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机上の地球

作者: 川崎真人

 印刷された記号の配列は、生徒に問題を提示している。生徒はペンの先端を使って、解答を記入しなければならない。

 三十八本のペンは、一心不乱に用紙の上を踊っている。これまでは年に一回だった学力テストも、三年生になれば月に一度のペースで実施されている。辟易しつつ、しかし生徒達は紙切れ一枚に全力を注ぎ込む。そういうことになっている。

 窓際、最後尾の席に座る女生徒が、鉛筆を置いた。心地の良い音が反響するが、気にかける生徒は、居るはずも無かった。

 女生徒は眠たげに目を擦った。ニアミス防止の為の見直し等、彼女の頭には浮かばなかった。

 三十七本のシャープペンシルが、乾いた音を奏でる。聞く物によって不快にも安心にもなるだろう音は、女生徒にとっては雑音でしかなかった。と言って、耳を覆ったり逃げ出したりする程の不快音ではなく、電車に乗れば車輪の走行が空気中に漂い、耳朶に触れるような、そんな当り前の雑音だった。

 窓から灰一色の空を眺める事に飽き足りた女生徒は、退屈を持て余し始めた。前の席に座る山形を見ていても、面白く無い。

山形の目は血が走っていたし、頭の血管は浮き上がっていたし、鼻には油が浮いて、眉間には皺がより、歯は軋む程噛み締められている。

 普段柔和なはずの山形が、テストと言うだけで鬼の如き表情を作っている。女生徒は、それが恐ろしく、下を向いた。其処には、印刷された文字と、自分の書いた文字がそれぞれ並んでいる。

 山形を鬼に変えてしまう邪気を持ったテスト用紙が恐ろしく、女生徒は二つに畳んで机の端に除けた。

 何か、他の事を考えよう。女生徒は昨日読んだ小説の事を思い出す。とても、面白い話だった。無関心で無感動な彼女にとって、一つの物語に心を惹かれる事は非常に珍しい。彼女はその小説を一生大事にするつもりで居た。

 女性徒は定規と鉛筆で、筆圧を込めず、縦に線をひいた。縦線と垂直になるように、中点から線を引いて、上下で対応するように横線を引きまくった。その際、真ん中の線が一番長く、端の線が一番短くなるようにした。

 それらの線の先端を基準に、筆圧を込めて横長の楕円形を描いた。円周と縦線の交点から交点へと、曲線を引きまくり、緯線とした。経線は横線で、楕円形は地球だった。

 女性徒が描いたのは、世界地図だ。この書き方は面積が正確に表現され主に分布図等に利用される、と社会の教科書には書いてあったと彼女は記憶している。

 目測で日本を書く。大雑把に、北アメリカ州、南アメリカ州、オセアニア州、まで描いて、右よりに書きすぎた事に気が付いた。描き直す手間を嫌った為、アジア州、ヨーロッパ州、アフリカ州はやや小さく書いた。

 チャイムが鳴り響いた。夢中になって居た女性徒は、その音に反応して体を振るわせた。万歳や残念の言葉が教室に満ちて、テスト用紙が回収される。

 次の三時限目は社会科だ。机の上の地球を残しておけば問題になるが、消しゴムと言う悪魔を償還して、地球を消し去ってしまう事は、絶対にしてはいけない事のように思われた。女性徒は地球を守り抜く決心をして、『消さないで』と地球の右下に書き込んだ。

 

 「国語が九十六点で英語が八十八点だ。どうだい、実力テストで、この点数は中々取れないんじゃないかな?」

 藤堂寧の問いに、風間正春は幸せそうな顔で答えた。テスト返却の度に、彼等は互いの点数を訊いては一喜一憂していた。

寧にとって、正春に勝る事が、最も大切だった。成績表で学年全体での順位を示されても、漫然とした思いしか沸いて来ない。それならば親しい相手と競った方が、刺激も有る。

 切磋琢磨と言う奴で、寧の成績は下位から中の上辺りにまで上昇した。両親も喜んで、寧は得意だった。

 「おまえの国英が優れている事は分っている。他の科目はどうだった?」

 正春は極端な文系だがしかし、九十六点は取りすぎだと、寧は思った。

 「君は、僕の点数が低い事を望んでいるね。まったく、相対的に自分の評価を上げる為、他人の失敗を願うのは小物だ」

 「うるさい。俺は小物で結構だ」

 「僕は小物を否定しては居ないけれどね。寧ろ、自分の能力に囚われずに幸福を望む事は、立派だと思う」

 「あっそう」

 寧は、正春の点数が知りたいだけである。正春は国語が得意だが、数学や理科は大の苦手だ。自分に勝機があるならば、そこに付け入るしかないのだ。

 「言っておくけれど、今までの僕だと思うなよ。何なら、賭けてもらおうか?」

 「何を?」

 「欲しい本があってね。奢ってくれ、二千三百円だ」

 中学生にとって、千円を超える買い物は苦しい。

 「俺が勝ったら、同等の物を頂くぞ」

 「勿論だとも」

 正春は口元に拳を当てて、山賊のように微笑んだ。

 寧が了承したのは、勝つ自信が有ったからではない。唯、勝敗を決するだけの競争に、飽きを感じていたからだった。賭博とは、如何にも刺激的では無いか。法律で規制されていると言う事も、背徳的で良い。

 「僕の点数は、数学は三十七、理科が四十一、社会が五十六点だ」

 一瞬、寧はその場でずっこけようかと思った。

 「何時もよりずっと酷いんじゃないのか?」

 「ああ、そうだ。だから言ったじゃないか、今までの僕だと思うなよ?」

 どうやら正春も、勝つつもりで賭けをしかけた訳では無い様だった。それにしては、二千三百円の賭けは、大袈裟な話である。

 「えっと、百八十四と五十六、二百四十に八十八……三百二十八点。うげ、ちくしょう」

 「それが僕の合計点数だね。本当に君は計算が速い。さて、君の合計得点は?」

 正春の合計得点を間違えて計算する事も、自分の点数を誤魔化す事も、寧には出来る。しかし、寧はどうしても嘘が苦手だった。

 「三百二十七点だよ、糞。悪意を感じる」

 正春は、寧を指差し笑った。その仕草は腹立たしかったが、それにしても一点差である。正春の事だ、どうにかして自分の点数を盗み見たのでは無いだろうか? それならば、二千三百円の勝負を仕掛けて来た事も理解できる。受けてしまった寧も寧であるが、後の祭りと言う奴だ。

 仮に寧の見立て通りだったとしても、点数で負けた事には代わりは無い。寧は歯を軋ませて悔しがった。正春は愉快そうに

 「じゃあ放課後、電車で書店に行こうじゃないか。今日は職員会議のお陰で速く帰れるし、時間はたっぷりある」

 「地元ですませろよ」

 「はは、高価な専門書だよ。近くのヘボ本屋で売っている訳、無いじゃないか」

 寧が思いを巡らせると、とある古本屋が頭に浮かんだ。正春に連れられて、寧は何度か行った事がある。あの古本屋を表現するならば、小汚い、の言葉しか浮かばない。古本屋の癖に、定価以上で売られている本がある事にも、寧は首を捻っていた。

 正春は間違いなく変人だ、と寧は考えていた。大して頭も良くない……俺と同程度のはず、と寧は思う……癖に、やたら難しい本を好む。

正春の本棚が思い出される。それは目眩がするようなタイトルの山だ。そのジャンルは多岐に渡り、あっちに地学、こっちに医学、向こうには哲学の本があった。

 正春は広い教養を持ちたい等とほざいていたが、寧にはただ飽きっぽいとしか思えない。おそらく、殆どが読みきっていない本なのだろう。少なくとも『科学の全てを理解する』を読んで、理科の点数が四十一点と言う事は無い筈だ。

 おそらく自分が買わされるのも、知識と教養などではなく本棚の飾りなのだろう、と皮肉は口にしなかった。

 「よう、変人コンビ」

 やや低い声の方を向くと、柔和に笑んだ男が立っていた。頭の引き出しを開くと、山形と言う名前が飛び出して来た。寧は山形の特徴リストに『失礼な男』と書き足した、俺は変人じゃない。

 「山形君、調子はどうだい?」

 正春は変人呼ばわりを、むしろ清く思っているような様子で、呼びかけに応じた。自身を変人呼ばわりされた事よりも、寧を変人に巻き込んだ事に調子を良くしたのだろう。

 正春も変人だが、その正春とつるんでいる自分も、相応に変人なのかもしれない。その発想に行き着くたび、寧は考えを取り消していた。まさか、俺は少しばかり人と話すのが苦手なだけだ。正春くらいしか話せる相手が居ないのは、俺も正春と同様の変人だからでは無い。

 「俺の調子か? 散々だ」

 山形は肩を竦めた。テストの点数の事を訊かれていると、直ぐに理解した様子だ。それは現在、テストが山形の頭の大部分を占めていると言う証拠だ。さもなければ、凄まじく察しの良い男なのだろうが、それは無いだろう。

 テストの事で俺達に話しかけて来たのでは無いか、寧は考え、直ぐに確信した。

 正春は山形に応じる。

 「僕はまあまあだったよ。まあまあだったと、僕が言うのは、僕が僕の点数をまあまあだと判断したからだ。能力差が如実に現れるテストでは、各々が自分の基準を持って点数を判断すべきなんだ。じゃなきゃ、不必要に落ち込んだり、能力を伸ばしきれなかったりしてしまう」

 「ああ、そうだな」

 山形は生返事を返した。

 やはり正春は変人だ。言動が意味不明で変人のそれだから、正春は変人なのだ。違いない。

 「同様に、他人の点数を知る必要は無い事が言える。他人の点数とは、平均点を構成する要素の一つ、即ち、全体の基準の一部だ。それに拘る事を、愚かしいと思わないか?」

 ああ、其処に持っていくのか。寧は素直に感心したが、直ぐに打ち消した。正春は自分の成績順位を見ては『何人が自分より劣っているかを考えると、ぞくぞくしないか?』等とほくそえむ人間なのだ。山形に説教が出来る身分では無い。

 「良いじゃんか。渡部ってば、おまえが訊かなきゃ何も言わないんだぜ」

 山形が口に出した名前に、寧は反応したが、口には出さなかった。

 渡部早子は稀に見る秀才だ。テストは全て満点、当然、順位にして一位である。正春は直感視能力という単語を半端な知識から引き出して来て長いだけの説明をしてくれたものだが、ともかく早子はクラスでも特別な存在だ。

 当然、皆がその点数を知りたがる。今回も満点だったかどうかを知りたがった。しかし、早子も正春とは違った意味の変人で、何を訊いても反応が無い。

 成績トップでそこそこ美人である早子をかまう者は、決して少なくなかった。しかし早子は、声をかけても空を見続け、体に触れれば怯えた顔で席を立つ。その内皆、早子の事を諦めるようになった。そう言う女だ、相手にしないで置こう。

 それを、凄まじい根気で口説き続け、興味を引く事に成功した勇者こそ、風間正春に他ならない。まったく、どんな方法を使ったのか寧には見当がつかない。

 それから、正春は早子の点数を知る為の仲介を勤めるようになった。最初の方こそ、自分で口説き落とした早子を自慢したくてなのか、嬉々として応じた正春だったが、最近ではあまり清く思っていないらしく

 「テストの点数なら、自分で早子に訊いてくれ。僕は知らない」

 と突っ撥ねた。

 スパイの如き役割に嫌気が差したのかも知れない、寧は大雑把な推測をした。正春はどうしようも無い男だが、その癖、自分なりに正義の基準を持っている。

 その基準を自分に都合の良いように利用するから、正春はどうしようもない男なのだ。寧ほど、正春の屁理屈に付き合わされている人間は居ない、身に染みている。

 「しょうがないな、諦める。それより、これを見てくれよ」

 山形はしつこく正春に言い寄る事はせず、話を変えた。山形は少し歩いて、窓際最後尾の机を指差した。

 それを受けて、正春が質問する。

 「山形君、君の机かな?」

 「そうだ」

 机の上には、濃い鉛筆で世界地図が描かれ、その右下に『消さないで』と同じ濃さの鉛筆で書かれていた。世界地図は、国の配置こそ精確だが、不器用な人間が描いた様に歪だ。

 「これは、早子の字じゃないかな? 寧」

 寧は黙ったまま首を縦に振る。正春は『消さないで』を見つめていた。

 「ふむ、確かここは、テスト時の、早子の席じゃなかったかな」

 テストを行う時、生徒は出席番号順の席に座り直す事に成る。不正を少しでも抑える為であろうと、寧は推測していた。

 テスト中、出席番号が三十八の早子は、廊下側最前列から数えて三十八番目のこの席に座る事になる。そして、早子が山形の席に座る機会は、その時くらいしかない。ならば、世界地図はテスト中に描かれたのだろう。

 「だったら、これは不正に成らないか?」

 山形も察したようで、怪訝そうに首を傾げた。テスト前、教科書の世界地図を机に写して置けば、かなり有利だろう。

 「早子なら、そんな事をする必要は無いんじゃないか?」

 寧は自分の考えを述べた。

 「いいや、今までの点数も不正で取ったのかもしれないぜ」

 と、山形が反論すると

 「仮に不正があったとして、今まで発覚しなかった。それは、不正が巧みに隠されていたから。早子にはその技量があった事になる。今回に限って、地図を消し忘れるなんてヘマはしないだろう。それに、地図一つで満点なんか取れやしない。よって、早子は不正をしていないと考えられる」

 と、正春はあくまで理屈で言葉を返す。

 そう言う問題じゃない、寧は思った。早子は点数には無関心だし、そもそも不正が出来るような性格では無い。頭にバカが付くほど正直で、純粋な女の子の筈だ。少なくとも、寧はそう思う。

 なぜ、誰も早子の人格を見ないのだろう。山形はともかく、正春は早子の事をある程度理解しているはずだ。早子なら、不正等犯すはずないと、分っているはずだ。

 正春は、早子の理解者ではなかったのだろうか? なんで、理屈しか返さないのだろう? 

 「なぜ、早子は『消さないで』と書いたと思う?」

 正春はあげつらう様に言った。

 「分るのかよ?」

 山形の応答に、正春は派手に口元を押さえ、信じられないとでも言いたげにのけぞった。

 「以前から思っていたのだけれど、君は知能において人に劣るのでは無いだろうか? あえてこの言葉を選ぶけれど、君はバカなんじゃないだろうか? 『消さないで』と書いてあるのは、消さないで欲しかったからに決まっているじゃないか。消さないで欲しかった理由を求めなければならないとの質問を摩り替え、それは考えすぎと言う奴だ。バカに良くある思考の迷妄だ」

 「止めろよ、正春」

 寧は慌て、正春の言動を制した。寧は小刻みに頭を下げ、山形に謝罪する。

 「こいつ、調子に乗ると思っている事を全部口にするんだよ。腹が立つと思うけど、そう言う奴なんだ」

 恐縮しながら、寧は正春を肯定しているとも取れる言葉を吐いた。

 「いいよ。別に、俺はどうせバカさ」

 「本当にすまない」

 結局、謝罪こそして弁解しないまま、寧は正春を引っ張って去って行った。これ以上、正春に喋らせるのは不味いと思ったからだ。

 「少々止めるのが遅かったんじゃないかな。君の所為で山形はカンカンだ」

 「分っていたのなら自分で口閉じろ」

 「ははは。誰かをあげつらって怒らせるのは大好きなんだよ」

 正春は未だ、幸せそうな顔をしていた。

 「さっきの話には続きがある。聞いてくれないか?」

 「結論だけ言え」

 「いいとも。山形はね、どうしても、早子が不正をしたと言う事にしたかったのさ」

 「あらそう」

 そんな事をわざわざ立証して何になると言うのか、楽しいと言うのだろう。正春は常に正義の立場で胡坐をかき、小悪党をいたぶって楽しむ様な人間だ。最悪の正義とでも形容しようか、言える事は、正春の性格はすごぶる悪い。

 しかしながら、寧は正春を叱責する事はしなかった。正春の放つ毒舌と屁理屈と嘘八百の嵐には勝てないだろう。何より、寧自身、正春のお陰である程度の爽快感を得ている。

 別に、山形の事が嫌いなわけではない。しかし、早子が不正をしたかのように言っている事は不愉快極まる。正春も、腹を立てていたのでは無いだろうか?

 当然ながら、正春の言動はガキっぽく非常識だ。しかし、正春と同程度にはガキの寧は、それを嫌っていなかった。

 だから、俺は正春と一緒に居るのだろう。寧はそう考えて、不愉快になった。

 「じゃあ、早子に点数を訊きに行かないか? 多分、今回も五百点満点だろうけれど」

 「嫌なんじゃないのか、そう言うの?」

 「嫌じゃあないさ。早子の点数に興味は無いけれど、山形が知りたがって知らない事を、僕が知りたくも無くて知っていると言うのは、面白いじゃないか」

 正春は本当に嫌な奴だ。思いつつも、寧は

 「そうだな」

 と返答をした。その時チャイムが鳴って、一時限目の授業が始まる。

 

 「点数? 点数って何の?」

 「テストさ?」

 「テスト? 何のテスト?」

 「全てさ」

 「小学一年生の頃最初に受けたテストは国語なんだけど、鉛筆の使い方が分らなくて零点で、お母さんに叱られた。次のテストは算数で」 

 「ああ、いや。一番最近のテストの事だ」

 早子と正春のやり取りを見ながら、寧は自分について考えた。

 寧は正春と気が合う。悲しいかな、それは認めざるを得ない。そして最近、寧の言葉を早子は受け付けるようになった。正春が計らってくれたお陰である。

 即ち、寧は、正春と早子と言う二人の変人とある程度関わっているという事だ。そして、クラスメイトの殆どは正春や早子と関わろうとしない。それは、クラスメイト達がまともだからだ。逆説、二人の変人と関わっている自分は、まともでは無いと言う事にならないだろうか。

 「英語の、問一で二点、問ニで二点、問三で二点、問四で」

 「合計得点を聞かせてくれ」

 「何の? 合計? 何々? 合計って?」

 「全部だよ、君が一番最近に受けた実力テストの全て」

 「ああ。合計得点を全て言えば良いのね。英語の知識・理解が三十一点。技能・表現が四十三点、言語・読解が」

 このまま点数の詳細を諳んじて見せるのだろう。凄い記憶力だ。寧は思いながら、正春の間に入った。

 「今度、君の成績表の、合計得点と書かれた部分に載る値を教えてくれ」

 「四百九十七」

 寧は得意そうに正春を見た。正春は納得のいかないような顔をしている。

 理屈は全てを説明するが、簡単に説明すると言うわけではない。理屈では伝え難い物は幾らでもある。

 理屈で凝り固まってはいけない。時には工夫を凝らさなければならないのだ。そう思い、寧は面白かった。

 「四百九十七点か、どこを間違えた?」

 調子に乗った寧が尋ねると、早子は目を回しながら口の中で言葉を転がす。

 「どこ間違える? よんひゃくきゅうじゅうなな、てん? てん、点、天、店、転展典添填顛辿纏甜槇? どこどこ、間違えるなに? どこ?」

 困った、本気で混乱しているようだ。寧は思い、後頭部を爪で引っ掻き回した。

 「君はバカだな。ちゃんと、対等な情報を持たせて会話を進めなければならない。『値を教えて』と訊いたら、そりゃ答えるだろうさ。しかし、早子にしてみれば、何の値を教えたのか、なぜ教えたのか、分らないだろう?」

 「……む」

 寧は閉口せざるを得なかった。

 「君は焦り過ぎだよ。まったく」

 正春は息を吐く。寧は思った。やはり、自分は変人では無いのだ。正春のように、早子を上手く扱える訳ではないのだ。

 「前に話したときはもう少しスムーズだったのに。これじゃ悠長すぎて、その日の晩飯を訊くのに次の日の朝までかからないか?」

 「かからない。ちゃんと手順を踏んで話をしていれば、早子の意識も会話に移行する。早子は、人より頭の使い方が極端なだけだ」

 もう自分は関わらない方が良いだろう。早子の覚醒は、正春に任せる事にして、寧は考える。

 自分は今、早子の事を変な奴だと思っているが、果たしてそれは正しいのだろうか。早子は確かに、正春の言うように頭の使い方は極端だ。しかし、それは個性の範疇に収まるはずだ。正春はガキで、山形はバカで、早子は頭の使い方が極端だと、それだけの話なのでは無いだろうか?

 屁理屈だ。寧は思った。個性でも、一定以上特殊な個性なら、それは変な個性、と言える。程度の問題だ、少しでも違った所を持っていれば変だと言うなら、皆が変だという事になってしまう。

 しかし、どの程度特殊な個性を持っていれば変とみなされるかと言えば、それは各人が基準を持っている。そして、多数がそいつを変だと認めたら、そいつは客観的に変と見なされる。

 寧は思った。問題は、早子に変のレッテルが貼られたか張られていないかではなく、本当に俺は早子の事を変だと思っているかどうかだ。俺の基準が、早子を変と見なすかどうかだ。

 考えている内に、早子は覚醒を終えた様である。覚醒前と何が違うかと言うと、目の焦点が合い、口が閉じられていて、首が直立している。正春は得意げだ。

 「テスト四百九十七点だってね、相変わらず凄いな」

 寧が言うと、早子はこちらを向いた。

 「そう、だね」

 言いながら早子は首を傾げる。あんな簡単な問題を解く事に、凄いも何も。との独白が伝わってくる。心中相手を嘲っているのではない。彼女としては極めて純粋な疑問なのだ。

 言葉と思考が相違するのは、駆け引きが出来ているという事だ。なるほど、今の早子とならば話が通じるはずだ。寧は考え、安堵した。

 「三点は、何処で間違えた?」

 「ううん、間違っていないはずなんだけれど。先生が間違ってばつをつけたのかな?」

 と、言いながら、早子は机の中からテスト用紙を取り出した。社会科だった、山形の席に描かれた、世界地図が思い浮かぶ。

 「どれどれ」

 正春がテスト用紙を摘み上げる。寧も一緒に覗き込み、最初に目が行ったのは得点の欄に書かれた九十七の数字だった。

 「此処だね」

 正春の指が紙の上を這う。先には、ばつを付けられた回答があった。

 「問題、中国の国土面積は日本の国土面積の何倍か? 早子の回答は十一倍。正しい解答は二十六倍だね」

 早子は納得のいかない顔をした。膨れっ面と言う奴だ。

 「そんな事ない。だって、あたしは定規で測ったもん」

 「定規、測る?」

 何を言っているのか分らない、寧は混乱した。正春の顔を覗くと、何か思い当たるような、真剣な顔になっている。

 「面積、出した。小数点以下を四捨五入して出る近似値は、確かに十一のはずなのに」

 「まさか、中国と日本にそれぞれ定規を当てたんじゃあないだろうな?」

 「そうだよ、あたし、ちゃんと図った。中国と、日本」

 「はあ?」

 寧の口から、ついそんな声が漏れる。正春は喉で笑い始めていた。

 「くくっ。山形の机の、地図だろう?」

 「山形君の机にあるのは、地図じゃないよ。あたしの、本物の地球」

 「君の地球?」

 間抜けな声だ、寧は自分でそう思った。

 「そう。あたしにとっては、あれが地球なの。だから、あたしはあれが示すように答えなくちゃいけない。それが答えの、はずなのに、どうしてばつがついたんだろう?」

 頭からクエスチョンマークを発散させながら、早子は唸っていた。


 「早子が山形の机に地球を描いたのは、何と無くだったんだろう」

 と言って、正春はハンバーガーを大口で咀嚼する。正春は幸福感を顔中に蔓延させた。

 訳の分らぬ専門書に加えてハンバーガーセット{五百八十円}を奢らされた寧は、正春の笑顔に拳を叩き込みたい衝動に襲われた。

 寧はジャンクフードを良く思っていない。口を熱線で捻じ曲げるような強烈な味に加え、抜群にアンバランスな栄養価。値段はお手軽に、非美味に不健康な料理です。ふざけんなと言いたい。美味そうにハンバーガーを食う正春が理解できない。

 学校も終わって、小汚い古本屋で約束の本を購入し、少し遊んでいこうと立ち寄ったのはファーストフード。給食を食べただろうおまえ、と言う寧の言葉は完全に無視された。カウンターにて、注文を言い終えた正春は寧を呼び出して『電車賃しか持ってないから、奢ってくれ』と飄々と言った。寧は抵抗したが、結局、気だるそうなアルバイトの『うるせえよ糞ガキ、何でも良いから金払え』と言いたげな眼力に屈した。全て正春の計算である。

 それでも、寧は怒り出す事をしなかった。無意味だと分っていたし、正春の毒舌と屁理屈と嘘八百には適わないのだ。

 「何とも無く描いた地球だけれど、早子にとっては価値のある物だった。少なくとも、教科書の世界地図と同等かそれ以上にはね」

 「それで?」

 口の中のハンバーガーを見せびらかしながら喋る正春を不愉快に思いつつも、寧は促した。その時寧は、自分も飲み物くらい注文すれば良かったと思っていた。

 「彼女は、机上の地球と、教科書の地球、どちらが正しいのか分らなくなったのだろう」

 「おいおい。教科書の世界地図が正しいに決まっているじゃないか」

 「上空から撮った映像や海岸に沿った測量等の資料に基づいた世界地図が間違っている訳は無い。では、教科書を作った人間が、嘘の地図を載せたのならどうか?」

 「そんな事をする意味は?」

 「日本は来るべき戦争に備え、国民を洗脳している。洗脳を維持する為には、A国の存在が邪魔だ。ならば、A国を地図から消してしまおう」

 「バカ言え」

 「あくまで例え話だ。バカとは心外だな」

 「例え話にしても、バカらしい」

 「なぜだ?」

 「バカはバカだからバカなんだ。バカに理由は無い」

 言いつつ、寧は考えていた。正春の言う事も、分らなく無いな。

 思春期の寧は、人並に哲学をしている。そして知っていた。世の中、何が本当で何が嘘か分らない事を。

 ガリレイが地動説を唱えるまで天体が地球を中心に回っていたように、第二次世界大戦に敗退するまで天皇は神の如き存在だったように、世界地図は偽物なんじゃないだろうか? そんな考えを根から否定する事は、少なくとも寧には不可能だ。

 「バカに理由は無いというが、その言い分だと、基準無くランダムにバカとされる物を選ぶ事になるじゃないか。ならば、どうやってバカかそうでないかを見分けるんだ? バカだと描いてあったのか? 僕の意見には」

 正春は不機嫌そうな顔をしている。

 「あーあー。俺が悪かった。おまえの言う事はバカじゃあない。ところで、世界地図が偽造された物である可能性に気付いたとして、可能性がどこまで可能性か、とことん検討する奴がいるのか?」

 正春は質問に答える事が大好きだ。不機嫌そうな表情は、不適な笑みに変る。

やっぱり正春はガキだ、寧は思った。

 「それが早子だ。彼女は世界地図の信憑性を疑い続け、早子はとある事に気付いた」

 「何だよ」

 「世界の全ては、自分によって決定する」

 「はあ?」

寧は、開いた口を塞ぐ事に苦労した。

 やはり正春は変人だ。正春は早子の考えを説明しているだけにしても、それは凡人に出来る事ではない。

 最早、正春の言う事は、勝手な憶測に過ぎない等と言う、真っ当な意見は寧の頭を通り過ぎた。当面の突っ込み所は、今、正春が口にした言葉だ。

 「本当にそうなら、早子は神様だぜ」

 「神様だよ、早子はね」

 正春は得意げに鼻をならした。本当に楽しそうだ。

 更に良く分らなくなった。

 「何を言っているんだ? 分りやすく説明してくれ」

 「分った」

 正春は言う。突然、寧の口に異物が進入して来た。鉄のような苦さが口を侵略し、溶かしてゆく。

 見ると、正春が食べかけのハンバーガーを寧の口に押し込んでいた。見慣れた、不適な笑みを零している正春を、寧は押し返した。口にはハンバーガーの破片が残る。

 「おいしいかい?」

 「不味い。何しやがる」

 鼻をつく匂いを放つ黄土色のソースが、寧の口元にべっとりと付着している。ペーパーで拭き取りながら、口の中にあるハンバーガーの破片を噛まずに飲み込んだ。

 「つまり、そう言う事だ」

 「何が言いたい?」

 「此処には二つのハンバーガーがある。僕の美味しいハンバーガーと、君の不味いハンバーガーの二つだ。そのどちらも、疑いようの無い実在のハンバーガーだ」

 「意味が分らない、ハンバーガーは、おまえの手にある一つだけだろう?」

 「まったく、君には思いやられる」

 呆れたような顔をしながら、正春は愉快そうだった。自分の倫理は、高等すぎて理解されないとでも、優越感に浸っているのだろうか? それにしても碌な説明を寄越さない正春に問題がある。

 「果たして、このハンバーガーは美味しいのだろうか? 不味いのだろうか? それを決めるのは、君自身だ。僕が幾ら、このハンバーガーが美味しいと思っていたって、君にとってハンバーガーは不味い」

 寧は頷く。誰がなんと言おうが、俺はハンバーガーを認めない。認めてたまるか。

 「さて、ここに山形がやって来て、ハンバーガーを見てこう言った。『美味しそうなサンドイッチだね』」

 想像する。寧は山形に向かって『これはハンバーガーだ』と言う。正春も同調する。山形は表面上納得したようにしていても、内心ではこう思うかもしれない。『いいや、これは絶対にサンドイッチだ。パンとパンの間に食べ物が挟まっているのだから、そうに違いない』

 「さて、ここに早子がやって来て、ハンバーガーを見てこう言った。『美味しそうなみかんだね』」

 正春は言って、寧は噴出した。

 「こりゃ良いや。万物、見る者によって何にでもなるって訳だな」

 「その通り。世界の全ては、自分自身で判断しなければならない」

 「でもな、おまえの手にあるそれは間違いなくハンバーガーだ。だって、メニューには『ハンバーガー』と書いてあるもの」

 正春は半分ほどの大きさになったハンバーガーを掲げつつ言った。

 「どうかな? メニューにとってはハンバーガーと言うだけだ」

 「これを作った奴が、これをハンバーガーだと思っていたら? おまえは、真理と言う言葉を知らないのか?」

 「何を真理とするか、それは人に寄る。君がたまたま、製作者の言い分が真理になると思っているだけだ。山形がこれをサンドイッチだと思う限り、早子がこれをみかんだと思う限り、これはサンドイッチでありみかんだ。そして、真理とは神が決める事。即ち、意思の数だけ世界が存在して、意思こそがその世界の神だ。それが言いたかった」

 「本物の神が怒るぞ」

 「仮に、世界を動かす者が神だと言うのならば、それは世界に影響する者なら道端の石ころですら神と言える。世界を作った者が神だと言うのならば、それは世界を作った者、を作った者、を作った者、と、堂々巡りに陥ってしまう。何故なら、世界が存在しないなら何もかもが存在しようが無いからだ。世界を作った最初の者、と言うのがそもそもありえない。神なんて弱者の造った偶像だよ」

 「おまえ、矛盾しているぞ?」

 「そんな事は無いさ。僕が言いたいのは、神は偶像だけれども、神は実在すると言う事だ。偶像でも存在は存在だ」

 屁理屈の嵐だ。大津波だ。地震だ、雷、火事、親父だ。寧はうんざりとした。

 「神を造った弱者が自分自身で、造られた神も自分自身と言う事だ。人間は皆、基準を決めてくれる存在が必要になる。それを担うのは、自分自身しかいない。分るかな?」

 「分らないではない」

 「ともかく、世界の全ては自分によって決定する、と言う事がどう言う事か、分ってくれたかな?」

 つまる所、世界の何もかもはそうだと思い込んでおけば自分にとってはそうなのだという、そういう事だろう。寧は漫然と考えた。

 「ああ」

 寧は生返事を返した。そうする他、どうしろと言うのだろう。寧は正春の理屈に納得できない。しかし、どう否定して良いのか分らなかった。

世界の全てが自分によって決定する理屈ならば、その理屈も自分によって決定された物と言う事になる。つまり、世界の全ては自分によって決定しないと思って居れば、世界の全ては自分によって決定しないのだ。しかし、それは自分で決定した事で、世界の全てが自分によって決定された事になる。堂々巡りだ。

 別に、納得する必要は無いのだ。ただ、抽象的に理解していれば良い。寧は、早子がどう考えていたのかを知りたかっただけだ。

 「さて、世界の全ては自分によって決定する。早子はそう思い当たった訳だ。そして、その考えに基づいて、机上の地球と、教科書の地球、どちらが本物の地球なのか、決定する事にした。それで、早子は机上の地球に決定した」

 「なんで、また机上の地球なんだ?」

 「ああ、それは……」

 正春は、何かを考えるように沈黙した。頬に朱がさしている。

 「分らないのか?」

 正春は体を揺らした。自分の不明を人に知られるのは、正春にとって最大の恥辱だ。頭を捻り、妥協したように言った。

 「実を言うとね、今までの僕の説明は、僕が早子の考えを推測した物じゃないんだ」

 寧は拍子抜けした。散々得意げに演説しておいて、それが本のうけおりだったとは。

 「小説を買って、早子にあげたんだ。『ハワイ諸島は存在しない』とても面白い話だよ。日本からハワイ諸島に旅行をしたカップルが居るんだけど、途中で、自分等が居るのはハワイ諸島では無いと言う事に気付く。日本からそう離れていない、何の変哲も無い島だった。その時、カップルは後ろから撃ち殺される。ハワイ諸島は存在しないと言う、秘密を知った者を消す為にね。今まで話していたのは、その小説の一節さ」

 「ああ。成る程。あの早子なら、小説に影響されてしまうのも無理は無いな」

 「そうだ。そして、あの机上の地球は、中国がやや小さめに書かれていて、中国は地球の十一倍の大きさになってしまい、早子はテストで失点を犯した。と言う訳だ」

 早子自身がどう思っていようとも、変らない。教師にとっては教科書の地球こそが真理なのだ。机上の地球に基づいた答えに、バツをつける他は無い。

 「ふん。机に描いた地球だって、教科書の地図を参考にしたんだろうに」

 「早子は、次のテストの為の基準が欲しかっただけだ。机上の地球か、教科書の地図か、その時の早子にはどちらを選んでも同じに思えた。完全な二者択一だ。最後に机上の地球を選ばせたのは、机上の地球にはハワイ諸島が描かれていない事だったのだろうな」

 寧は、遂に納得した。神がどうだの、話は小説の一節に過ぎない。無茶な事を書き綴るから、小説は面白いのだ。

 「早子の気を引く為に、小説をやったんだろう?」

 「勿論。でもまあ、貢物で落ちるなんて。まさに盲点だ」

 そして、二人は大きな声を出して笑った。

 

 仄かに冷気を含んだ空気が、寧の体を包む。朝のこの肌寒さが、昼間には茹だる様な炎天下に変わるのだ。気まぐれな奴だ、寧は思い、太陽を睨みつけた。日光に目が焼けて景色が捻じ曲がる。

 寒さに凍えながら、寧はひたすら自転車をこいでいた。特筆する事も無い様な町並みの景色が流れる。寧は見慣れた風景に目を向ける事はせず、安全運転の為前を向いていた。

 そんな風に十五分程自転車で走ると、通い慣れた学校が見えてくる。寧は一週間の内五回、このような早朝を過ごしている。

 悪くない日常だ、寧は思った。何か不足があるとすれば、財布の中身に友達の数と質くらいなもので、その程度の悩みしか無い良質な生活には文句も出ない。

 大きく伸びをしながら、寧は教室に入る。自分の机に鞄を引っ掛けて、教室中を見渡した。

 窓際最後尾、山形の机に、早子が陣取っていた。やけに真剣な表情で鉛筆を操っている。傍には困った表情の山形に、愉快そうな正春が居た。

 寧は首を振って、三人の騒ぎに入っていった。山形の机を見る。早子が持った鉛筆の先が、机上の地球を黒く塗りつぶしている。日本の西側は殆ど真っ黒に塗られていたが、日本国土はぎりぎりで暗黒の侵略から免れて居る。意図的に日本を避けて塗っているようだった。しかし他の国には容赦無い、二重三重に隙間無く黒が塗りこまれている。

 「第三次世界大戦が勃発して、核兵器によって世界が破滅しているのか? それとも宇宙人が到来して、圧倒的な科学力を前に成す術無く侵略を受けているのか?」

 「君には黙っていて欲しいね。たった今、早子の意識を誘っているんだから。何かに集中した早子をひくのは容易な事ではないんだよ」

 寧が冗談めかして言うと、正春は不機嫌な顔で睨みながら応答した。寧は正春に歯向かう事をせず、山形の相手をする事にした。

 「これは何事か?」

 「俺は知らないよ。朝学校に来たら、渡部が俺の机で世界地図を塗りつぶしていたんだ。訳が分らない」

 「おまえ、地図を消してなかったんだな」

 学校は生徒に机への落書きを禁止している。当然、見付かれば注意される訳であり、机に描かれた世界地図を保管する事はあまり利巧とは言えない。

 「そりゃあ、不気味だからな。消したりしたら、渡部がどう反応するか分った物じゃない。『消さないで』なんて書いてあるし、尚更消せないよ」

 山形は困惑の表情を覗かせた。寧には、山形が気の毒に思えてならない。このクラスに正春の存在が無かったら、山形と早子の間にはトラブルが生じていたかもしれない。

 「何で俺がこんな目にあうんだか?」

 「おまえの席がここで、早子の出席番号が三十八だからだ。ようするに、運が悪かった」

 個人と言う世界の中で、意思と言う神が存在すると、正春は言っていた。しかし、世界が作り出される前提となるのは個人の出生で、何億匹の精子の一つが卵子まで辿り着き、藤堂寧になったのは、まったく偶然の出来事なのだ。

 世界を支配するのは、神でも論理でもなく、偶然だ。世界を掌握する神……自己でさえ、偶然にも車に跳ねられれば死ぬではないか。寧は頭の中で、正春の言い分を否定する論説を組み上げた。

 しかし、それを口に出す事は止めた。正春の理屈を完全に崩せる訳では無いからだ。早子が机上に地球を描くに至った経緯が正春の推測とは相違していて、その事実を寧で解き明かさないかぎり、正春に勝利した事にはならない。

 「運が悪かった、なるほどそのとおりだ。俺の成績が良くないのも、運が悪かったからだ」

 「そのとおり、世界の全ては偶然によって決定する」

 寧は正春に習って応対した。山形の言い分に対して深く考える事はせず、ただの言い訳かさもなければ自虐的なユーモアであろうと、大雑把に推測するに留まった。

 「愚民共、這い蹲れ。早子の覚醒が済んだぞ」

 自慢げな笑みを浮かべた正春が、寧と山形の方を向いて言った。少しばかり女を小説本で釣ったからと言って、人を愚民呼ばわりするのはどうかと寧は思う。山形は然程気にしていないようだった。

 後は好きにしろとばかりに、正春は笑みを崩さずに一歩引いた。山形が困惑の表情を浮かべた為、寧が対応する事にした。

 「早子。何をしているんだ?」

 机に落書きされて山形が困っている、とも言ってやるつもりは有ったが、寧は自分の疑問が先に出た。山形の視線が、期待を込めたものから抗議するものに変化するが、寧は気にとめない。

 「地球を掃除しているの」 

 早子は端的に回答を寄越した。

 「掃除と言えば、思い浮かぶのは消しゴムだけど」

 「消しゴムで消したら白くなるもん。白色は海を表してるから、違うの。海から、黒で隔離された部分が陸地」

 寧は腕を組んで、早子の言う意味を考えた。

 「昨日、気付いた。あたし、日本以外の国、行った事が無い。行った事が無いから、有るかどうかも分らない。だから、分るまで黒く塗っておくの。黒は境界で、何も無い場所でもあるだから」

 正春が下を向いて噴出した。早子は首を捻りながら正春を見つめる。

 確かに早子の言う事は正しい。世界中を海岸沿いに測量して回らない限り、本当に正しい地図を書き上げる事は不可能だ。しかしそんな事を言い出せば、日本の形だって机上のとおりか分らないではないか。

しかし、それを伝えれば早子は混乱するだろう事は見えている。おそらく、自分の住む町の地図でも描き始めるだろう。

 早子は哲学が分らない。疑う事が苦手で、捻くれた思考ができない。決して、頭が悪い訳ではないのだ。

その時チャイムの音が鳴り響いた。一心不乱に地球を黒く塗っていた早子は、機械の動きで自分の席に戻っていった。山形は安堵の表情を浮かべた。


 「ドイツ西部のライン川中流域に発達している、EU最大の工業地帯は何か?」

 社会化顧問の保坂は、黒板に書かれた問題を口にした。

 保坂の強面に恐れをなした生徒達は、促されても手を上げる事をしない。たまに勇気のある生徒が挙手をしても、保坂はその度に生徒に何癖を付ける。一応、彼には文句の付けようが無い挙手から着席までのプロセスと言うものが存在するようだが、それを実践できる者は、少なくとも寧のクラスには皆無だ。

 「誰も手を上げないのか?」

 保坂は、唯でさえ皺の刻み込まれたその眉間にさらに力を込めた。教室中に、電撃の如く緊張が走る。そして、教室中の生徒が以心伝心、まったく同じ事を考えた。『この鬼軍曹め』

 鬼軍曹とは、保坂の綽名である。誰から言い出したかを知る物は少ないが、それは当り前のセンスと言えた。保坂の顔や人となりを知れば、皆その綽名に納得する。

 潰れたような鼻、厚い唇、つりあがった繭に、脂ぎった黒い皮膚、残忍そうで剃刀の如く鋭い目付き、およそ優しそうな点は一つも無い。そして、如何なる不良生徒でも裸足で逃げ出す強烈な怒鳴り声。鬼軍曹の綽名は誰でも思い付く。他には鬼教師だとか鬼畜だとか、何れも鬼の文字が入る事だろう。そうでなければ、閻魔大王が良いかもしれない。

 「じゃあ、渡部。立て」

 指定を受けて、空を見ていた早子がゆっくりと立ち上がった。たちまち保坂の罵声が飛ぶ。

 早子は動じずに、抜けた表情を崩さない。このクラスで保坂に対抗しうるのは、罵声と強面の通じない、怖いもの知らずな早子くらいのものだ。

 早子は立ち上がったまま、再びうわの空に陥った。立たされたまでは良いが、何をさせられるのかが分らないのだろう。

 「渡部。答えられないのならばそう言えば良いだろう。黙っていて済むと思っているのか?」

 「へ? 何ですか?」

 気の抜けた返事を、早子は返す。

 「貴様、さては授業を聞いていなかったな?」

 「授業。聞いてた? 何時の?」

 「答えろ!」

 保坂は黒板の問題を平手で叩いた。教室中に防音が鳴り響く。気の小さい生徒は、それに縮こまってしまう。

 「その問題を、答える?」

 危機を察してか、早子の思考は珍しく冴えていた。左目は黒板を見据え、右目はどこともつかない方を泳いでいたのだから、半分は覚醒していると言える状態だ。

 「そうだ」

 保坂は早子をにらみつけた。しかし早子は飄々と

 「ドイツ? そんな所、ありません」

 等と答えたのだった。

 当然ながら、つい少し前までの早子には答えられない問題ではない。しかし、地球の西半分を真っ黒に塗りつぶした早子にとって、その問題はただ意味不明だった。

 寧は、早子の成績が良い事について、正春は直感視能力がどうだとか言っていた事を思い出した。

 早子は純粋で物を疑う事は知らず、また同様に、疑う事を疑う事も知らない。彼女のその性質は、長所と短所の紙一重の間に属する。物覚えは速く精確である為、授業成績には良い影響を与えているのが、救いと言えた。

 「貴様、何を言っている?」

 「何って?」

 鬼に睨まれた早子は、可愛らしく首を傾げた。

 誰もが保坂の放つ大雷を恐れた。或いは、どこからともなく金棒を取り出して大暴れするだろうと。しかし保坂は眉間に皺を寄せたまま、諦めた様に

 「もう良い、座れ」

 と早子に命令した。

 自分に言われている事だと、たっぷり五秒考えて、早子は席に着いた。

 その声と、顔で、保坂は生徒一人一人を理解していた。早子が、やや扱いの難しい生徒である事も分っていたのだ。

 寧は然程、保坂の事を嫌っては居なかった。保坂が生徒を叱る時はそれこそ鬼軍曹の如く叱り付けるが、褒める時にはくどい程褒める。保坂はやるべき事を熱心に行える教師と言えた。ただ今の時代、そう言う暑苦しい人間は嫌われる。

 問題はそれだけでは無い。保坂は昔、自衛隊をしていたらしく、鬼のような挙動はそこで磨かれた物らしいのだ。そして時折、主に生徒を怒鳴る時、右翼的な発言が発せられる。

 「皆、聞け。自分の国の地理を知っていただけでは駄目だ。どの国が、どのような形で日本に関わってくるか分らない以上、常に細心の注意を持って置くことが必要だ。日本を守る為には、敵地となる可能性のある国を知る事も大切なのだ」

 と言った具合であるからたまらない。

 保坂はそう怒鳴り散らしながら、生徒の間に入っていった。教室を歩き回りながら、保坂は演説を続ける。保坂は窓際の列を前から歩き始めている。

 寧は反射的に山形の方を見た。それに対応して、山形は教科書で地球を隠す。もし、保坂に落書きが見られでもしたら、山形は恐ろしい仕打ちを受ける事になる。愛国精神を木の棒で尻に叩き込むだとか、そんなイメージだ。

 「山形!」

 保坂は窓際最後尾にたどり着くなり、山形を怒鳴りつけた。山形はもう涙目である。しかし保坂は容赦しない。寧は気が気でなかった。

 まさか、落書きを見られたのでは無いか。そんな恐怖が寧に到来する。山形は既に頭の中で言い訳を練っているようで、口が開きかけていた。

 保坂はまるまる七秒山形を睨みつけ、山形は凍えたように縮こまった。保坂はその筋肉隆々の腕を山形の机に叩きつける。教科書は一瞬中を舞い、再び同じ位置に戻った。

 「山形、貴様! シャツを出しているな!」

 山形は気が付いたようで、自分の腰を見た。見ると、真っ黒いシャツがズボンから外側に露出している。

 この学校では、シャツはズボンの中にいれる事になっている。大して重要な規則ではなく、大概の教師は黙認しているような事だ。しかし、規則破りには変りは無い。保坂の前でやってしまった山形が間抜けなのだ。

 「来い!」

 山形は首根っこを掴まれ、凄まじい力で持上げられた。椅子が倒れる音が教室に響き、山形は教室の外へ引きずられて行った。

 保坂の居なくなった教室は、しばらく沈黙が支配した。クラスの中心的生徒が言った。

 「鬼軍曹が居なくなって清々した。やっとまともな空気が吸える」

 誰かのその一言で、教室中に狂騒が溢れた。保坂によって抑えられていた生徒達の爆発は凄まじい。教室は荒れ放題となった。

 この状態を保坂が目撃したら、それは恐ろしい事になるだろう。しかし、その心配は無い。保坂は山形を連れて、自分の巣である進路指導室……又の名を拷問室……に向かっただろう。そこはこの教室からは遠く、騒ぎが漏れる事は無い。それに、廊下側の生徒が窓から廊下の様子を窺っており、保坂がやって来るや否や自習のふりをすると言う寸法だ。

 しかし、そんな事は所詮、子供の浅知恵に過ぎない。保坂は指導室からの帰り、となりの教室で授業をしていた英語教師から話を訊いて、生徒達に雷をきっちりお見舞いした。

 

 なぜ俺がこんな目にあわなければならないのだろう。山形は舌打ちをした。

 保坂には腹が立つ。両親にも腹が立つ。自分をバカにする同級生に腹が立つ。ヘラヘラした正春に腹が立つ。成績の良い早子に腹が立つ。皆皆、腹が立つ。

 社会が憎い。自分を認めない社会が憎い。なぜ、自分はこんな学校等と施設に押し込まれているのだ。自分のような有能な人間には、もっともっと相応しい場所があるはずだ。なまくらな勉強などさせられてはたまらない。

 腹が立つ。本当に腹が立つ。消えてしまえ、消えてしまえ。

 ふと、山形は自分の机を見た。そこには、半分ほど黒く塗られた地球が描かれている。

 自分が、何に腹を立てていたのか、山形はやっと分った。

 腹が立つのは、全てだ。何もかもいらない。消えてしまえば良い。自分以外、何もいらない。なぜ自分のような有能な人間が、保坂のような者に罵られ、バカな同級生に罵られなければならないのか。社会が悪い、世界の全てが悪い。消えてしまえ、消えてしまえ。

 塗りつぶす。諸悪の元凶、地球を。芯を何度も折りながら、シャープペンで地球の残り半分を擦る。

 消えてしまえ、消えてしまえ。腹が立つ、腹が立つ。いらない、いらない。


 「明日の土曜日、僕等に早子を加えて、三人で町へ遊びに行かないか?」

 昼休み、正春は提案した。確かに、勉強の息抜きにはなるかもしれない。寧は思った。昨日、正春と古本屋に行ったのは、あれはノーカウントだ。最近は、碌に羽を伸ばしていない気がする。

 「確かに賛成だ。しかし、早子を連れて行くのか?」

 「嫌かい?」

 寧としては、嫌な訳が無い。寧は女性経験が皆無だ。集団の中の一人としてですら、女と出かけた事が無い。それを、早子のような美人を連れて遊べるのならば、こんなに楽しい事が有るだろうか。

 「俺は嫌じゃあない。だが、早子は大丈夫だろうか?」

 「ああ。それは問題ない。基本的に彼女は、時間には困っていないようだ。『良く行く古本屋を紹介する』と言えば、嬉々として応じるだろう」

 「どうかねえ」

 そう言いつつも、寧は確信していた。正春ならば、何らかの手段で早子を同行させるだろうと。その手段は、最早、寧でさえ見当がついた。

 「ところでさ、おまえ。どうして早子と二人で行かないんだ?」

 当面、疑問に思ったのはそれだった。当然と言うか、集団の中の一人として女と遊ぶよりは、二人きりで女と遊んだ方が楽しい。

 「あはは。早子だって、一人の女性だよ。いきなり、男と二人きりで遊ぼうだなんて、首を縦に振るだろうか? まあ、徐々に慣らしていく作戦という訳だよ。協力してくれ」

 正論が帰って来た。しかし、寧はどうも納得できなかった。どちらかと言えば、いきなり異性と二人で遊ぶ事に禁忌を感じているのは、正春の方では無いだろうか。

 早子ならば、正春を異性として意識しないだろう。早子は、その程度には心理的に鈍感な人物に思える。逆に、理屈で凝り固まった正春の心はかなり繊細だ。ようするに、正春は心細いのでは無いか。それで、気心のしれた自分を巻き込んだのだ。

 それならば、付き合ってやってやらんでもない。財布はやや冷たいが、何とかなるだろう。寧は考えた。

 「成る程な。ま、良いさ」

 寧が言うと、正春は立ち上がった。

 正春が早子を誘いに向かうのを見て、寧は微笑ましく思った。普通、誘うのは早子が先のはずだ。それを、正春は自分から先に話しをつけたのだ。即ち、正春は自分が首を縦に振らなければ話を無かった事にしたと言える。

 自分がいなければ、正春は何もできない。寧にとってその優越は、どこかくすぐったい感覚だった。

 見ると、早子は自分の机に腰掛けている。そこで、山形の居る窓際最後尾に目を向けた。机上の地球は、日本以外を真っ黒に塗りつぶされている。休み時間を使って、早子がやったのだろう。

 いつもは、クラスの輪のどこかには顔を出している山形が、今は一人で机に掛けている。どうしたのだろう、寧は思った。 

 ひょっとすれば、山形とは友達になれるかもしれない。御しやすいし、策略がなさそうだ。孤立しがちな自分とも、訳隔てなく話してくれたし、良い奴のはずだ。

 そう思い、寧は少しの勇気を振り絞って席を立った。正春以外の人と話をする為に、自分の意思で席を立つなんて、初めてだった。

 「よう。山形。冴えない顔だな」

 話しかける言葉を選ぶから、中々話しかけられない。思った事を口にすれば良い。寧は少々失礼な事を言った。悪意等、ある訳が無い。

 伏目だった山形が、突然こちらを向いた。信じられない物を見るような顔で、寧を睨みつけた。

 「何だよ。おまえまで、俺をバカにするのかよ!」

 と、まくし立てた。元々の声が小さい為か、周囲には聞こえていない。

 「い、いいや」

 寧はうろたえた。

 「何だよ」

 「あ、ああ。何でもないんだ。ただ、元気がないな、と思って。大丈夫か?」

 「ああ?」

 山形は寧を覗き込む。頭からは湯気らしき物が出ていた。

 「保坂の野郎の所為だ」

 「鬼軍曹? ああ。あの時は気の毒だったな……」

 一時間目の事だ。寧はもう、半分は忘れてしまっていた。

 「そうだよ。あの野郎。俺の成績にまで文句をつけやがって。あいつ、俺の事を何とも思ってないんだ。俺の事をバカにしているんだ。何であんな奴が教師をやっているんだよ。俺をバカにする奴なんか、消えてなくなれば良いんだ!」

 そう言って、山形は拳を机に叩きつけた。そこには、早子が描いた地球が有った。日本以外真っ黒に塗られていて、日本の上には細い線が無数に走っている。無数の細い線は、地球の外側にまで乱雑に引かれていた。

 丁度、濃い鉛筆で書かれた地球を、シャープペンで上から蹂躙したような、そんな塩梅だ。寧はうすら寒いものを感じて、山形の元を離れた。

今は、山形を相手にしないで置こう。寧の小心は、そう判断した。

 

 寧は衣類の詰まった引き出しを開けて、首を捻っていた。

 普段、寧は服装に気を使わない。貴重な小遣いを服に費やすのは、バカバカしいように思えた。専ら、親が買って来た服を適当に着用している。自分で服を買った経験は無い。

 しかし、事は女と出掛けるのである。一応、それなりには服装に気を使うべきなのではないか?

 まず、ジャージは却下だ。漫画や小説では、ジャージは服装に無頓着な男の基本装備とされている。寧としては、ジャージもその柄によってはそれなりにイカス格好に思えたが、それは自分の趣味嗜好であって、ファッションとは人に見せる為に存在するのだ。 

 寧は無地のシャツとジーンズを着用した。寒かった時の為、ボタンダウンの綿のワイシャツを上からはおる。参考にする書物等を持ち合わせていなかった寧としては、博打に近い。ひょっとしたら変な格好かもしれない、ジャージの方が無難なのではないか?

 寧はその考えを打ち消した。そもそも、寧は早子に対して、特別な感情は持っていない。格好を付ける必要も、無いのだ。別にどんな服装でもかまわない。

 むしろ、心配すべきは正春である。はたして、彼はどんな服装をしているのだろうか? 正春が気合を入れて衣類を選んでいる様を想像する。噴出してしまった。

 寧が暮らしている県営住宅は駅より徒歩三十秒と言う素晴らしい立地条件だ。寧は待ち合わせに遅れる事無く、駅に辿り着いた。

 備え付けられた時計を見ると、待ち合わせの十時の、その十七分前である。家に居ても暇だからと言って、早く着過ぎてしまった。

 ベンチに腰掛け、眠ったような、気絶したような体性をとる。周囲の人間が一瞬、寧の方を見る。しかし、すぐに目を逸らした。

 「悲しい世の中だね。誰も、君を心配して、話しかけようとしない」

 知り合いの声に、寧は目を覚ました。傍らには上下ジャージの親友、正春が突っ立っていた。

 「おまえ、よりにもよってジャージかよ」

 「よりにもよって、と来たか。ジャージが、どこによった服装だと言うんだい?」

 正春は恥ずかしげ無く言った。どうやら、何も考えずにジャージらしい。

 「おまえな。女と出掛けるのに、少しは格好を気に掛けろよ」

 「駅のベンチで寝転んで居た君に言われたくないな。それに、男は外見よりも頭脳と胆力だよ。格好が幾ら良かったって、進学や就職に有利に働く訳じゃああるまい」

 「そう言う問題じゃあないだろう、恥ずかしいとは思わないか?」

 「別に、君や早子に羞恥心を持って何を得る訳でもない。まあ、もうすぐに分るさ」

 正春が言った。

 暫く待って、時針と分針が同時に十を挿した時、早子が現れた。寧はやや、裏切られたような気分になった。

 「な、僕の言ったとおりだろう」

 寧は、早子がそれなりに可愛らしい格好をして来るだろうと、僅かに期待していた。しかし、現実は非情だ。あまりに、非情だった。

 「おはよう」

 「おはよう」

 正春と挨拶を交わす早子は、何と学生服だった。

 学生服、セーラー服である。一部の、取り分けサブカルチャー等では、セーラー服は極めて魅力的なファッションとされる。当然ながら、寧もセーラー服に興味が無いではない。しかし、早子の学生服は昨日も見たし、何より休日に学生服を着用する奇特な生徒等、寧は目の前の早子以外知らない。

 「寧君、おはよう」

 「あ、ああ。おはよう」

 見ると、直前まで眠っていたらしく、早子の髪は寝癖のカーニバル状態で、目には脂がのっていた。何れも、寧ですら駅に着くまでに手で取り除いた物だ。

 「じゃあ、行くよ」

 正春の声で、三人は切符を買いに向かった。

ジャージと制服の二人に紛れていれば、服装について少しでも頭を働かせた自分が恥ずかしく思えてくるから、不思議な物だ。寧は思った。


 しばしの時間を待機に費やして、三人は汽車に乗り込んだ。早子は何も知らずに正春に従っていただけだったようで

 「この汽車は、どこにいくの?」

 等と疑問を持っていた。

 「町だよ」

 正春は答えた。早子に町とだけ言っても、伝わらない事は目に見えている。早子は自分で確かめた方が良いと思ったのか、席を立ち上がった。

 その時、停車した汽車が大きくゆれた。早子の華奢な体がバランスを崩す。寧があわてて支えた為、転ばずに済んだ。幸い、汽車には三人の他には新聞に顔をうずめた中年男しか乗っていなかった為、誰にも迷惑をかけなかった。混んでいたらそうはいかない。

 「ありがとう」

 笑顔で礼を言われて、寧は妙な気分で頬をかいた。正春は嫌な笑みを浮かべている。

 「何だよ」

 「別に、何でもないよ。いやいや」

 正春は拳を口元に、山賊のように笑った。

 早子は切符と時刻表を照らし合わせる様子を、寧は妙な気分のまま見ていた。

 汽車は進む。独自の走行音を鳴らしながら。自動車の普及で若干需要が減った汽車だが、自転車しかまともな移動手段を持たない中学生は重宝している。

 寧は、汽車が好きだった。精確には、汽車に乗る事が好きだった。

 窓から流れる景色。田畑や川だけの風景が、徐々に灰色を帯びていく。寧は自分の住む田舎が好きだったが、それは汽車があるからだ。自由に都会と行き来できなければ、不便さから田舎に辟易しただろう。

 次の駅は、県境を少し越えた場所にあった。寧達が『町』と読んでいる所は、寧達の県と比べて遥かに文明度の高い県にあるのだ。

 「え?」

 壁に掛かった時刻表を見ながら、早子は声を漏らした。まどろんでいた正春の背筋が伸びる。

 「どうしたんだい?」

 正春が訊くと、早子は青い顔で振り向いた。その時には、寧もただならぬ様子を察していた。

 「この汽車、今から県境を抜ける、て」

 震えた声で、早子は言った。

 「だから、どうしたんだい?」

 正春は事態を把握する為に、質問を続ける。中年男は相変わらず新聞を読んでいた。

 「あのね。県境には、線がひかれていたの」

 その一言で、寧は察した。

 「どう言う事だ?」

 正春が訊いた。早子は舌を絡ませながら、必死で説明する。

 「あたし、地球の事はみんな覚えている。誰がひいたのか、分らない。でも、きっと正しい。ちょうど県境にそうように線がひかれていた、黒で。黒は境界で、何も無い所の事。そこには、行けない。何も無い場所に行ったら、きっと、良くない事が起こる。だから」

 正春は早子の話を聞きながら、必死で推理していた。寧が口を開く。

 「山形の机の地球、少しおかしかったんだ。丁度、シャープペンで無茶無茶に線をひいて、その上から鉛筆で、日本を避けて塗りつぶしたみたいに。多分、誰かがシャープペンで悪戯した上から、早子が鉛筆で塗ったんだと思う」

 正春は、肘を直角に曲げて、首を竦めて振った。

 「やれやれ。なぜ、それを早く僕に言わなかったんだ。本当に君は愚劣だな」

 中年男は何やら赤い鉛筆で、新聞に印を入れている。まるで、それ以外には興味が無いかと言わんばかりだ。

 「運転手さんに、言わないと」

 そう言って、早子は運転席に向かった。寧は慌てて後を追う。

 「すいません、止まって。その……」

 早子は説明を始める。運転手は呆けた顔をしている。

 寧は溜息をついた。

 「早く、お願いします。良くない事が起こるから」

 「はあ?」

 善良そうな運転手で良かったと、寧は心底思った。

 正春は席に座ったまま、指を顎に掛けて何やら考えている。頼りになりそうも無い。寧は早子をこちらに向かせて、言った。

 「なあ、話を訊いてくれ。あの地球は」

 「君、この子は何なのかね」

 運転手の言う事は、とりあえず無視する。寧は説得するが、早子は相変わらず顔を青くして困惑している。

 「大丈夫だから。県境を越えたって、何も起こりはしないよ」

 「そんな訳ない」

 早子は寧の腕を振り払って、適当な窓に向かった。飛び降りようというのだ。

 「止めろ」

 寧は早子を床で羽交い絞めにした。早子は必死で暴れている。

 運転手は呆然として、二人の様子を見ていた。本来ならば、挙動不審者が乗り込んだと、連絡をするべき状況と言える。

 「離して! 降りなきゃ。皆も、危ない。何が起こるのか、分らない」

 「大丈夫。大丈夫だから」

 新聞と一体化していた中年男も、ようやく騒ぎに気が付いたようだ。俺が一人でがんばっている時に、競馬の予想なんかしてんじゃねえよ! 

 その時、汽車は大きく揺れた。駅に辿り着いたのだ。床の付近で居た二人は、その揺れで寧は体を転がして、頭を壁にぶつけた。同時に、寧は早子の悲鳴を聞いた。

 寧は直ぐに体制を整えて、早子の方を見た。床にうつ伏せて、動かない。自分のように大きく転がされた訳では無い様で、寧は胸を撫で下ろした。

 寧は早子に駆け寄り、言った。

 「今、駅についたんだ。なあ、大丈夫だったろう。何の心配も無いんだ」

 何の反応も無い。思わず、早子の体を反して、顔を見る。その白い頬を叩くが、反応が無い。どうやら、気絶しているようだ。

もしかすると、転がされた自分よりも、揺れた床で頭を打った早子の方が危ないのかも知れない。

 走りよって来る車掌を正春が静止する。

 「大丈夫ですよ。彼女は、ああ言う愉快な子なのです。後は僕等に任せてくれれば幸いです」

 そう言って、正春は両手を晒した。それらの様子を、中年男は他人事のように見つめるだけだった。

 汽車には、新たに人が入ってくる。皆、床の寧と早子を凝視する。

 「僕等は、行こう」

 正春が言った。寧は黙ったまま、気絶した早子を抱えて汽車を出た。

 

 「まあ、早子は大丈夫だと思うよ。派手な音は、君が壁にぶつかる音しかなかったからね。多分、早子は汽車が揺れたのを、県境を越えたと解釈したんだよ。汽車が、無を意味する黒いラインに突っ込んだんだと思って、それで、途方もない恐怖に襲われた。その恐怖は、早子を気絶させるには十分だった」

 「ふうん」

 正春の説明に、寧は上辺だけ納得する事にした。

 今三人が居るのは、とある無人公園だ。遊具は鉄棒のみで、水道とベンチが設けられている。正春が見つけたのだ。早子はと言えば、そのベンチに転がされていた。

 早子の頭に傷は無かった。しかし、頭をぶつけた可能性があるのだから、早く病院に掛かるべきだろう。しかし、正春はそれを止めた。

 「まあ、考えがあるんだよ。その為にここに来た」

 そう言って、正春は早子の体を担いで、水道蛇口の下に頭から寝かせた。

 寧には、正春が何をするのか予想できた。

 「お、おいまさか」

 「そのまさかだ。そいやあ!」

 寧が止める間も無く、正春は蛇口の水を解放する。凄まじい量の水が、凄まじい勢いで早子の顔を抉る。

 早子の体が大きく震えた。早子は起き上がり、顔を蛇口でぶつけた。直ぐに横に転がって水を回避して、顔を抑えて唸る。本当に苦しそうだった。

 「ああ言うのって、何ていうんだっけ?」

 寧の額には汗が浮かんでいた。

 「ああ。『悶絶』だ」

 国語の実力テストで九十六点を獲得する正春がその語彙力を発揮した。

「汽車の中で大騒ぎして、人に迷惑をかけたのだから、まあ妥当な報いさ」

 と言う正春に、寧は間髪居れずに言った。

 「元はと言えば、おまえが変な小説を読ませたからだろう」

 正春は鼻を鳴らして、悶絶している早子を抱き起こした。寧はその時になって、早子が鼻血を出している事に気が付いた。

 「ここは、どこなの? 死んだ人が行く所?」

 余程痛かったのだろう。早子は涙目で言った。

 「いいや。君の言う通りここが何も無い場所なのならば、死んだ人が行く所さえ存在しないはずだろう。よって、君が言っていた事は、机上の地球は、間違って居たんだよ」

 「そんな……」

 鼻と目を押さえて、早子は衝撃を受けているようだった。常識の一つが打ち破られた瞬間なのだから、それは、世界の一部が消えてなくなるようなショックだろう。

 そんな早子の傍ら、正春は息を掃いた。

 「別に、何と言う事でも有るまい。机上の地球が間違っていたのならば、修正すればよい事だ。昨日君は、日本以外の存在が信憑性に掛ける事に気が付いて、黒く塗っていたじゃないか。県境の黒いラインが存在しない事に気が付いたなら、そのように修正すれば良い」

 それを受けて、早子は考えるように上を向いて何度も頷いた。そして、輝かしい笑顔で

 「うん!」

 と言った。

 それを見て、寧は早子にティッシュペーパーを渡しながら、言う。

 「なあ、この分だと、早子の間違った認識はそのままじゃないか」

 「ああ。その通りだ。だが、別に構わないじゃないか」

 正春は答えた。早子は鼻血の処理に一生懸命で、話を聞いていない。

 「元を言えば、おまえの責任なんだぞ。それを、おまえは……」

 正春は不適な笑みを浮かべた。

 「さっき、早子は顔に水をかけられて起きたじゃないか。そう言うことだよ。別に何と言う事でもないさ」

 「どう言う事だ」

 「早子にとって、無を示す黒いラインに行く事は、自分の存在を消し去る事にイコールだ。だから、早子の思考は消えた。理性的に、早子は消滅していた訳だ。彼女が恐れたとおりにね。

 しかし、顔に水をかけたら、早子は脊椎反射的に起き出した。そりゃあ、そうだ。生きる本能、危険を回避する本能に比べたら、しょうもない哲学遊びの何とちっぽけな事か!」

 寧は溜息をついた。

 「この間おまえが言っていた小説のうけおり。『世界の全ては、自分によって決定する』はどうなるんだ。あれも、ただの哲学遊びと言う事か?」

 正春は、世界の頂点に君臨したように、表情を歪めた。

 「きゃはははは。ひょっとして、君。真に受けていたのかい? 君は本当に、愚鈍で愚直に、愚劣で愚欠だな」

 寧は握り拳を作り、正春のその歪み切った顔に捻じ込みそうになった。しかし寧は、ありったけの理性と良心を総動員して、何とか右腕を止めた。

 「じゃあ、何であんな事を言ったんだ」

 語気を可能な限り柔らかに、寧は訊いた。そうだ、俺は怒ってなんか居ない。怒ったら、負けた。自分に言い聞かせていた。

 「あれはあくまで、早子の心理を説明しただけだよ」

 正春は笑みを崩さずに言った。目と口を大きし、無邪気な顔で、両手を開き、正春は言葉を続ける。

 「言える事は、早子がどんな風に物を考えていようとも、教科書の地図を疑い、机上の地球を信じていようとも、そんな事は関係なく地球は存在しているし、早子はその中で暮らさなければならない。

 早子の考えは、正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。間違えたその時は、人に迷惑を掛けたり、自分が損をしたりする。そして、考えが整理されていく訳だ。

 しかし、そんな風に正しい事と間違っている事を検証していくくらいなら、周りの言う事、教科書に書いてある事を信じた方が、器用だろう? そうしていれば早子は社会のテストで百点を取れたしね。周囲の言う事よりも自分の考えが正しいと思い込んで、暴走した狂人の話は良く聞くだろう。

 独りよがりで全てを解き明かせるほど、世界は単純じゃないと言う事だ。はたして人間が総力で哲学をして、それによって世界の全てが解き明かせるのかどうかも、分からない。

 哲学する事は、不毛で非建築的な遊びでしかない。遊びの粋を超えてしまえば、そいつはもう無様に暴走するしかないんだ。さっきの早子のようにね。

 その内、早子は自分のしている事が如何にバカらしい事だったか思い知るだろう。そして、こう思う。『ああ。どうしてあの時はあんなことをしたんだろう』とね。そう気付く事が、つまり成長と言う奴だ。僕等は、そんな早子を見守ってやれば良い。それが友達というものだ」

 正春は『どうだ』とばかりに得意な顔を寄越して、胸を大きく張った。寧はたまらなく不愉快になり、

 「あっそう」

 その様に答えた。

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[良い点] 丁度良い長さながらしっかりと伏線がはられていて良かったです。それと口調が分かりやすかったので良かったと思います。 [気になる点] 残念ながら「○○は言った」といった単調なモノが目につきまし…
[良い点] 思春期の人間の特異さを表した小説の様に感じました。表現はくどいくらいが、私は好きなのでいい文体でした。話はサクサク進んでいくからむしろシンプルなのかもしれません。小説は作品の雰囲気を楽しむ…
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