第60話:二度目の人生、最高の特等席(最終話)
初夏の澄み渡る陽光が、見渡す限りの青空から降り注いでいた。
都心を離れ、海と街並みを一望できる小高い丘の上に吹き抜ける風は、若葉の青々とした薫りと、微かな潮騒の香りを運んでくる。
その緑深き丘の頂に佇むのは、周囲の自然と溶け合うように建てられた、瀟洒な洋館。
深い飴色のアンティーク古材と、漆喰の柔らかな白壁。手入れの行き届いた前庭には季節の花々が咲き誇り、風が吹き抜けるたびに、アイアン細工の吊り看板が心地よい音を立てて揺れていた。
看板に真鍮の文字で刻まれているのは――『Noir et Blanc』。
あれから、数年の月日が流れていた。
かつて帝国グランドホテルの式場で悪夢の因縁を断ち切り、海辺の古い別邸で互いの魂の傷跡を分かち合ったあの日から。
私たちは二人でこの土地を見つけ、長い時間をかけて、誰の真似でもない、私たちの「生きる場所」をゼロから創り上げたのだ。
一階は、黒木蓮がマスターを務める洗練されたアンティークサロン&喫茶。
百年を超える歴史を刻んできたヴィンテージのカウンター、蓮自身が修繕を施したレザーとベルベットのチェア、そして壁一面に並ぶ美しいアンティークのカップ&ソーサー。
昼は厳選されたスペシャリティコーヒーと手作りの焼き菓子を求めて遠方からも客が訪れ、夜には会員制のバーとして、本物の静寂と美を愛する人々が静かにグラスを傾ける。
そして、二階。
吹き抜けの広々とした空間は、私――真壁栞が主宰する空間デザインとハンドメイドのアトリエ工房となっていた。
壁一面に整理された、日本各地の伝統工芸の織元から直接買い付けた手紡ぎの麻布や絹糸。
中央の大きなオーク材の裁断台では、複数のスタッフたちが真剣な眼差しで布地に向き合い、窓際からはカタカタとリズミカルな手織り機の音が心地よく響いている。
「真壁先生、こちらの新しいリゾートホテルのロビーラウンジのパース図、図面修正が完了いたしました!」
「先生、秋のパリ・コレクションに合わせて出展するタペストリーの染色見本、京都の工房から届いています!」
スタッフたちの明るく活気に満ちた声が飛び交う。
私はデスクから顔を上げ、手元に広げられた図面を指先でなぞりながら、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。確認するわね。色味のグラデーション、自然光の角度に合わせてあと数ミリだけ調整を入れておいてちょうだい」
かつて、妹のゴーストライターとして日陰に閉じ込められ、自分の名前を名乗ることすら許されなかった私。
だが今、この場所で生み出されるすべての空間、すべての布地、すべてのステッチには、正真正銘の『真壁 栞』という誇りある名が刻まれていた。
――パタパタパタッ。
その時、一階から軽快な足音を立てて階段を駆け上がってくる影があった。
「やあやあ、先生! 朗報中の朗報を持ってまいりましたよ!」
現れたのは、仕立てのいい上質なサマースーツを軽やかに着こなした青年――佐久間湊だった。
その手には、海外の航空便で届いたばかりの、金箔の刻印が燦然と輝く重厚な賞状バインダーが握りしめられていた。
佐久間は現在、私たちの複合アトリエ『Noir et Blanc』の専属プロモーター兼デジタルディレクターとして、国内外のアートフェアやデザインコンペティションへの出展を統括してくれていた。
「佐久間さん、また走って……転びますよ」
私が苦笑すると、佐久間は眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、得意げにバインダーを私のデスクの上へと広げてみせた。
「転んでる場合じゃないって! ほら、これを見てよ!
先月ミラノで開催された国際空間デザインアワード――栞ちゃんのデザインした『古材と刺し子の瞑想空間』が、審査員満場一致で【年間最優秀グランプリ】を受賞したよ!」
「グランプリ……!?」
周囲のスタッフたちから、一斉に歓声と拍手が沸き上がった。
「それだけじゃないぞ」
佐久間は悪戯っぽく笑い、手元のタブレットをスクロールしてみせた。
「東都広告の津田さんからもさっき直通の電話があってね。『伝統工芸リブランディングの次期プロジェクト、国家規模のエキスポ日本館の統括プロデュースを正式に真壁栞事務所へ依頼したい』ってさ。来年の秋まで、スケジュールが完全に埋まったよ」
「まあ……津田様から……」
私の胸の奥に、じんわりとした温かい熱が広がる。
かつて、航太が社内の金を横領して買い漁っていたような、虚構のフォロワー数やステマのコメントなど、ここには一文字も存在しない。
ただ愚直に、誠実に、素材と向き合い、技術を磨き、人の心を動かす本物の美を紡いできたことへの、世界中からの正当なる評価。
数字に踊らされ、見栄のために他人の才能を盗み続けた者たちには一生涯届かない、確固たる現実の手応えがそこにあった。
「ふふ、佐久間さん、本当にありがとうございます。スタッフのみんなも、本当にお疲れ様」
私が頭を下げると、佐久間は満足そうに頷き、一階へと親指を向けた。
「お礼なら、下でずっとソワソワしながら時計を見てる旦那さんに言ってあげなよ。お昼の営業、そろそろ落ち着いた時間だろ?」
時計を見れば、針は午後二時半を回っていた。
ランチタイムの喧騒が去り、カフェの営業が一息つく時間帯。
「そうね。少し、休憩をいただきます」
私はネイビーのリネンのエプロンを外し、ハンガーへと掛けた。
スタッフたちに会釈をし、階段を降りていく。
一階へと降りると、磨き抜かれたアンティークの空間に、心地よいアールグレイの芳醇な薫香が満ちていた。
大きなガラス扉の向こう、テラスへと続く出入り口の前に――長身の男が、トレイを手にして立っていた。
黒木蓮だった。
仕立てのいい黒のベストに、腕まくりをした白いシャツ。
彫りの深い端正な顔立ちをこちらへ向け、私と目が合った瞬間、その切れ長の瞳が優しく細められた。
「……終わったか」
低く、甘く、胸の奥深くまで響く蓮の声。
「ええ。佐久間さんから、ミラノの吉報を聞きました」
「ああ、俺も聞いた。……よくやったな、栞」
蓮は私の元へと歩み寄ると、空いた左手で私の頭を優しく、愛おしげに撫でた。
その骨太の指先が私の髪に触れるたび、どんな過酷な冬の記憶も溶けて消えていくような温もりが胸を満たす。
「テラスへ行こう。風が気持ちいいぞ」
「はい」
二人で並んで、ガラス扉を押し開けて外へと出る。
丘の突端に張り出すように設えられた、木製のプライベートバルコニー。
眼下には、青く煌めく太平洋の海原と、初夏の木々の緑、そして遠くに広がる街並みが、まるでパノラマ絵画のように果てしなく広がっていた。
そこは、この建物を建てる際、蓮が私のためだけに設計してくれた、世界でたった一つの【特等席】だった。
テーブルの上には、手縫いの白いレースのクロス。
蓮がトレイから降ろしたのは、湯気を立てる二客のアンティークカップと、小皿に盛られた焼きたてのスコーン。
ベルガモットの爽やかな香りが、初夏の風に乗ってふわりと鼻腔をくすぐる。
椅子に腰掛け、カップを受け取ろうとした私の左手。
その薬指の付け根で――カシミール産の深いロイヤルブルーのサファイアを抱いた、あの蔦の彫刻のアンティークリングが、太陽の光を浴びて青い星のように瞬いた。
そして、カップをテーブルに置いた蓮の左手薬指。
そこにもまた――サファイアの台座と同じ銀の蔦の文様が刻まれた、蓮のために私が打った銀のペアリングが、同じ輝きを放って重なり合っていた。
指先が微かに触れ合い、蓮が穏やかな笑みを浮かべて私の向かいの席へと腰掛ける。
「美味いな」
紅茶を一口含んだ蓮が、満足そうに目を細めた。
「ええ。黒木さんの淹れるアールグレイは、世界一ですわ」
他愛のない、けれど何ものにも代えがたい至福の会話。
ふと、テーブルの端に置いていた私のスマートフォンが、小さく短く振動した。
画面にポップアップ表示されたのは、自動配信されている全国ニュースポータルアプリの、ローカル社会面のトピックスだった。
何気なく視界の端を掠めた、二つの見出し。
――『地方都市の簡易宿泊施設で孤独に暮らす元インフルエンサー女性の困窮:過去の炎上劇の代償と内職に追われる日々』。
――『横領と多額の借金返済に追われ、建設現場の日雇い労働を続ける元大手代理店社員の現在』。
写真には、かつて美貌を誇っていた面影など塵芥も残さず、ボサボサの髪を輪ゴムで束ね、薄汚れたジャージ姿で俯く女の横顔。
そして、泥にまみれた作業着を着て、借金取りの影に怯えながら重い資材を運ぶ、無精髭の男のやつれた背中。
さらに、記事の片隅には――かつて競売で差し押さえられた実家を追われ、人里離れた山奥の納屋で親戚の蔑視に耐えながら暮らす元主婦と、北関東の物流倉庫のプレハブ宿舎で孤独死を恐れながら段ボールを運び続ける老人の末路が、淡々と事実だけを記されていた。
自業自得の果てに、自らが撒き散らした毒によって永遠の暗闇へと沈んでいった、かつての復讐対象たち。
「……」
私は――その画面に、視線を留めることすらも、しなかった。
指先を伸ばし、スマートフォンを静かに裏返しにして、伏せた。
胸の中に、怒りは湧かなかった。
嘲笑も、勝利の優越感すらも、湧き上がらなかった。
哀れみすらも、もう何一つとして存在しなかった。
あるのはただ――冬の海の底のように澄み切った、絶対的な【無関心】。
あいつらが今、どこで誰に罵倒され、どんな泥水をすすって生きていようと、私の人生にはもう一ミリたりとも関係のないこと。
憎悪に囚われているうちは、まだ相手に心を奪われているのと同じだ。
だが、相手の存在そのものが記憶の彼方へと風化し、路傍の小石や風の音ほどにも心に響かなくなった時こそが――人間が到達し得る、完全なる復讐の完了であり、真実の精神的勝利なのだから。
スッ……と。
背後から、温かな気配が近づいてきた。
蓮が席を立ち、私の背後へと回り込んでいたのだ。
彼の逞しい両腕が、私の華奢な肩を包み込むようにして、ふわりと優しく抱き寄せてくる。
首筋に触れる、蓮の温かな吐息。
深い白檀の香りと、確固たる心臓の脈動。
蓮は耳元に唇を寄せると、低く、甘やかな声音で囁いた。
「……何を考えてる?」
蓮の切れ長の瞳が、伏せられたスマートフォンを一瞥することもなく、ただ私だけを真っ直ぐに見つめていた。
彼にとってもまた、あの過去のゴミどもなど、遠い過去に片付けた瓦礫に過ぎないのだ。
私は背筋を伸ばし、振り返って、蓮の目を真っ直ぐに見つめ返した。
そして――。
私の顔に咲いたのは、これまでの人生で一度も見せたことのない、満開の、一点の曇りもない笑顔だった。
「ううん、何でもないわ」
私の声は、初夏の風のように清らかに、澄み渡って響いた。
「ただ……ここから見える景色が、世界で一番綺麗だなって思っていたの」
一度目の人生。
冷たい雨が吹き荒れる中、妹に突き落とされ、頭部を石畳に叩きつけられて命を絶たれた、あの暗く狭い非常階段の踊り場。
家族に搾取され、婚約者に裏切られ、日陰の召使いとして見下ろされていた、あの屈辱の場所。
けれど――二度目の人生で、私はすべてを譲ってあげた。
妹が欲しがった名声も、エリートの婚約者も、豪華絢爛な結婚式も。
相手の底なしの虚栄心に餌を与え、自らの手で首を括らせるための特等席を、そっくりそのままくれてやった。
そして――私は。
誰のお下がりでもない、自分自身の才能と誇りを取り戻し。
魂の傷跡を分かち合える最愛の人と共に、この丘の上の、誰にも侵されない真実の幸福の場所へと辿り着いたのだ。
作品のタイトルが、私の胸の奥で、鮮やかな光となって結実する。
『お下がりばかりの人生でした――二度目はすべて譲ってあげます、破滅への特等席ごと』。
あいつらには、永遠に抜け出せない破滅の特等席を。
そして、私には――愛する人と共に生きる、この最高で、最上の特等席を。
「……そうだな」
蓮の口元に、眩しいほどの笑みがこぼれた。
彼の手が伸び、私の頬を包み込む。
引き寄せられる顔と顔。
木漏れ日が揺れるバルコニーの上で、二人の影が重なり合い、唇が、熱く、優しく、永遠の誓いを交わすように重ね合わされた。
青空の下、初夏の心地よい風が吹き抜けていく。
丘の頂に立つ洋館の軒先で、真鍮の看板が、カランと幸せな音を立てて揺れていた。
『Noir et Blanc』。
黒と白。
闇を越えて、光へと還った二人の物語。
奪われ、踏みにじられた少女が、自らの足で掴み取った二度目の人生は――今、誰にも奪われることのない最高の光の中で、一点の曇りもなく、美しく幕を閉じた。




