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誰がために春は来る  作者: 藍間真珠
第二章
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第一話 約束

 夏の訪れを感じる日差しに、ありかは眉根を寄せた。窓から見える太陽は燦々と輝いていて、青い空にその存在を刻みつけているかのようだ。

 だが、それを見てもありかの気は晴れなかった。目の前の机に置かれた書類のことを思うと、どうも沈みがちになる。だから彼女は外を眺めてはまた部屋の中を見回し、それでもやはり気になっては書類に目を落とす、ということを何度も何度も繰り返していた。もちろん、そんなことをしても書類が消えてくれるわけでもなく、ただ時間だけが過ぎ去っていく。

「断ることなんて無理よね」

 仕方なく諦めて紙を手に取り、彼女は嘆息した。文面を目で追っていくと、予想通りの文言が表れる。リシヤの森への調査、五十日間。その日数を確認して彼女は再度ため息を吐いた。

 消滅したリシヤ、その周囲の空間が安定してきたのを確かめるために、誰かが派遣されるだろう。そんな噂を耳にしたことは何度かあった。そこに彼女が選ばれるだろうということも、それとなく予感はしていた。だが五十日というのは長すぎだ。

 リシヤの町が消え去ったあとには、ひたすら森だけが広がっているという。だが空間の歪みのせいで、普通の人間が立ち入れるような場所ではなかった。ただ技使いだけは別で、結界を体の回りに纏わすことができれば、足を踏み入れることができた。幾つかの動物も確認されているとのことだ。

 となれば、そろそろ調査が必要な頃だろう。どの程度空間が歪んでいるのか、一般人への規制はいつ緩めればいいのか。それを判断するのは宮殿の仕事だから、宮殿に住む者たちが見に行かなければならない。その場合、調査に行くのは十中八九結界などの補助系が得意な者だろう。そして地道な仕事の時に決まって駆り出されるのは、彼女のような下っ端の技使いだ。

「五十日は長すぎよ」

 彼女は簡素な紙を睨みつけた。五十日も乱雲と会えないのは辛いし、シイカを一人部屋へ残していくのも不安だった。できるなら断りたい。

 ここ数年、シイカの体調は思わしくなかった。よくなる時期もあるが季節の変わり目には悪化してしまい、治りきるに至らなかった。そのため乱雲と一緒になることもできず、彼女はシイカの看病と仕事で日々を追われている。

 そのせいだろうか、誰も彼女と乱雲との関係に気づいた様子がなかった。からかわれることも、いつパートナー申請を出すのかと聞かれることもない。気楽と言えば気楽だが少し寂しく思っているところだ。

「お母様を放っておくわけにはいかないし」

 彼女は紙を机の上に戻すと、背を伸ばして瞳を細めた。なかなか切りにいけず不揃いになった髪が、ゆるゆると肩口を滑り落ちていく。

 噂のことを耳にしているのか、シイカは最近ことあるごとに元気だと主張していた。確かにここ数週間彼女の体調はいい。次第に暑くなる時期なので心配していたが、今回ばかりは風邪をひくこともなく乗り越えていた。相談してもおそらく行ってこいと言うだけだろう。もっとも、仕事を断ることなど彼女たちにはできないのだが。

「乱雲、また寂しそうな顔をするわよね」

 けれども、もう一つの問題が残っている、乱雲の方だ。シイカがいることで彼と満足な時を過ごすこともできていない。いつか痺れを切らすのではと思っていたが、彼はただ優しく笑って待ってるからと言うだけだった。その度にありかはすまないと思っている。

 彼ともっと一緒にいたい。もっと素直に笑っていて欲しい。悲しい顔を、寂しそうな顔をして欲しくないのに、今は彼女がその原因となっていた。矛盾だなと思うのだが、それを理由に彼と離れるのも嫌だった。

「これ、何て言おうかしら」

 だから紙を見る度にため息が漏れた。拒否することはできないが、本当は行きたくない。なかったことにしたい。けれどもそれは消え去ることなく、彼女の目の前に存在している。

 上の命令は絶対、だろう? 謝る度に、彼はそう言って苦笑した。それを聞くと彼女は胸が苦しくなった。どうして二人はここにいるのかと、どうして全ては二人の邪魔をするのかと、いるのかどうかもわからない神に何度も問いかけたくなる。仕方がないと、どうしようもないと諦めていたあらゆる規則としがらみが鬱陶しくなる。だがそれを振り払うことは、彼女には無理だった。

「まあこうしてても仕方ないわよね。後でちゃんと言わなくちゃ。お母様にも、乱雲にも」

 ようやく彼女は諦め、立ち上がった。紙を折り畳むと懐にしまい込み、扉へと向かう。図書庫へ行って仕事でもして気を紛らわそう。そんなことを思いながら彼女は取っ手を手にした。それでも足取りが重くなることは、避けられそうになかった。




「五十日?」

 宮殿にある巨大な庭、その隅にあるベンチの上に腰掛けた乱雲は、予想通り顔をしかめてそう言った。隣にいる彼女は、小さく頷いて手元を見下ろす。そこにあるプレートには食事が半分程残されていたが、これ以上食べられる気がしなかった。空気が重くて喉を通らない。

「そうなの、長期の調査らしくて」

「今さら?」

「ええっと、たぶん安全確認のため、かしら。ほら、今はリシヤって全面的に立ち入り禁止でしょう? 実際は技使いは入れるんだけど。だから一般人は入れそうかとか、技使いならどこまで許そうかとか、そういうこと確認するんだと思うの」

 乱雲の声にはやはり棘があって、彼が心底嫌がっているのがありありとわかった。彼女だってこんなことを受け入れたくはない。だが上の命令を無視するわけにもいかないのだ。彼女は静かに瞳を伏せる。

「ああ、そういうことか。それにしても長いよな……」

「そうなのよね。お母様も一人にしなきゃいけないし、本当に憂鬱で」

 彼の言葉に相槌を打ってから、しまったと彼女は後悔した。乱雲の前でシイカのことを話題にするのは、できる限り避けてきていた。乱雲がシイカを疎ましく思っては困るとずっと努力していたのに、ついうっかり口を滑らしてしまった。

「シイカさん、最近調子いいんじゃなかったのか?」

 彼女が恐る恐る彼へと一瞥をくれると、訝しげな顔でそう尋ねられた。確かに、先日そんな話をしたばかりだ。思わず嬉しくて言ってしまったが、今になって少しだけ後悔する。まるでまだ心配しているのかと、彼に問いつめられているような気分になった。

「ええ、そうなんだけど。でも暑くなる時期だからちょっと心配で」

 彼女は微苦笑を浮かべながら肩をすくめた。でも気にかかるのは仕方ない。夏本番はこれからだ。他の町と比べて宮殿のあるこの辺りは涼しいが、それでも用心するに越したことはない。

「ありかは心配性だなあ」

「そ、それは乱雲もでしょう? この間も私がちょっと喉やられただけで、仕事早く切り上げてくるんだから」

「それは、まあ、そうだな。いや、ほら……そうだなオレもだな」

「でしょう?」

 しかしそう言い返すと、彼は視線を彷徨わせつつも首を縦に振った。そして苦笑しながらそっと右手を伸ばしてきた。肩を抱き寄せられた彼女は、驚いて彼を見上げる。

「悪い」

「え?」

「別に責めたいわけじゃないんだ。また会えなくなると思うと、ちょっと辛くて」

 そう言われると彼女も答える言葉がなくなる。仕方なくそのまま頭をあずけ、軽く瞼を閉じた。本当はずっとこうしていたい。できる限り近くにいたいし、寂しい顔をさせたくなかった。外回りの仕事はよくメンバーが入れ替わるため、彼には親しい友人が数人しかいない。だから彼が心を許せる場所は少なかった。

 いや、宮殿に住む者は誰でもそうだろう。誰もが競争相手になりうる中で、多くの者に心を許すことは危険だった。彼女だって同年代ではあまり親しい者がいない。だから彼と共にいる時間が、何より大切だった。

「ごめんなさい」

「謝るなよ。仕方ないことだろう?」

「そうなんだけどね」

「オレは怒らないから、だから謝らないでくれ。お願いだから」

 頭上から降り注ぐ彼の声は甘くて、彼女は静かに首を縦に振った。目を閉じると感じるのは彼の体温、声、そして風の音と花の香りだけだ。静かな庭には人気がなく、それが彼女を安心させた。ここを管理しているのはもの好きな夫婦だから、普段は誰も立ち寄らない。

 だからここは彼女にとっては憩いの場。急かされることなく昼食が取れる唯一の場所だった。そして最近では、乱雲とゆっくり話すことのできる、数少ない場所の一つだ。

「なあ、ありか」

 彼の手が肩から腰へと下りてきた。そしてそのまま強く抱き寄せられて、彼女は目を開く。すぐ傍にある彼の瞳は神妙な色をたたえていて、彼女は小首を傾げて瞬きした。

「乱雲?」

「ありかが戻ってきて、それでもし、その時シイカさんが元気だったら」

「だったら?」

「一緒にならないか?」

 間近から聞こえた言葉は、ずっと彼女が欲しかったものだった。けれども聞いてはいけない言葉だった。二年程前に同じことを言われて、そしてその時は無理だと断ってしまった誘い。それからずっと待たせていたのは彼女だ。そのことをいつも気に病んでいた。それを逃げられない状況で繰り返され、彼女はどうしたらいいかわからなくなる。

「……うん」

 けれども数秒後には、彼女はそう答えていた。息を呑んだ彼はほんの少し笑顔を浮かべると、額へと口づけを落としてくる。抱きしめられたままの状態で、彼女はまた目を閉じた。

 これ以上彼を待たせたくない。いや、彼女だってもう限界だった。この夏を乗り切ることができれば、シイカも大丈夫なはずだ。次第に仕事も減ってきているし、体力だって回復してきている。

 彼女は胸中でそう繰り返しながら、どこにいるともわからない神に祈った。全てが上手くいくように。誰もが悲しまないように。傷つくことなどないように。強い日差しの下で、彼女はそう願い続けた。

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