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誰がために春は来る  作者: 藍間真珠
第二章
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第八話 その重み

 妊娠のことを乱雲に言えないまま、数週間が過ぎた。詳しい検査をしたが結果は同じで、ありかの気持ちは波立ったままだった。

 嬉しいはずの知らせも今は悩みの種でしかなく。準備にいそしむ乱雲を見ているからこそ、なかなか口には出せない。どうして話してくれなかったのかと彼を責めたこともあるのに、今度は逆の立場だった。今なら彼が躊躇していた理由もよくわかる。だがもちろん以前の自分の気持ちも覚えてはいて、だから複雑な気分は拭えそうになかった。

「私って馬鹿ね」

 部屋で一人起きる朝は、体が重くて辛かった。シイカはとっくに仕事に向かっているだろう。神技隊のこともあり上はバタバタしたままで、その穴埋めに駆り出されているようだった。時折また咳をするようになって心配だが、それよりこの吐き気を堪える方が大変なので気軽に声もかけられない。

「でもそろそろ私も行かなきゃ」

 気怠い体を起こして、彼女はベッドから足を下ろした。仕事を安易に休むわけにはいかない。上がうるさいし、何より妊娠の事実を周りに気づかれてしまっては困る。それが乱雲へと伝われば、きっと彼は苦悩するだろう。ぎりぎりの線で踏みとどまっている彼の心を砕きかねない。それだけは、どうしても避けたかった。

「私って馬鹿」

 いずれは周知する事実。しかし彼がこの世界を去るまでは隠し通したい事実。痛みを分かち合いたいなどと思いつつ逆のことをしていると、妙に滑稽に感じられて仕方がなかった。彼が知ったら怒るだろう。シャープたちが知らせてくれたように、誰かが知ればいずれは彼へも伝わってしまう。けれどもそれを少しでも先延ばしにできれば、彼女の勝ちだった。

「結局は似た者同士なのかもね」

 支度を続けながらも自嘲気味な言葉が漏れた。髪を梳く手も普段以上に重い。それでも準備を終えた彼女はゆっくり扉へと向かった。そろそろ出なければ遅刻になる。食欲もないし朝食は後回しにしようと決めて、彼女は取っ手を握った。図書庫の仕事は座ったままの時間が長いので、辿り着けさえすれば何とかなる。

「ありか!」

 しかし扉はありかの意志に反して勢いよく開かれた。思わず手を離した彼女は、驚きに数回瞬きを繰り返す。

「乱雲?」

「よかった、まだいたんだな」

「これから図書庫に行こうと思ってたんだけど」

「それが、ありか、さっき上からの通達が届いて……」

 告げながら彼は自らの胸を押さえた。どうやら全速力で走ってきたらしく、息を整える様に不安がよぎる。この時間は人通りも多いだろうからその中を駆けてくるのは大変だったはずだ。だがそんなことをする理由が、それだけ焦る理由というのが、彼女には思い当たらなかった。たった一つを除いては。故に自然と体が強ばっていく。

「通達?」

「明日、オレたちは無世界に発つことになった。早まったんだ、予定が」

 次の瞬間、彼女の憂いは杞憂に終わった。彼の手が真っ直ぐ彼女の頬へと伸びてきて、指先だけが愛しげに触れてくる。妊娠の事実がばれていなかったことに安堵して、彼女は肩の力を抜いた。彼の放った言葉の意味がわからないわけではないが、それでも秘密が暴かれていないことの方が胸に響いてくる。

「雪解け前だと聞いてはいたけど、まさかこんなに早まるなんて思わなくて」

「確か、二月だって言ってたものね?」

「そうなんだ。でも違法者の増加率が変わらなくて……。神技隊の噂が広まれば少しは抑えられるだろうって話だったのに、結局は急がなきゃならなくなったんだ」

 彼の手のひらにそっと、彼女は自分のものを重ねた。汗ばんだ肌は温かく、彼の体温を伝えてくれる。そんな些細なことさえ嬉しくて彼女は瞳を細めた。

 彼も彼女もこうして生きている。生きて存在している。たとえ別の世界の人間になっても生きていることには変わりがない。それにずっと離れていると決まったわけではなかった。彼は異世界へ派遣されるが、戻ってくるなと言われているわけではない。

 彼女は小さく相槌を打った。そんな風に考えられるくらいには心が落ち着いていた。自然と口元に微笑が浮かび、彼女はそっと唇に言葉を乗せる。

「大丈夫よ、私は大丈夫。いつかこんな日が来るんだってちゃんとわかってたから」

「ありか――」

「ずっと異世界にいなさい、って言われてるわけじゃあないでしょう? 違法者をみんな捕まえて、そして連れ帰ってきて。それまで私は待ってるから」

 この子と一緒に。最後の言葉だけ飲み込んで、彼女は微笑んだ。彼を不安にしてはいけないと、不安な材料を与えてはいけないと心のどこかで警告が発せられた。全ては彼の心を壊さないため。そのために真実を覆い隠す。

「そ、そうだよな。仕事を終えて帰ってくればいいんだよな。そうだよな」

「そうよ。今までと同じ、外回りの仕事だと思えばいいのよ。ちょっと長いけどね」

 彼の指先が名残惜しげに離れた。その指を数秒だけ目で追い、それから彼女はおもむろに彼へと双眸を向ける。痛みを堪えた彼の瞳は見慣れたものだった。それでも彼女はただ微笑を絶やさず暗に告げる。大丈夫なのだと、安心していいのだと。彼は息を呑んで小さく頷いた。

「明日、見送りに行くわ」

「ああ」

「だから胸張って無世界へ行ってね。神技隊のリーダーさん?」

 顔を歪める彼へと、彼女はできる限り明るい声で笑いかけた。それが今の彼女にできる、精一杯の励ましだった。




 時が過ぎるのがこれほど早かったことはなかった。そんなことを思いながら、ありかは雪原の中に佇んでいた。辺り一面に広がるはずの草も、今はほとんど雪に覆われている。北に位置する宮殿の周りは、他の地域と比べても雪の積もりが早かった。もっともこの時期では既にヤマト辺りも雪の中だろう。だが今日は幸いにして晴天だ。冷たい風が時折雪を巻き上げる程度で、視界は良好だった。

「神技隊、よろしく頼む」

 ありかの前には一人の男性が立っていた。赤茶色の髪に大柄な男はリューの父親、リョーダだ。神技隊の選任から派遣までを任されている他世界戦局専門長官。何故『異世界』ではなく『他世界』なのかと疑問に思ったりもするが、こんな時にとても聞ける雰囲気ではない。そもそも戦局という単語が物々しかった。上の考えることはわからないといつにも増して首を傾げたくなる。

「わかりました」

 やや離れた所から乱雲の声が聞こえた。昨日とは打って変わって凛々しい声音だ。そのことに安堵して彼女は口角を上げる。

 リョーダと向かい合う形で、五人の若者が佇んでいる。彼らが神技隊に選ばれた者たちで、ほとんどが二十代半ばの技使いだった。乱雲を含めて男性三人、女性二人の構成だ。違法者を取り押さえることだけを考えれば男性の方が適任だが、相手が女性だった場合は女性でなければ問題が生じる。また技使いとしての能力を加味してこうなったらしい。以前乱雲がそう話してくれた。

「説明は以前した通りだ。私からこれ以上話すことはないが、頑張ってくれ」

「わかっています」

 リョーダは言葉少なだった。しかしそれは突き放しているからではなく、苦悩故に軽々しく言葉を紡げないためなのだと、彼女は知っていた。乱雲から度々聞くリョーダはそんな男性だ。神技隊のことを複雑な気持ちで見守り、内心で苦悩している。そして選ばれた者たちの今後を理解しているからこそ、気楽なことを口にできずにいる。

「無世界には既に一人、上の者が行っている。詳しい話は彼から聞くといい」

「ラウジング、という人ですよね?」

「そうだ。彼が色々と手配をしてくれているはずだ」

 リョーダと乱雲の言葉を彼女は静かに聞いていた。彼女の他にも数人見送りに来ている者たちはいる。が、家族ではなくおそらく友人か仕事仲間だろう。神技隊に選ばれたのは全て、宮殿に家族のいない若者だと聞いていた。家族を引き離すことはリョーダには耐えきれなかったようだ。

「それなら安心です。では、ゲートが閉じないうちに行ってきます」

 乱雲のよく通る声が、彼女の思考を一時中断させた。ついに訪れるその時に、つい体が強ばる。彼女はじっと彼を見つめた。リョーダの背中越しに見える姿を、目に焼き付けようと必死になった。これで最後とは思わないが、しばらく見られないだろう姿を朧気にはしたくない。涙で歪ませたくはない。

「頼む」

「はい」

 返事と同時に乱雲たちが背を向ける。簡素な荷物だけを手にした彼らを、彼女は凝視した。白い世界の中浮き立つような背中は、頼もしいはずなのに小さい。涙がこぼれそうになった。

 だが刹那、一瞬だけ乱雲は振り返り微笑んだ。痛みと切なさを堪えた頼りない微笑は、確かに彼女に向けられたものだった。彼女は首を縦に振り精一杯の笑みを浮かべる。彼の脳裏に焼き付くのなら笑顔がよかった。泣き顔で終わりにしたくはない。

 乱雲。心の中で名前を呼び、彼女は泣くのを堪えた。再び背を向けた彼の姿はさらに小さくなる。胸の奥の傷がじわじわ開くように、痛みが体中を支配した。

「え?」

 しかしそこで不意に、彼らの姿がかき消えた。まるでそれまで存在していなかったかのように、瞬く間に消えてしまった。驚きに息を呑み彼女は唇を震わせる。あまりに呆気なかった。呆気なくて、事態がすぐには飲み込めない。

 ゲートというのは目に見えないものなのか? それとも白く目映い世界のせいで見えにくかったのだろうか? 何度確認しても既に乱雲たちの姿はなく、彼女は呆然とその場に立ちすくんだ。彼がもうこの世界を出たのだと、ぼんやりとわかっているはずなのに気持ちが追いつかない。

「あちらも雪なのだろうか。区別がつかなかった」

 だがリョーダの呟いた言葉で、彼女は全てを理解した。ゲートの先に見えていた景色とこちらの景色がたまたま同じだったらしい。彼女は既に異世界を見ていたのだ。ゲートと呼ばれる空間の裂け目から、向こうの世界を。乱雲はそこへ一歩を踏みだしただけだった。

「ありか君、だったな」

 そこでリョーダが振り返った。背後からは帰ろうとする他の見送り人の足音が、風の音に混じって聞こえてくる。しかし彼女は動くことができずに、静かにリョーダを見上げた。リューと同じ赤茶色の髪が風に揺れている。間近で見た印象でも、話の通り優しそうな男性だ。

「はい、私がありかです」

「君たちの話はリューたちから聞いている」

 突然そう言われて彼女は息を呑んだ。彼が全ての事情を知ってしまったことを、理解するには十分な一言だった。無意識に握っていた拳を、彼女は上着に押しつける。諦めてくれとでも言われるのか、それとも謝罪が来るのか、何にしてもどう答えていいかわからず、彼女は必死になって思考を働かせた。答えるべき言葉を間違えれば、確実にこの男性をも苦しみの渦に突き落とすことになるだろう。

「ずっと君たちのことを考えていたんだ。もし、君さえよければ――」

「え?」

 けれども続く言葉は予想していたものとは違った。苦悩を秘めた瞳を見つめて、彼女は困惑に顔を歪める。もし君さえよければ、よければ何なのだろう? 鼓動がドクリと跳ねて、寒いはずなのに額に汗がにじんだ。期待と不安が入り混じり何が何だか自分でもわからなくなる。

「もし君が了承してくれるのなら、次の神技隊として君を派遣することができる」

 彼の唇は、静かに事実を伝えてきた。次の神技隊。彼女はその単語を何度も繰り返す。それが指し示す意味を飲み込もうとして懸命になったが、思考はついていってくれなかった。ぐるぐると回る頭はなかなかまともな制御を受け付けてくれない。ただ感情だけが先走りして、手のひらにも汗が滲んできた。

「次の、神技隊」

 だが深呼吸してよく考えてみれば、以前彼女も同じような結論に至ったことがあった。彼が行くなら自分も行けばいいと。そうなれば離ればなれにならないと。

「そうだ。今の神技隊だけでは違法者全員を取り締まることは無理だろう。遅くとも次の年には、新たな神技隊が派遣されるはずだ」

「そう、ですよね」

 違法者の数は予想していたよりも増加していた。この宮殿の規則に、閉塞感に、辟易していた者たちが多かったためだろう。異世界へ行けば何とかなると、幸せになれると思っている者はたくさんいた。もっと強い技使いなら行けるのに、とこぼしているのを聞いたこともある。

「このままでは乱雲君たちはこちらへ帰ってこられない。帰ってくるなと言っている上の者たちもいるらしい。彼らはゲートを、巨大結界への刺激を、極度に恐れているようだ。このゲートを管理できる者さえ少ないらしいしな」

 確かにリョーダの言う通りだった。このままでは乱雲たちは帰ってこられない。違法者を捕まえてもそれ以上に違法者が増えれば意味がなかった。それでは、乱雲に告げた言葉が嘘になってしまう。本当にただの気休めになってしまう。

「だから――」

「ですがリョーダさん」

 しかし彼女には以前と違う部分があった。一緒に行けさえすれば何とかなると、思っていられない事情があった。

「何だ?」

「もし子どもがいた場合は、どうなるんですか?」

「な、に?」

「子どもは一緒に連れていけるんですか?」

「ありか君、君はまさか……」

 ありかは唇を震わせた。彼女はもう一人ではない。それはほんの些細な、だが決定的な違いだった。異世界での仕事を考える上では、無視できない事実。

「私、妊娠してるんです」

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