深海の蛇《サーペント・オブ・ザ・ディープ》
アラビア海の海面下、五千メートル。 そこに光はない。音もない。 あるのは圧力だけ――原子力潜水艦ですら、アルミ缶のように握り潰してしまうほどの絶対的な水圧だけだ。
だが、その暗闇の中で動くものがあった。
漆黒の水の中を、紫色の魔法の泡が降下していく。 泡の中には、変幻自在のマヤが立っていた。 彼女は退屈そうだった。深淵から覗き込んでくる、恐ろしい生体発光の目など気にも留めず、爪の手入れをしている。
「まだ着かないの?」彼女は独り言を言った。「塩と腐った魚の臭いがするわ」
泡は巨大な海底渓谷へと漂着した。阿修羅だけが知る、海底のギザギザした傷跡だ。 彼女が降下するにつれ、病的な緑色の光が闇を押し返した。
谷底は岩ではなかった。 骨だった。
数千年分のクジラの骨格、沈没船、そして死んだ海魔たちが、「死の絨毯」を形成している。 そしてその骨の山から突き出ているのは、黒い珊瑚で作られた宮殿だった。
マヤの泡が宮殿のバルコニーに着地し、弾けた。 彼女は瞬時に皮膚を変異させ、水中で呼吸するためのエラと水かきを作り出した。
「遅いぞ、肉の変身者」
声がした。 喉から発せられた声ではない。水そのものを振動させ、マヤの骨を揺さぶるような音だ。
宮殿の影から、一つの巨体がとぐろを解いた。 下半身は太く、エメラルドグリーンの蛇の尾であり、暗闇の奥へと何マイルも続いているように見えた。 上半身は筋肉質な四本腕の人型で、装甲のような鱗に覆われている。 頭部は悪夢そのものだ――コブラのフードを広げ、燃えるような黄色い目と、短剣ほどの大きさの牙を持っていた。
蛇神将軍・タクシャカ。蛇の王。
「渋滞が酷くてね」マヤは滑らかに言い、彼の方へ漂った。「地上の住人たちはお祭り騒ぎよ。自分たちが勝ったと思ってる」
タクシャカが笑った。唇から毒の泡が漏れる。 「落ちてくる石を止めたそうだな。猿にしては上出来だ。だが、ここでは……石など何の意味もない。ここでは、すべてが溺れる」
彼はズルズルと近づき、マヤを見下ろした。「持ってきたか?」
マヤはスーツのポケットから、盗み出した遺物を取り出した。エーテル技術社の金庫から奪った、青く光る石板だ。
「水神の神殿への鍵よ」彼女は微笑んだ。「水の化身は三千年間眠っている。もし少年が『聖杯』の水を飲めば、彼は潮の支配権を手に入れるわ」
タクシャカは彼女の手から石板をひったくった。爪が古代の表面を削る。 「水神め……」 彼は呪いの言葉のようにその名を吐き捨てた。 「我々を深海に繋ぎ止めた神。海が陸を飲み込むのを阻む障壁を作った神だ」
彼は地図を見た。黄色い目が細められる。 「この場所を知っているぞ。沈没都市。人間たちは神話だと思っている場所だ」
「少年とその仲間たちが向かっているわ」マヤは警告した。「彼らにはテクノロジーがある。潜水艦も。それに大地神の化身も」
「来させるがいい」タクシャカの声が轟いた。
彼は四本の腕の一本を上げた。難破船の黄金で作られた巨大なトライデント(三叉槍)を握っている。 彼はトライデントを骨の床に突き立てた。
ズゴォォォン……
海底が揺れた。 宮殿の背後、海溝の絶対的な闇の中で、何千もの「目」が開いた。 赤い目。青い目。黄色い目。 巨大な影が動き始めた。バスほどの大きさのサメ。棘のついた触手を持つ巨大イカ。ジュラ紀から一度も海面を見たことがない海竜たち。
「私の軍隊は腹を空かせている」 タクシャカは残忍な笑みを浮かべた。 「海は私の領域だ。ここでは火は燃えず、風は吹かず、土は沈むだけだ」
彼は深海から上昇していく怪物の軍団に背を向けた。
「包囲網を敷け」蛇の王は命じた。「神殿には何者も近づけさせるな。もし少年が私の海につま先でも浸したら……その骨から肉を削ぎ落としてやれ」
マヤは、微かな緑の光を遮りながら上昇していく怪物たちを見上げ、微笑んだ。




