炎対氷
アリーナへの道のりは、前回とは違っていた。 8万人の観衆の歓声が、ただのノイズ(雑音)のように聞こえる 。
「集中しろ、アリアン」 隣を歩くヴィクラムが鋭く言った。彼は観衆を見ていない。スタジアムの警備員たちをスキャンし、その手はいつでもサイドアーム(拳銃)を抜ける位置にあった 。
「イシャ相手に一秒でも気を抜いてみろ。地面に倒れる前にアイスキャンディーにされるぞ」
「わかってる、わかってるよ」俺は呟き、視線を落ち着きなく動かした 。
(あの警備員、俺のことを見過ぎじゃないか? あのカメラマンは本物か?) リアが後ろを歩いているが、あれは本当にリアなのか?
(やめろ)俺は自分に言い聞かせた。(変幻自在の狙いは俺を疑心暗鬼にさせることだ。奴の思い通りになるな)
俺たちは中央のプラットフォームに上がった。 アリーナの景色が変わっていた。 準決勝のために、ホログラム投影機が新たな環境を作り出していたのだ。 『ツンドラ(凍土)』 。
芝生のフィールドは消え、凸凹した氷のシートと、ギザギザの雪山に変わっていた 。 気温はすでに氷点下だ。吐く息が分厚い白い雲となって目の前に広がる 。
氷原の反対側に立っていたのは、チーム・ライオンハート 。 イシャが先頭に立っていた。彼女はもう大きめのパーカーを着てはいなかった 。 白と金の戦闘用ユニフォームに身を包み、まるで大理石から彫り出された戦乙女のようだった。彼女の息は白くならない 。 まるで、寒さの方が彼女に触れるのを恐れているかのようだ 。
「キャプテン、中央へ!」 審判が怒鳴った。彼は分厚いコートを着ているにもかかわらず、少し震えていた 。
ヴィクラムとイシャが中央へ歩み出る。
「標準トーナメント・ルールだ」審判が言った。「ノックアウト、リングアウト、または降参により決着。致死性の攻撃は禁止」 彼はイシャをじろりと見た。「永久的な凍傷も禁止だぞ、キャプテン・イシャ」
イシャは瞬きもしなかった。「凍傷になるほど弱いなら、ここにいるべきじゃないわ」
彼女は視線を俺に向けた。「ただの観光客じゃないって証明できるのかしら、松明頭?」
俺は拳を握りしめた。怒りが、一瞬だけパラノイアを焼き払った。 「その態度ごと溶かしてやるよ」
『試合開始!』
俺はヴィクラムの指示を待たなかった。ダイヤルを叩きつける。
『化身:炎神』
ボォォッ!
俺は爆発的に炎上した。ブーツの下の氷が一瞬で蒸気となり、激しく音を立てる 。 肌を刺す寒さに対し、炎の熱が心地よかった 。
「炎神、最大出力!」俺は咆哮した 。
俺は両掌を突き出した。 粘液三兄弟の攻撃に対抗するために編み出した、炎の巨大な波――『火炎津波』が、凍てついた戦場を越えてイシャへと迫る 。
観客がそのスペクタクルに沸いた。見た目は派手だ。力も感じる 。
イシャは動かなかった。手さえ上げなかった。 彼女はただ、氷の上で足を「ドン」と踏み鳴らしただけだった 。
パキィィィン!
彼女の目の前の地面から、高さ10メートルにもなる純粋な青い氷河の壁が噴出した 。
ジュワァァァァァァッ!
俺の炎の波が氷壁に激突した。 その瞬間、視界を奪うほどの白い蒸気が爆発的に発生し、アリーナ全体を埋め尽くした 。 視界ゼロ 。
「見えない!」俺は叫び、熱い蒸気にむせ返った 。
「位置を維持しろ!」インターコムからヴィクラムの声。「リア、センサーだ!」
「熱干渉が酷すぎて数値が出ない!」リアの声が張り詰めている。「蒸気のせいで彼女のシグネチャーをロックできないわ!」
俺はそこに立っていた。白い霧に囲まれ、体の炎が明滅している。不気味なほど静かだった 。
(どこだ? 側面か? 上か?)
その時。 渦巻く蒸気の切れ間から、観客席に「何か」が見えた 。
下から3列目。出口トンネル近くのVIPセクション。 ボサボサの黒髪に、黄色いリュックサックを背負った少年 。
周囲の観客が歓声を上げている中、彼だけが静止していた 。 彼は俺を真っ直ぐに見ていた。 そして、ゆっくりと、念入りに、「さよなら」の手を振っていた 。
心臓が止まった。 (あいつだ。偽物。あいつがここにいる)
「ヴィクラム!」俺は叫んだ。戦いのことなど忘れ、スタンドを指差した。「あそこだ! スタンドにいる! 変幻自在だ!」
「アリアン、敵を見ろ!」ヴィクラムが怒鳴った。「集中しろ!」
だが無理だった。パラノイアが津波のように押し寄せてくる。 (本当にあいつか? ただの偶然似ている子供か? もし俺があいつを攻撃したら失格になる。もし無視したら……)
俺は躊躇した。 そして、イシャのようなエースにとって、その一瞬の躊躇こそが必要な全てだった 。
周囲の蒸気が突如として激しく渦巻いた。 気温が「熱帯」から「絶対零度」へと、心拍一つ分の時間で急降下する 。
「遅い」 冷たい声が、耳元で囁いた 。
俺は振り返り、燃える拳を振り上げた。 イシャはそこにいた。側面を突いたのではない 。 彼女は蒸気の中を堂々と歩いてきたのだ。ユニフォームは霜に覆われ、瞳は青く輝いていた 。
彼女は俺の燃える胸に、そっと掌を置いた 。
「氷河の棺」
それは「冷たさ」ではなかった。「存在の欠落」だった 。
パキパキパキッ!
瞬時に、分厚い青い氷が俺の体を包み込んだ。 炎神の炎が抵抗する暇もなく、窒息させられる 。 腕が脇腹に凍りつき、足が地面に凍りつく 。 氷は首を這い上がり、口を塞ぎ、俺をダイヤモンドのように硬い氷塊の中に閉じ込めた 。
氷の中から恐怖に目を見開く俺の「目」だけが、外を覗いていた 。
神器が赤く点滅する。
『致命的エラー:コア温度低下』 『強制シャットダウン』
炎が完全に消えた。俺はただのアリアンに戻り、氷のキューブの中で制御不能な震えに襲われていた 。
イシャは一歩下がり、自分の作品を鑑賞した。彼女は俺の顔の近くの氷をコツコツと叩いた 。
「言ったでしょ」氷越しにくぐもった声で、彼女は囁いた。「借り物の力だって。集中力を失えば、全てを失うのよ」
彼女は審判を振り返った。「彼は拘束された。判定を」
審判は呆然としていた。 「第1ラウンド勝者……セント・ライオンハート!!」
観客が轟いた。だが、俺には自分の歯がガチガチと鳴る音しか聞こえなかった。 俺はスタンドを見上げた 。
黄色いリュックサックの少年は、もういなかった 。




