水神《ヴァルナ》の涙
高級な病院特有の消毒液の匂いが、俺は嫌いになり始めていた。
ここ2ヶ月で2回目だ。俺はエーテル技術社が出資する豪華な個室のベッドで、生命維持装置に繋がれて目を覚ました 。 全身が巨大なアザになったような気分だ。骨の奥深くまで痛むのは、大地神の超質量の余韻だろう 。
俺は起き上がろうとして呻いた。「痛っ……」
「動かないで、巨神」声がした。「背骨が3インチ(約7.6センチ)圧縮されてたのよ。まだ元に戻ろうとしてる最中なんだから」
リアが窓際でタブレットを操作していた。 ヴィクラムは壁に寄りかかっていた。またしても新品のスーツを着こなしているが、片腕は三角巾で吊っている 。
「全員……助かったのか?」俺はしわがれた声で尋ねた。喉が砂漠のように乾いている 。
「死傷者はゼロだ」 ヴィクラムは言った。その顔には珍しく、心からの安堵の色があった 。 「対魔特務隊がスタジアムを固定した。メディアは今回の件を『音響共鳴による構造的欠陥』と報じている。俺たちは『ジュニア救助ボランティア』扱いだそうだ」
「ボランティア?」俺は鼻を鳴らした。「給料寄越せってんだ」
「親父がPRを操作している」ヴィクラムは薄く笑った。「心配するな、ボーナスは出る。だが、もっと大きな問題がある」
リアがタブレットを俺に向けた。 第1章で訪れた、エーテル技術タワーの地下金庫の監視カメラ映像だ。ヴィクラムの父親が金庫を開けている。 中は空っぽだった 。
「私たちがスタジアムを受け止めるのに忙しかった間」リアは暗い顔で言った。「マヤはショッピングを楽しんでいたみたいね」
「変幻自在か」俺は悟った。「あの混乱を囮に使ったんだ」
「彼女は生体認証スキャナーを突破したわ。本来なら不可能なはずなのに」ヴィクラムの声が沈んだ。「盗まれたのは一点だけ。グジャラート沖の海底遺跡から回収された、古代のサファイアの石板だ」
リアが石板の画像を拡大した。それは微かな青いエネルギーを放っていた 。
「これは地図よ、アリアン。座標は、特定の月の満ち欠けの時だけ現れる隠された寺院を示している。――**水神**の寺院。水と宇宙の秩序を司る神よ」
俺は自分のブレスレットを見た。水神の青いアイコンは暗いままだ。「阿修羅王は、水の化身を狙っているのか」
「もしあんたより先に奴らが手に入れたら」リアは言った。「街が沈むだけじゃ済まないわ。大陸ごと沈められる」
ヴィクラムが壁から背を離した。「休め。歩けるようになったらすぐに出発だ。第3巻はトーナメントじゃない。『レース』になるぞ」
二人は部屋を出ようとした。 「ああ、そうだ」ヴィクラムはドアの前で立ち止まり、ニヤリと悪戯っぽく笑った。「もう一人、面会人が来てるぞ。ヘマするなよ、松明頭」
ヴィクラムとリアが出て行き、ドアが閉まる。
俺はドアを見つめた。ヘマって何のことだ?
数秒後、ドアがゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、イシャだった 。
彼女はセント・ライオンハートの制服を着ていなかった。普通の私服――柔らかそうな青いセーターとジーンズ姿だ。 マヤに刺された左腕には分厚い包帯が巻かれ、吊られている 。
彼女は居心地が悪そうだった。あの氷のような傲慢さは消え、ぎこちない躊躇いがある 。
「よう」彼女は静かに言った。目は合わせない。
「よう」俺は背筋を伸ばそうとして、痛みに顔をしかめた。「いい腕だな」
「あんたの全身包帯よりはマシよ」彼女は反射的に言い返し、部屋に入ってきた。
彼女はベッドサイドのテーブルの前に立った。手に持っているのは『シュガー・ラッシュ』――前に行ったカフェの紙袋だ。 彼女は中身をテーブルの上に「ドン」と置いた。
『レインボー・ユニコーン・パフェ』だった。 スプリンクルたっぷりの、巨大で、馬鹿げたピンク色のやつだ 。
「私……食べきれなくて」彼女は嘘をついた。耳がピンク色になっている。「溶けちゃうから。あんた、こういう砂糖のゴミみたいなの、好きでしょ?」
俺はパフェを見た。彼女を見た。「俺にアイスクリームを持ってきてくれたのか?」
「変な勘違いしないでよ、観光客」彼女は早口で言ったが、そこには以前のような冷たさはなかった 。
彼女は椅子を引き寄せて座り、ようやく俺を見た。その瞳は、凍った湖のように透き通っていた 。
一瞬の沈黙。アリーナでの敵対的な沈黙とは違う。重いが……悪い重さじゃない 。
「あんた、支えたわね」彼女は唐突に囁いた。「8万人を。一人で支え切った」
「助けがあったからな」俺は彼女の包帯を巻いた肩を見て言った。「俺のために刃を受けたろ、イシャ。なんでだ?」
彼女は視線を逸らし、病院の毛布の模様を指でなぞった。
「アリーナで……あんたが微動だにせず、私の最強の攻撃を受け止めた時。あんたは栄光のために戦ってなかった。みんなの盾になるために戦ってた」
彼女は顔を上げ、俺を見つめた。その眼差しは強烈で、突き刺さるようだった。
「私、あんたのことを誤解してたわ、アリアン。あんたは観光客じゃない。戦士よ。そして……私は強さを尊敬するの」
彼女は無事な方の手を伸ばした。殴られるのかと思った。 代わりに、彼女はそっと俺の額に触れ、熱を測った 。
彼女の肌は信じられないほど柔らかかった。そして、冷たかった。熱のある俺の肌には、それが最高に気持ちよかった。 心臓が、馬鹿みたいに跳ねた 。
「まだ熱がある」彼女は呟いた。顔が近い。ミントと冬の空気のような、彼女のシャンプーの香りがした 。
彼女は自分がどれだけ近づいているかに気づき、火傷したかのようにパッと手を引っ込めた。 白い頬が、一瞬で深紅に染まる 。
「とにかく!」彼女は勢いよく立ち上がり、椅子を倒しかけた。「溶ける前に食べなさいよ! 私は……その、氷の用事があるから行くわ」
彼女はくるりと背を向け、ドアに向かって競歩のように歩き出した。
「イシャ」俺は呼び止めた 。
彼女はドアノブに手をかけたまま止まった。振り返らない。
「ありがとう。助けてくれて。それと、砂糖も」
彼女の肩の力が少し抜けるのが見えた。
「次のミッションで死なないでよ、アリアン」彼女は囁いた。「新しい盾役を育てるのは面倒なんだから」
彼女はドアから滑り出るように出て行った。
俺は枕に体を預け、閉じたドアを見つめた。締まりのないニヤけた顔になっているのが自分でもわかった 。 俺は手を伸ばし、あの馬鹿げたユニコーン・パフェのスプーンを掴んだ。
体は痛い。阿修羅王に狙われている。悪魔の軍団より先に、海底神殿を見つけなきゃならない 。
だけど、砂糖たっぷりのピンク色のアイスを一口食べた時、俺は気づいた。
この悪夢のような日々が始まって以来初めて……俺は、明日が来るのを楽しみにしていた 。




