第2章:|偶発的放火魔《アクシデンタル・アーソニスト》
思考停止。戦略ゼロ。 軽自動車サイズの悪魔の犬に直面したとき、まともな人間がすることなど一つしかない。
俺は走った。
踵を返し、来た道を全力で逆走する。スニーカーがひび割れたアスファルトを叩く音が響く。
ダダダダダッ!
背後で、重い爪が地面を抉る音がした。 魔犬はただ追いかけてきているだけじゃない。俺を弄んでいるんだ。湿った、喉を鳴らすような呼吸音がすぐ後ろに迫る。
「助けてくれ!」俺は叫んだ。声が裏返る。「誰か! 火事だ! 警察! アベンジャーズ! 誰でもいいから!」
第4区画は無人だ。俺の悲鳴は空っぽの廃ビルに反響し、まるで俺自身を嘲笑っているかのようだった。
俺は倒れたコンクリートの柱を飛び越えた――自分でも知らなかったパルクールのような動きだ。だが、運悪くリュックが錆びた鉄骨に引っかかった。
ビリッ!
ストラップが切れた。俺はつんのめり、バランスを崩した。
「嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ――」
足が瓦礫に引っかかる。世界が回転した。
俺は激しく地面に叩きつけられた。肘が砂利で擦れ、皮が剥ける。 俺は息を切らしながら、パニック状態で仰向けになろうともがいた。
魔犬は、すでに空中にいた。
太陽を背にしたそのシルエットは、俺の頭を丸ごと飲み込めるほど大きく顎を開けていた。腐った肉と硫黄の臭いが鼻をつく。
俺はきつく目を閉じ、顔を覆うように両手を突き出した。
「こっちに来るな!」
その時だった。俺が腕を振り回した拍子に、金属のブレスレットがついた左手首が、尖った岩に激突した。
ガガンッ!
衝撃でブレスレットのダイヤルが高速回転した。そして、カチリと定位置に止まる。
『入力確認』 『化身:炎神』 『変身、開始』
時間が止まったように感じた。
胸の内の恐怖が消え失せ、別の何かが取って代わった。熱だ。 火のついたマッチを飲み込んだかのような感覚。だが喉が焼けるのではなく、熱が血管へと流れ込んでいく。 俺の血液が、溶岩に変わった。
ドォォォン!
俺の体からオレンジ色の光の柱が噴出し、空中にいた魔犬を吹き飛ばした。
俺は目を開けた。
世界がオレンジ色に染まっている。俺は自分の手を見た。肌色ではない。 皮膚は深い木炭のような灰色に変わり、冷却されたマグマのようにひび割れている。その亀裂の奥で、溶けた金色の光が脈動していた。
上を見上げる。髪は見えないが、音は聞こえる。焚き火のような音がする。 俺の髪は、揺らめく純粋な炎のたてがみに変わっていた。
「なんだ、これ……」 俺の声は違って聞こえた。低く、歪んでいる。まるで焼却炉の中から喋っているようだ。
魔犬は着地し、頭を振った。そいつは俺を見て混乱しているようだった。唸り声を上げたが、今度は躊躇している。
俺は立ち上がろうとした。体が軽い。信じられないほど力が漲っている。
そして、信じられないほど熱い。
「オーケー」俺は燃え盛る自分の手を見つめ、どもりながら言った。「俺はろうそくだ。俺は今、人間ろうそくになってる」
犬は、そんなこと知ったことかと判断したらしい。咆哮を上げ、さっきよりも速いスピードで突っ込んできた。
パニックが瞬時に戻ってきた。
「近寄るな!」 俺は叫び、無意識に掌を前に突き出した。
何も起こらないと思っていた。せいぜい火花が出るくらいだと。
ズドンッ!
俺の掌から、木の幹ほどもある太さの「炎のビーム」が噴出した。 反動があまりに凄まじく、俺は背後の壁まで吹き飛ばされた。
ガシャーン!
俺は壁に激突し、ズルズルと滑り落ちた。「いってぇ……」
俺は前方を見た。 通りが燃えている。瓦礫が燃えている。そして魔犬は……どこにもいない。
待て。俺は目を細めた。
犬がいた場所のアスファルトに、黒い焦げ跡が残っていた。 そして数メートル先、小さな赤く光る石――モンスターの核――が転がり、止まった。
「俺が……蒸発させたのか?」
俺は再び自分の手を見つめた。炎が美しく踊っている。恐ろしく、そしてゾクゾクする。高層ビルに風穴を開けられるような気がした。
「これが……神の力?」 俺は木炭のような顔で、引きつった笑みを浮かべた。
『警告:制限時間に到達しました』 『バッテリー残量低下』
「え、待って?」
『強制解除』
プシュー……
熱が瞬時に消えた。バスタブの栓を抜いたように、力が体から抜けていく。
俺は膝から崩れ落ち、空気を求めて喘いだ。肌はいつもの日焼けした色に戻り、頭の炎も消えた。 俺はアリアンに戻った。破れた制服を着た、汗だくで疲労困憊のただの高校生だ。
手首のブレスレットから煙が上がっている。鈍く、生気のない鉄塊に戻っていた。側面で小さな赤いランプが点滅している。
俺は地面に大の字になり、空を見上げた。心臓が、籠の中の鳥のように肋骨を叩いている。
「ロハンに言わないと」俺はゼーゼーと息をした。「あいつ、俺にプレステ奢れよな」
呼吸を整えるために、一瞬だけ目を閉じる。
「まあ、随分と雑な戦い方ね」
声がした。
俺は目を見開いた。 俺ひとりじゃなかった。
壁の上に立ち、退屈そうな表情で俺を見下ろしている少女がいた。
ウチの高校の制服を着ているが、改造してある――スカートは短く、袖はまくられている。髪は銀髪(染めてるのか?)で、風船ガムを噛んでいた。
その片手には、艶のある黒い日本刀が握られていた。
「エイムが悪すぎるわよ、新人」 彼女は風船ガムをパチンと割って言った。 「私の偵察ドローンまで丸焼きにするところだったじゃない」




