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誰がために春は来る  作者: 藍間真珠
第一章
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第五話 それは涙とともに溢れ出して

 太陽はもうほとんど地平の向こうへと隠れようとしていた。外からの明かりが薄らいだ医務室は、薄闇に慣れた目でないとどこに何があるのか把握できない。

「もう、結構時間経つわよね」

 ありかはそっと壁に掛かった時計を見上げた。が、針まではっきりとは見えなかった。だが長いことここにいるのは確かだ。そろそろ図書庫へ戻らないと、今日の分の仕事を終わらせることができない。

 けれども、どうしてもこの場を離れる気にはなれなかった。包み込んだ乱雲の手が冷たいままでは、彼が眠ったままでは立ち去ることができない。

 ヤマトで何があったのだろう? 知り合いに、兄に、甥に会ってしまったのだろうか? 胸中で何度も問いかけてみるが、答えは得られなかった。彼が目覚めなければ何もわからない。彼女は彼の拳を手のひらで撫で、不安な気持ちを外へ追いやろうとする。

 すると不意に、その拳がぴくりとだけ動いた。見ただけではわからないが触れているからこそわかる変化。彼女は数度瞬きをして、やおら彼の顔を覗き込む。それまで苦しげに繰り返されていた呼吸のリズムがほんの少し変わっていた。彼女は恐る恐る口を開く。

「乱雲?」

「あ、りか?」

 呼びかけると、すぐに返事が聞こえた。まだ現状を把握していないのか、寝起きのようなぼんやりとした声だ。彼女はほっと胸を撫で下ろす。このまま眠ったままとは思わないが、それでも目覚めてくれたのは嬉しい。

「そうよ、私。乱雲、大丈夫?」

 かすみかけた意識に染み渡るようにと、彼女は一語一語はっきり口にした。頭だけかろうじて動かした彼は小さく頷き、それから不思議そうに見上げてくる。その黒い双眸は、何故ありかがいるのかと問いかけているようだった。彼女は微笑を浮かべてそっと手を離す。

「シャープっていう女の子がね、あなたがここにいるって教えてくれたの」

「女の子……?」

「覚えてない? 蜂蜜色の髪に緋色の瞳の、十歳くらいの女の子」

「いや、全然」

 彼は首を横に振った。それだけ動揺していたということだろう。ひょっとすると、医務室に運ばれたことも覚えていないのだろうか? 胸の奥が傷んだが、それでも彼女は微笑みを浮かべた。今彼女がするべきことは同情することではなく彼を安心させることだ。波立った心を穏やかにすること。

「そうだ、オレ、仕事中に青葉あおばの姿見かけて――」

「青葉?」

「甥っ子の名前。たぶん買い物か何かに来てたんだ。兄さんたちの姿は見えなかったけれど、近くにはいたんだと思う。突然青葉がオレのことを見た気がして、それで動揺して……」

 そこまで説明すると乱雲は言葉を詰まらせて俯いた。ありかは慌てて、もう一度彼の手を握る。すると弱々しい笑みを浮かべて彼は顔を上げた。痛々しさが胸に来る、儚い蝋の炎のような笑顔だ。

「きっと気のせいよ。たまたま振り返っただけじゃあないの? 距離はそれなりに離れていたんでしょう?」

「ああ、確かに遠かったけど、でもたぶん気づいたんだ。あいつ小さくても技使いだから、オレの気を知ってるかもしれない」

 彼女は息を呑んだ。乱雲の甥は、先日の話によればまだ三つくらいのはずだ。その幼さで技使いだとわかるというのは、相当の実力を秘めていることを示唆している。普通そうだと気づかれるのは六、七歳くらいのことだ。ありかだって自分の力に気づいたのは六歳になった冬のことだった。

「そう、だったの」

「だから気づかれたと思って動揺しちゃって。馬鹿だなあオレ。ここに来たらもう帰れないんだから、今さら会っても何も変わらないのに。他人みたいに、冷たい顔で無視すればいいのに」

 自嘲気味な彼の声音に、彼女は強く唇を噛んだ。どうしたら彼の痛みを少しでも和らげることができるのか、そればかりが頭をぐるぐると回り始める。

「オレ、何のためにここに来たんだろう」

「幸せになるために、決まってるでしょう」

 けれども気づいたらそう言い切っていた。息を呑んだ彼は、まじまじと彼女の瞳を見つめてくる。薄闇の中でも、自分の姿がそこに映るのがはっきりとわかった。彼女は両手で彼の手を強く包み込む。

「だってそうでしょう? 不幸になるためにここへ逃げてくる人なんていないでしょう? あなたは幸せになるためにここに来たのよ。自分を傷つけるためじゃなくて」

 恥ずかしいことを口にしていると、自覚はしていた。だが彼女は必死だった。どうしたらいいかわからないのに、それなのに言葉が溢れてくる。いや、溢れ出してきたのは言葉だけではなかった。気づくと頬を涙が伝っていて、自分で自分に驚いてしまう。

 泣かないと決めていたはずなのに、泣いては駄目だとわかっていたはずなのに、それなのに目尻に浮かんだ涙を堪えることができなかった。どうしてしまったのだろう? 自分に問いかけても、もちろん答えは返ってこない。

 乱雲は驚いたように勢いよく上体を起こした。めくれ上がったシーツが冷たい音を立てながら、ゆっくり床へと落ちていく。

「ありか……」

「だから、一人で抱え込まないで。自分を責めてもどうしようもないのよ。それじゃあ誰も幸せにならないの。だから、そんな無駄なことはしないで」

 声はかろうじて震えていなかった。彼の腕がおもむろに伸びてきて、その指先が頬へと向かう。先ほどよりも少し温度のある指が涙を拭った。彼女は気恥ずかしくなって、視線を逸らして唇を噛む。

「それに私はあなたの教育係でしょう? あなたが背負った重みも半分は私が支えるから。だから乱雲、早く元気になっ――」

 目を逸らしたまま続けた言葉は、途中で遮られた。視界いっぱいが暗闇に覆われ息が苦しくなり、一瞬何が起こったのかわからなくなる。

「ありがとう」

 頭上から染み渡るように注がれたのは、囁くような低い声だった。そこまで意識してようやく、自分が彼に抱きしめられたのだと彼女は理解する。彼の体は温かかった。先ほどまでの手のひらの冷たさとは違う、血の通った温度が感じられる。

「ありがとう、ありか」

 繰り返される感謝の言葉に、鼓動が速くなった。音が彼に聞こえるのではないかと思うくらい胸全体に、いや、体全体に拍動が伝わっていく。ただの感謝の抱擁だと理解はしていた。それなのにどんどん体が熱を帯びてきて、唇が上手く言葉を紡げないでいる。

 こんなことは今までなかった。動揺しながらも彼女は過去に思いを巡らせた。ミケルダなんかは女の子に声をかけるのが趣味みたいなもので、何度か戯れに抱きしめられたこともあった。けれどもその時だってこんな風にはならなかった。笑いながら突き返すことができた。

「ありかが教育係で良かった」

 骨を通して伝わるかのような間近な言葉に、体が一瞬ぴくりと跳ねた。呼吸も止まりそうになる。その反応に彼は首を傾げて、ほんの少しだけ腕の力を緩めた。

 もしかして、彼のことが好きなのかもしれない。その可能性まで辿り着いて、彼女は困惑した。それは問題ないことなのだろうか? 教育係がそんな感情を抱いても大丈夫なのだろうか? 今まで教育係と言えば、移住者よりはるかに年上の、それこそ父親か母親のような人しか任命されてこなかった。だからおそらく前例はない。

 けれども、少なくとも今は駄目だ。彼が試験を突破するまでは、ただの教育係でいなくては駄目だ。気づかれてはいけない。

 速くなった鼓動を落ち着かせようと呼吸を繰り返しながら、彼女は胸中で何度も呟いた。これ以上、彼を困惑させる材料を増やすわけにはいかない。彼に勘づかれてはならない。

「あっ」

 どうやって自然にここを抜け出そうかと彼女が考えた次の瞬間、慌てて彼は腕を離した。突然解放された彼女は椅子からずり落ちそうになり、それでも何とか踏みとどまってベッドの端に手をつく。

「えーと」

 彼の視線の先は彼女の背後へと向けられていた。恐る恐る振り返ってみると、そこには立ちつくしたシャープの姿がある。

「あ、シャープ」

 シャープは居心地悪そうな顔で窓の方を向き、眉をひそめていた。きっと乱雲を起こさないようにとそっと入ってきたのだろう。その小さな『気』に気づかなかったのは、狼狽えていたせいだ。いつもの彼女ならば気づく。ありかが何を口にすべきか迷っていると、小さなシャープの唇が慌てたように動いた。

「ご、ごめんなさいっ。邪魔するつもりはなかったんだけれど」

「じゃ、邪魔!? いや、そんなんじゃなくて――」

「もうすぐお母様が戻ってくるから。それだけ、言いに来たから。それじゃっ」

 言葉少なに状況を告げると、シャープは踵を返して出口の方へと走っていった。乱暴に閉められた扉が大きく音を立てる。ベッドとベッドを遮るカーテンが、シャープに触れられたせいでゆらゆら揺れ続けていた。

「今の女の子が、さっきありかが言ってた子?」

「そ、そう。伝えに来てくれた子。シャープ。どうも医務室長の娘さんみたい」

 それまでと何ら変哲のない彼の声音に少し落ち着き、ありかは首を縦に振った。それでもどんな顔をしたらいいのかわからないから、眼差しはシャープの去っていった方へと向けたままだ。

 見られてしまったが問題なかっただろうか? シャープの勘違いということですまされるだろうか? ――きっと大丈夫だろう。まだ十歳の子どもだ。適当にはぐらかせば乗り切れるはず。

「じゃあ私はそろそろ、行くね」

 今が機会だと、彼女はそう言って立ち上がった。このままここに居続けるのは心臓にも悪い。落ちたシーツを拾ってベッドの脇に置くと、何とか彼女は顔に笑みを貼り付ける。そしてちらりと横目で彼を見た。真正面から見つめるのは無理だが、それくらいなら何とかできる。

「ああ」

 彼はいつも通りの儚い微笑を浮かべていた。完全に傷が消えたわけではないが、先ほどのように胸を刺す痛々しさはもう見あたらない。大丈夫、普段の彼だ。

「仕事に戻らないと……もう時間だから」

「ああ、そうか。悪い中断させて」

「ううん、いいの。じゃあね乱雲、また明日ね」

「また明日」

 ひらりと手を振ると、彼女は足早に部屋を飛び出した。響く靴音のリズムがぎこちない。跳ね上がった鼓動も、しばらく落ち着きそうになかった。

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