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誰がために春は来る  作者: 藍間真珠
第一章
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第八話 伝えたくて

 気づけば白い空間が広がっていた。瞼が重たくてはっきりとはしない視界が、一面白に塗り潰されている。

 ここはどこなのだろうか? ありかはぼんやりとしながらそんなことを思った。体の感覚があまりなく、動かそうにもうまくいかない。水の中に浸かっているかのような浮遊感もあった。ひょっとして死後の世界なのだろうかと、そんなことを考える。

 ――私は死んだの?

 疑問を声に出すことはできなかった。生暖かい何かに包まれているような安堵感もあり、重力を感じないという不安感もある。思考も鈍かった。考えと考えの間に膜が一枚挟まっているようで、ゆっくりとしか頭が働かない。けれども、少なくともここがリシヤの森ではないことはわかった。先ほどまでずっと感じていた、あの無数の気が今はどこにもない。

 え?

 不意に誰かの声を聞いた気がして、彼女は首を傾げようとした。もっとも頭すら動かすことができず、無論声の方を向くこともできなかったが。

 あれ?

 だが、突如目の前にぼんやりと輪郭が見え始めた。白の世界に溶け込むように、薄桃色の髪が光を放っている。

 おんな、のこ?

 瞼が落ちそうになるのだけは何とか堪えて、彼女は目の前の少女を見つめた。年の頃はありかよりも少し下だろうか。腰よりも長い髪は薄紫の光を纏い……いや、体全体が同じ光を纏っていた。そのせいかどんな服を着ているのかもよくわからなかった。ただその少女が自分と似ていることだけはわかった。感情の読みにくい黒い瞳が、ありかをじっと見つめている。

「ねえ」

 必死の思いでありかは声をかけた。彼女に、聞きたかった。ここがどこなのかを、自分は死んだのかどうかを、もう二度と乱雲には会えないのかを。けれどもそれ以上喉は震えず、尋ねることはできなかった。代わりに少女の唇がゆっくりと動く。

 ごめんなさいと、そう告げたように見えた。声は聞こえなかった。それどころかますます両瞼が重くなっていき、ついには抗えなくなり彼女は目を閉じる。

 次に目が覚めた時は、目の前に乱雲がいればいいのに。そんな都合のよい願いを抱いていることに気づき、つい苦笑が漏れそうになった。彼女の意識はそのまま、すぐに闇へと飲み込まれていった。




「ありか」

 かすかに聞こえた呼びかけに、ありかは微睡みながらも手を伸ばそうとした。耳に届いたのは、求め続けた乱雲の声だった。だからたとえこれが自分の願いがもたらす甘い夢だとしても、今はそれに縋り付きたい気分だった。しかし空を掴むことすらできず、指先が震えただけで。

「ありか」

 頬に温かみを感じる。心地よい温度だ。そこまできて夢にしては妙なことに、彼女は気がついた。全身が痛い。特に頭がずきずきとして、どうしようもない。もしこれが夢ならそんな都合の悪いことは起こらないのではないか? 彼女は頭痛を堪えながら、無理やり瞼を持ち上げた。すると柔らかい光に照らされた天井が、ぼんやりとだが見えてくる。

「ありかっ!」

 次に見えたのは乱雲の顔だった。彼女は瞬きを繰り返しながら、何が起こってるかを理解しようとする。

 これは夢ではないのだろうか? それでは自分は生きているのだろうか? 問いかけるよう彼を見つめると、頬に当てられていた手がやおら除けられた。温かみが消えたことに心細くなり、自然と唇が動く。

「乱雲?」

「ああ、オレだ。ありか、大丈夫か?」

 今にも泣きそうな顔の彼が目の前に迫ってきた。鼻先に触れそうな位置までの接近に、一気に鼓動が飛び跳ねる。

「ありかが医務室に運ばれてきたって……ええっと、そうシャープって子が伝えてくれて」

「医務室?」

「そう、ここは医務室だ。わかるか? リシヤで倒れたのをラウなんとかって人が助けてくれたみたいなんだ。その辺りはオレはよくわからないんだけど、シイカさんが知ってる。空間の歪みに巻き込まれそうになったとかって言ってたけど」

 ほんの少し離れると、彼はそう説明してきた。言われてみればここは見覚えのある医務室だ。乱雲が倒れた時に来たばかりだから、シーツの感触まで記憶に残っている。薬品独特の匂いもあの時と同じだった。そう、自分は生きている。彼女はそれを確信してほっとした。寝ているのはおそらくベッドの一つだろう。その硬さと冷たさが今は少し心地よい。

「乱雲、あのね――」

「ありか、今は喋らなくていい」

「でも……」

「さっきまでそこにシイカさんがいたんだけどな、今はどこかで医務室長と話をしてるみたいなんだ。ありかの調子がすごく悪いみたいで深刻な顔をしてた。だからまだ、話さない方がいい。どこか傷むか?」

 生きていたのだから、また会えたのだから、今すぐにでもこの気持ちを伝えたかった。けれども言葉を途中で遮られて、彼女は軽く眉根を寄せる。確かに頭がひどく痛むし体も重い。しかし今伝えてしまわなければまた何かが起こるのではという不安が消えなかった。あんな思いはもうしたくない。後悔は、したくない。

「ねえ、乱雲」

「どこも痛くないか?」

 それでもやはり紡いだ言葉は遮られて。彼の手が再び頬へと伸びてくると、優しく瞳を覗き込まれた。間近で見る彼の顔はとても綺麗だ。たとえ好意という膜を取り去ったとしても、人目を惹きつける力はあると思う。すると彼はゆっくりと口を開いた。

「ありかが、いなくなると思ったら、オレは」

「……え?」

「何も言わなかったこと、すごく後悔したんだ。だから伝えたくて」

「え、ええ?」

 彼女は目を白黒とさせた。速まった鼓動が全身へと伝わり、体中が真っ赤になったような錯覚を覚えた。ずっと胸に抱いていた言葉が彼の口から放たれたという事実に、動揺を隠せない。何をどう答えて良いのかわからなかった。

「ありかがいなかったら、オレはこの宮殿でも潰れてたと思うんだ。ここがこんなに冷たい場所だって、全然知らなかった。最初は未練を断ち切るのには丁度いいって考えたけど、でもやっぱり段々耐えられなくなって」

 彼が告白する度に、吐息が顔へとかかった。きっと頬は染まっているだろう。間抜けな顔をしているだろう。そう思うけれど彼から目を離すことができなかった。ただ言葉の続きを期待して、シーツに隠れた手を強く握る。心臓が早鐘のように打ち苦しくなった。

「だからありかがオレのこと心配してくれるのは教育係だからだって、そんなことはわかってるのに。わかってるのに止められなかった。気づいたら好きになってた。ごめんな、まだ試験まで大分あるのに急にこんなこと言って。驚くよな。でも、言わなきゃいけない気がして」

 彼はそっと手のひらを除けた。やや寂しげな微笑はいつも見慣れたものだ。だが今そうさせているのは自分なのだと、彼女ははっきりと実感する。だから離れかけた手を掴もうと慌ててシーツから手を引っ張り出した。と同時に痛みが走り、小さな呻きが漏れる。

「いたっ……」

「あ、ありか!? いきなり動いたら――」

「だって」

「悪い、オレが変なこと言ったからだよな。ごめん」

「そ、そうじゃないの」

 彼女はゆっくりと首を横に振った。頭痛が増したがそれでも今度は声を漏らさなかった。何とか顔に微笑みを貼り付けて、不安そうな彼の瞳を見上げる。

「離れて欲しくなかったから」

「え?」

「死んでなかったら、あなたにもう一度会うことができたら、私も伝えようと思ってたの。なのに先に言われちゃうなんてびっくりよ」

「あ、りか?」

 今度は彼が驚く番だった。瞬きを繰り返す彼の顔を、彼女は真っ直ぐ見つめる。そして唇が震えそうになるのを懸命に堪え、言葉を紡いだ。今が全てを吐き出すべき時だった。

「気づいたらあなたが気になってたの。でも教育係なのにこんな気持ち抱いちゃいけないって、ずっと隠してたの。あなたに迷惑かけたくないから、困惑させたくなかったから。だから死ぬかもしれないと思った時に後悔したのよ、伝えておけばよかったって」

 彼女はそう続けた。偽りのない気持ちだった。隠すべきだと思っていたから押し殺してきたけれど、ずっと口にしたかった。伝えてしまいたいと何度思ったことか。

「あなたを一人にはしないわ」

 そっと手を伸ばし、彼女は彼の肩を撫でた。悲しい顔はして欲しくない。寂しそうに笑わないで欲しい。傷は消えないだろうが、それでも幸せになって欲しかった。幸せそうに笑って欲しかった。自分勝手な願いかもしれないが、彼が今にも消えてしまいそうで怖かった。あまりにも儚くて。

「あなたに辛い顔なんて、させない」

「ありか」

 彼はその手を取ると柔らかに微笑した。そして甲へと軽く触れる程度に口づけてきた。温かみと同時に驚きが広がり、彼女は目を丸くする。すぐ傍にある彼の顔はいつも見ていた以上に不思議と大人っぽかった。今まで見たどんな表情よりも艶がある。

「そろそろシイカさんが戻ってくる頃かな」

「お母様が?」

「まだしばらくは教育係と移住者だし。オレはそろそろ失礼するよ。何があったかは、事件のあらましについては、シイカさんに聞いて」

 何故だか突然、彼に余裕ができたようだった。優しく微笑んで今度は額に口づけを落とすと、ゆっくりベッドから離れていく。彼女は何と言っていいのかわからず、彼の瞳を追い続けた。鼓動は落ち着かなくて、体はほてったままだ。

「ありかが元気になったら、勉強再開だな。話はその時にでも」

「え? あ、ええ」

 改めて彼が年上であることを思い知らされた彼女は、呆然としたままその背中を見送った。医務室の扉が音を立てて閉まり、静寂が訪れる。するとそれまで意識の外に追いやっていた痛みが再び襲ってきた。彼の心配する通り、長話はしない方がいいだろう。

「もう、隠さなくていいのよね。あ、でも他の人に気づかれたらまずいのか」

 緩みそうになる頬へと手を当てて、彼女は呟いた。痛みだけではなくほのかな甘さが、体の中を満たしている気がした。幸せを噛みしめた瞬間だった。


 そして、二人の秘密の関係が始まる。

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