第4話 知識という名の最強武器
第4話
季節は冬から春へと移ろおうとしていた。
窓から差し込む日差しには微かな温もりが混じり始め、庭園の木々も新たな芽吹きの準備を始めている。
あの日、僕――アルス・フォン・サーナスが高熱に倒れてから数週間。
僕の体調は完全に回復し、あふれんばかりの活力が身体の芯から湧き上がっていた。
「アルス、お行儀が悪いですよ。背筋を伸ばして」
「はい、母様」
朝のダイニングルームに、食器が触れ合う軽やかな音が響く。
純白のテーブルクロスの上には、焼きたてのパンの芳ばしい香りと、新鮮な野菜のサラダ、そして果実水が並んでいる。
向かいに座る母、ルナ・フォン・サーナスは今日も変わらず美しい。貴族の朝食という優雅な時間を体現しているかのようだ。
父であるサノス・フォン・サーナスは、この席にはいない。
彼はこのサーナス侯爵家の当主であると同時に、マリアナ王国の法務大臣という重職を担っている。僕が倒れたという報せを受けて飛んで帰ってきてくれたが、僕の回復を見届けるやいなや、溜まりに溜まった公務を処理するために王都サルサへと戻っていった。
「王都に戻りたくない、もっとアルスの傍にいたい」と駄々をこねる父を、セシルが半ば強制的に馬車へ押し込んでいた光景は、今思い出しても少し微笑ましい。
「ごちそうさまでした」
「あら、もういいのですか? これからはお勉強もしっかりしないといけませんから、もっとお食べなさい」
「いえ、お腹いっぱいです。それに、セシルが書斎で待っていますから」
僕はナプキンで口元を拭うと、席を立った。
そう、一週間前から僕の「教育」が始まっているのだ。
この世界における貴族の教育水準は高い。五歳から読み書き計算、そして作法を叩き込まれ、十歳になる頃には相応の教養を求められる。
だが、僕には秘密の武器があった。
重厚な扉を開け、インクと古紙の混ざった独特の香りが漂う書斎へと足を踏み入れる。
そこには、すでに準備を整えた執事のセシルが待っていた。
「おはようございます、アルス様。体調はいかがですかな」
「おはようセシル。万全だよ。昨日の続きからだよね?」
「はい。本日は王立学園入学に向けた、より高度な算術と語学の復習を行う予定ですが……」
セシルは少し困ったような、それでいて嬉しさを隠しきれないような顔で、積み上げられた教材の山を見た。
「正直に申し上げまして、私の方が準備に追いつかない状況でございます」
セシルがそうこぼすのも無理はない。
僕はこの一週間で、本来なら数年かけて学ぶはずのカリキュラムを全て消化してしまったのだから。
理由は単純だ。
まず第一に、僕の中身が大学受験を控えた日本の高校生であること。中学校レベルの数学や論理的思考など、造作もないことだった。
そして第二に――これが最も大きいのだが――この世界の「文字」にある。
神様、創造神ザインの「ささやかなプレゼント」という言葉を思い出す。
教科書を開けば、そこにあるのは見慣れた「ひらがな」「カタカナ」「漢字」の羅列だった。文法に至るまで日本語そのものなのだ。
異世界転生の最大の障壁となる「言語の壁」が、最初から撤廃されている。これは学習速度においてチート級のアドバンテージだった。
「アルス様、この難解な方程式も、すでに解かれておいでですな……。この歳にしてここまでこなされるとは、まさに神童、いや奇才ですぞ。サーナス侯爵家の未来は、この先百年は安泰でございます。ハッハッハッハ」
セシルの笑い声が書斎に響く。
彼は本気で感服している様子だ。王立学園の入試レベルといえば、この国の十八歳が到達すべき知性の基準点。それを十歳の子供が、あくび混じりにクリアしてしまったのだから。
「セシルの教え方が上手だからだよ。すごく分かりやすかった」
僕は無邪気な子供の笑みを浮かべてみせた。
まさか「前世で義務教育を修了しているので簡単すぎます」とは言えない。あくまで「覚えの良い子供」を演じる必要がある。
「さて、セシル。これでもう入学に必要な勉強は終わってしまったわけだね?」
「左様でございます。これ以上教えるとなると、専門的な研究分野になってしまいますな」
手持ち無沙汰になってしまった。
だが、僕にはまだ知らなければならないことが山ほどある。
計算ドリルや国語の書き取りではなく、もっと実用的で、領地経営に直結する知識だ。
「ねぇセシル。時間が余ったのなら、この国の歴史や地理について教えてほしいな」
「ほう、歴史と地理でございますか」
「うん。僕、もっとこの広い世界のことが知りたいんだ」
僕の申し出に、セシルはモノクルの位置を直しながら満足げに頷いた。
「素晴らしい心がけです。統治者となる者にとって、地を知り歴史を知ることは不可欠。よろしいでしょう、今日は予定を変更して、マリアナ王国の全容について講義いたしましょう」
「ほんとに! やったー!!」
僕は子供らしく歓声を上げたが、内心は冷静に情報を求めていた。
セシルが書棚の奥から、分厚く装丁された大型の地図帳と歴史書を取り出してくる。
机の上に広げられた羊皮紙の地図。そこには、僕がこれから生きていく世界の姿が描かれていた。
「では、まず基本から参りましょう」
セシルの講義は実に興味深いものだった。
退屈な年号の暗記ではなく、貴族社会の構造と、この国の成り立ちについての解説だ。
「現在、マリアナ王国には騎士爵から公爵、そして名誉貴族を含めて八十の貴族家が存在します」
セシルが指し棒で家系図のようなチャートを示した。
内訳は騎士爵家が二十六、男爵家が十八、子爵家が十二、伯爵家が八、そして我がサーナス家を含む侯爵家が五。頂点に位置する公爵家は二つのみ。
加えて、一代限りの名誉貴族が九家存在し、これらは名誉子爵として扱われるという。
「騎士爵や名誉貴族の多くは領地を持てず、官僚や代官として働きます。領地経営を行うのは主に男爵以上の家柄。その中でも、伯爵家や侯爵家は国政の中枢を担う大臣を輩出する名門です」
「父様が法務大臣を務めているように、だね」
「その通りでございます。そして公爵家は王室の血筋に近い特別な家柄ですが、現在大公家は不在。実質的に王族を除く権力者としては、公爵家が筆頭となります」
なるほど、ピラミッド構造は理解できた。
サーナス侯爵家は、そのピラミッドのかなり上層、トップテンに入る権力を持っていることになる。これは責任重大だ。
「次に、国の規模についてです。マリアナ王国の総人口は約八百万人。周辺諸国と比較しても大国と言えます。中でも王都サルサは百万を超える人々が暮らす巨大都市です」
八百万人。前世の日本の都道府県と比較しても、かなりの規模だ。中世レベルの文明水準でこの人口を支えているとすれば、農業生産力はそれなりに高いのだろうか。
「そして、ここサーナス侯爵領についてですが……」
セシルが地図の一点を指し示した。
王都サルサから西へ。コノマス領、セムス領という二つの領地を経た先に、我が領土がある。
「西には険しい山地が連なり、北と東には肥沃な平野。そして南は広大な海に面しております」
山、平野、海。
資源の宝庫じゃないか。
「領全体の人口は約六十万人。これは国内第三位の規模です。領都である『スパム』は領の中央に位置し、人口三十二万人を擁します」
「領都スパム……」
「はい。北と東の農作物はもとより、南の漁業、そして西の山地から産出される鉄鉱石を用いた鉄鋼業。これら全てが集約される経済都市として発展しております」
農業、漁業、鉄鋼業。
バランスが良いなんてものではない。一次産業から加工業まで自前で完結できるポテンシャルがある。
話を聞く限り、サーナス領は盤石で豊かな土地に思えた。
だが、本当にそうだろうか?
数字上のデータと、実際の民の暮らしには乖離があるものだ。前世の知識がそう告げている。
「ありがとう、セシル。すごくよく分かったよ」
僕は地図上の領都スパムを指でなぞりながら、頭の中に知識を刻み込んだ。
それから三ヶ月。
僕は貪るように学び続けた。
この世界の気候変動、周辺国の情勢、過去の戦争の歴史、特産品の流通ルート。
書斎にある書物を片っ端から読み漁り、セシルを質問攻めにした。
季節が完全に春に変わる頃には、僕の頭の中にはマリアナ王国の、そしてサーナス領の精緻なデータベースが構築されていた。
しかし、この時の僕はまだ知らなかった。
この詰め込んだ知識が、単なる教養ではなく、領地を救うための「武器」としてすぐに役立つ日が来ることを。
「さて、アルス様。座学はこれくらいにして、明日は実際に領内の視察に参りましょうか」
「視察?」
「はい。旦那様が王都からお戻りになります。次期当主として、領地の空気を肌で感じるのも勉強でございますよ」
セシルの提案に、僕は胸を高鳴らせた。
いよいよだ。本の中の世界から、現実の世界へ。
そこで僕は、この領地の「真実」を目にすることになる。




