第1話
短編『夜に咲く華』を連載として掲載するにあたって、短編の方の話を第1話として掲載しています。
※遊女の話ですので苦手な方はご注意ください。
夜にしか咲かない花がある。真っ暗闇にだけ咲く魅惑の花。暗ければ暗いほど美しく扇情的にそして華やかに色香漂う。それは人を喰らう花。時に牡丹のように、時に水仙のように、それは見目形を変え人を魅了する。そんな華に魅せられて今宵もまたひとりの哀れな雄が光を求めやって来る。
「旦那、」
「おお、こっちに。早よう、近う来ておくれ」
遊女は目を細めて妖艶な笑みを浮かべた。ちらりちらりと見える着物の前を押さえる手はいっそ病的なほどに白く、美しい。華やかな衣装とは対照的に襟から伸びる首は白く無垢である。そして真っ赤な唇は艶やかに光る。早く早くと急かす男を遊んでいるかのように、一歩踏み出しては休み、また一歩踏み出しては休をとる。ゆるりとした動作の度になる衣擦れの音さえ男をひどく興奮させた。
ふわりと薫りが男の鼻に直接刺激をあたえるころには男と遊女の間には簪一本ほどの距離しかない。
「だんな、」
耳元で息を吐くように囁く声は男の体の髄まで痺れさせ男の中の獣を呼び起こす。目を細め、はぁ、と真っ赤な唇を濡らしながら濃密な息を吐くと男の喉がゴクリと上下に動いた。
「だんな…、」
するりと白い手を差し出すと男はゴツゴツとした浅黒い手で力強く掴み、酒の臭いが漂う息を吐いた。遊女は嫌悪感を体の奥底に隠し、うっとりとした表情を貼り付ける。黄ばんだ歯と分厚くかさついた唇。脂でギトつく醜い頬。何をとってもおぞましいその見目形。思わず鳥肌が立ちそうになる体を小さく震わせば男はなにを勘違いしたのか、
「そうか、そうか、かわゆいのぉ」
と、遊女のか細い体を力強く抱きしめる。胸がつまりそうなほど抱き締められれば息が出来なくなる。そっと男の胸元を押せば男は満足そうにその下世話な笑みを浮かべ、遊女を組み敷いた。遊女は冷めた瞳を天井に向け、小さく囁いた。
『さぁ、地獄の始まり始まり』
「ん?なにか言うたか?」
遊女の体に夢中になる男に遊女の囁きは届かなかった。
「いいえ、何にもありんせん。さぁ、旦那、早ようあちきを……、」
頭を横にずらし小首を傾げて甘い声を漏らせば、それが合図かのように男は遊女の細い鎖骨に噛みつくように顔を埋めた。荒々しく己の躰を貪る男はもはや何も頭にはない。理性などという言葉など初めから無かったかのようにただ本能のまま荒く濁った息を吐く。そんな男とは裏腹に遊女は自分の体と頭がひどく冷めていることに安堵した。熱く燃えたぎる眼は獣そのもの。ただこの浅ましく愚かな男の欲望を満たすためだけの自分の存在。なにも考えなくてよい。ただ悦びに頬を染め、瞳を潤ませ、躰を反らせるだけでいい。いや、そう見せるだけ。魅せる演技を。まだ私は穢れてはいない。まだ物の怪にとり憑かれてはいない。冷静な頭さえあれば大丈夫。あの愚かな同志のように抱かれることを悦んではいない。
ああ、わっちはまだ大丈夫……
顔を歪ませたくなるほどの荒い息と雄のニオイ。
ああ、おぞましい。この男が己の躰を、その情けない体で撫で回すなんて。ああ、吐き気がする。
「…だ、んな……、」
こうしてたまに声を出す。はっきりと発音するのではない。漏らすのだ。息だけで掠れる声を出せば男は悦ぶ。声を抑えて、抑えて、我慢できずに漏れた小さな囁きが男をさらに助長する。
なんて愚かな醜い生物。自我をなくし己の躰を食い尽くす雄たちを何度絞め殺そうかと思ったことか。太く短いその首を、この手で締め尽くせば、この男はなんと鳴いてくれるだろうか。醜い醜い蛙の潰れたようなそんな声にもならぬ悲鳴をあげてくれるだろうか。
遊女はパタリと投げ出していた手を自分を覆う男の首にゆっくりと近づけた。男は気づかない。
(あぁ、なんて醜い顔、)
(ああ、なんて醜い躰、)
(ああ、なんて醜い生き物、)
そぉっと伸ばした指先が男の首に触れるか触れないかの距離になった瞬間、遊女は突然意識を取り戻したかのようにハッとした。そして、男の体液の飛ぶ額を見て遊女はその冷たい手を伸ばすのをやめた。自ら雄に触れようだなんて……、考えただけでもゾッとする。
(あぁ、怖ろしや。危うく穢れるところで、ありんした……、)
いつまでたっても冷たいままの躰を必死に喰らう男に冷笑を浮かべれば、男は嬉しそうにまた荒々しい息と共に汚れのない胸元に喰らいつく。
ああ、なんと愚かな雄どもよ。ここにいるは人喰い花。美しい見目で餌をおびき寄せる。美しく着飾ったその姿、濃密な薫りを酔わせれば、男はふらりと吸いつく。細めた眼には誘いを、薄く開いた赤い唇には誘惑を、白い首は惑わしを、細い肩には艶麗を。体の全てが媚薬。一度吸えば逃れることはできない、怖ろしい麻薬。脳髄まで満たす雌の薫り。
さぁ、もっと。もっとその醜い姿を晒しておくれ。お前たちが醜くなればなるほどわっちは生きていられる。こんな意味のない世界で己だけが正常だと思える。
なにより異常なのは自分なのに。
さぁ、早く満たすがよい。お前たちのその愚かしい欲望を。
さぁ、早く喰らえばよい。美しく咲いた花に潜む毒汁を。
『ふふ、旦那、もっと、やさしく・・・・・・』
お前たちはもう、逃れられない。