣に身を包んだ看護師が病室に入ってくる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ