第9話 謝罪と熱狂、そして開闢の音
第9話 謝罪と熱狂、そして開闢の音
農業都市カマに来て二日目の朝を迎えた。
窓から差し込む朝日は昨日と同様に強く、今日も暑くなることを予感させたが、僕の心は不思議と晴れやかだった。
昨夜は、代官であるモカ叔母様の屋敷に泊めていただいた。
屋敷はサーナス家本邸に比べればこぢんまりとしていたが、手入れが行き届いており、どこか温かい家庭の匂いがした。
叔母様の夫であるロム叔父様は、無精髭の似合う豪快かつ心優しい人物で、生まれたばかりの娘モナちゃんを抱いて「俺に似なくてよかった」と笑っていたのが印象的だった。
前世では知ることのなかった「親戚付き合い」という温もり。それが、これからの大仕事に向かう僕の背中を押してくれている気がする。
「よし、行こう」
身支度を整え、僕は部屋を出た。
今日は、サーナス侯爵領の歴史が変わる日だ。
†
僕たち一行を乗せた馬車は、領地の東端を流れるバーノア川の河川敷に到着した。
馬車の扉が開いた瞬間、鼓膜を震わせたのは、ゴーッという激しい川の流れる音と、それを上回るほどの人々の熱気だった。
「これは……すごい」
馬車を降りた僕は、目の前に広がる光景に圧倒された。
視界の限り、人、人、人。
鍬やスコップ、ツルハシを手にした農民たちが、黒い波のように押し寄せていた。
ここ「第一区画(スタート地点)」に集まっただけで約五千人。一八キロメートルに及ぶ水路予定地の各区画に配置された人員を含めれば、総勢二万人にも上るという。
働き盛りの男たちだけでなく、女性や老人、さらにはまだ十代前半と思しき子供たちの姿もある。彼らの目は一様に真剣で、そして切実だった。
この工事が失敗すれば、明日からの生活がない。その危機感が、これだけの動員を可能にしたのだ。
「かなりの人が集まりましたね、父様」
「あぁ。これほどとは……民もまた、必死なのだな」
父サノスもまた、予想以上の規模に驚きを隠せない様子だった。
ざわめきが波紋のように広がっていく。領主である父の登場に、民衆の視線が集まる。
緊張感が走る中、父が不意に僕の肩を叩いた。
「アルス。お前が挨拶をしろ」
「えっ?」
「この水路計画の発案者は、他ならぬお前だ。民に希望を示し、導くのは発案者の責任であり、権利だ」
父の目は真剣だった。
これは試練だ。次期領主として、そしてこのプロジェクトのリーダーとして、民心を掌握できるか。
だが、僕はまだ十歳の子供だ。
周囲の民衆からも、「おい、あんな子供が出てきたぞ」「領主様の息子か?」「遊んでる場合じゃねぇんだぞ」といった不安げな囁き声が聞こえてくる。
それでも、やるしかない。
僕は覚悟を決め、即席の演説台として積まれた木箱の上に登った。
二万の瞳(ここでは五千人分だが)が、一斉に僕を射抜く。膝が震えそうになるのを、下腹に力を入れて堪えた。
僕は一度大きく深呼吸をし、声を張り上げた。
「集まってくれた領民の皆さん! 本日は急な呼びかけにも関わらず、これほど多くの方が駆けつけてくれたことに感謝します!」
子供特有の高い声だが、魔力で少し拡声させたその声は、河川敷の隅々まで響き渡った。ざわめきが止む。
「僕はサーナス侯爵家長男、アルス・フォン・サーナスです。今回の水路建設プロジェクトの発案者でもあります」
会場がどよめいた。「あんな子供が発案者だと?」「まさか」という疑念の声。
僕はその反応を予想していた。だからこそ、次に取るべき行動を決めていた。
僕は帽子を取り、民衆に向かって深々と頭を下げたのだ。
「――まずは皆さんに、心からお詫びを申し上げます」
静寂が落ちた。
貴族が、それも大貴族である侯爵家の嫡男が、平民に向かって頭を下げる。
この厳格な身分社会において、それはあり得ない光景だった。
背後でセシルが息を呑む気配がした。父も驚いているだろう。だが、僕は頭を上げずに言葉を続けた。
「本来であれば、皆さんが安心して暮らせるよう、このような事態になる前に治水を行うのが領主一族の責務でした。しかし、私たちは耕作地の拡大ばかりに目を向け、水の確保という根本的な問題を後回しにしてきました。その認識の甘さが、今回の危機を招いてしまったのです。本当に、申し訳ありませんでした!」
嘘偽りのない、謝罪。
それは僕の本心であり、同時に現代日本で培った「誠意」の示し方だった。上に立つ者こそ、過ちを認め、責任を取る姿勢を見せなければ、誰もついてこない。
長い沈黙の後、僕はゆっくりと顔を上げた。
民衆の表情が変わっていた。
疑念や不安の色が消え、そこには「驚愕」と、そして「信頼」の灯火が宿っていた。
自分たちの苦しみを理解し、頭を下げてくれた。その事実が、彼らの心を揺さぶったのだ。
「ですが! 後悔していても雨は降りません! だから僕は、皆さんの力を借りたいのです!」
僕はバーノア川を、そしてその先に続く枯れた大地を指差した。
「僕たちには魔法があります! この大地を切り拓く力があります! 皆さんの土魔法で、この川の水を街まで運びたいのです! どうか、僕に力を貸してください! 必ず、この地に水を満たしてみせます!」
一拍の間。
そして、爆発するような歓声が巻き起こった。
「おおおおっ!!」
「坊ちゃん、いや、アルス様についても行くぞ!」
「やってやろうじゃねぇか!」
「俺たちの畑を守るんだ!!」
空気が一変した。
諦めに支配されていた集団が、一つの目的を持った「チーム」へと変わった瞬間だった。
「アルス、良い演説だったな。見事だ」
「ほんとびっくりしたわ! 本当に十歳なの? 末恐ろしい子ね」
「アルス様、ご立派でした。このセシル、涙が出る思いでございます」
壇上から降りると、父たちが満面の笑みで迎えてくれた。
僕は安堵で力が抜けそうになるのをこらえ、ニカッと笑ってみせた。
「さぁ、ここからが本番ですよ!」
†
演説が終わると同時に、現場は巨大な工事現場へと変貌した。
指揮を執るのはモカ叔母様の部下たちだが、技術的な手本を示すのは僕の役目だ。
「まずは僕が手本を見せます! イメージしてください。土が水のように柔らかくなり、そして鉄のように固くなる様子を!」
僕は未開墾の荒れ地に向かって手をかざした。
脳裏に描くのは、前世で見たコンクリート製のU字溝。無駄がなく、水流を阻害しない滑らかな曲線。
「――『掘削』!」
詠唱と共に魔力を流し込む。
ズズズ、という地鳴りと共に、幅十メートル、深さ五メートルほどの土砂が、まるでスプーンで掬われたアイスクリームのように綺麗に排除された。
土煙すら立たない、完璧な掘削。
「続けて――『硬質化』!」
露出した赤土の断面に手をかざす。
土の粒子が結合し、圧縮され、瞬く間に灰色の岩盤へと変質していく。叩けばカンカンと高い音が鳴るほどの硬度。まさに魔法のコンクリートだ。
「す、すげぇ……」
「あんなに綺麗に、一瞬で……!」
周囲の農民たちが口を開けて見入っている。
「さあ、皆さんも続いてください! 形が少し崩れても構いません、とにかく掘って、固めるんです!」
僕の合図で、二万人の魔法工事が始まった。
「『掘削』!」「『掘削』!」「『硬質化』!」
あちこちで詠唱が響き渡る。
魔力が多い者が大きく掘り進み、器用な者が形を整え、魔力が少ない者が仕上げの硬質化を行う。
魔法を使えない子供たちも、掘り出された土を運んだり、水を配ったりして走り回っている。
それは圧巻の光景だった。
重機などない。だが、ここには人の意志と魔法がある。
大地がみるみるうちに形を変え、巨大な貯水池が姿を現し、長い水路が地平線の彼方へと伸びていく。
夕暮れ時、作業終了の鐘が鳴る頃には、信じられない成果が出ていた。
バーノア川の水を一時的に貯める「第一貯水池」は、深さ十メートル、幅五十メートルという巨大なプールとして完成していた。
そしてメインの水路も、予定の一八キロメートルのうち、なんと一二キロメートル地点まで到達していたのだ。
「報告します! 第三区画、第四区画とも予定を大幅に前倒しで完了! 残るは末端の六キロと、第二貯水池、そして水門の設置のみです!」
伝令の報告に、現場は再び歓声に包まれた。
「あれ? もしかして……」
僕は沈みゆく夕日を見つめながら、呆然と呟いた。
「明日で、完成しちゃう?」
現代日本なら、計画策定から完成まで数年はかかるであろう大規模公共事業。
それが、たった二日で終わろうとしている。
魔法という力の偉大さ、そして人の団結力の凄まじさに、僕は改めて身震いした。
このペースなら、明日の昼には水が通る。
カマの街に、命の水が届くのだ。
心地よい疲労感と共に、僕は泥だらけの手を見つめた。
明日、この乾いた大地に水が流れる瞬間を想像すると、胸の高鳴りが止まらなかった。




