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転生貴族は異世界を豊かにします。  作者: Nami


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第3話 転生貴族の優雅で騒がしい目覚め

第3話

意識の底から浮上する感覚は、泥沼から体を引き抜くような重苦しさを伴っていた。

先ほどまでの神界の清浄な空気とは違う。

鼻腔をくすぐるのは、甘く優雅な花の香り。そして、肌に触れる高級な布地の滑らかな感触。

瞼の裏で明滅していた白い光の残滓が消え、代わりに現実の色彩が飛び込んでくる。

「……ん、ぅ……」

重い瞼をこじ開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、高い天井だった。

白漆喰で丁寧に塗り込められた天井には、職人の手による精緻なレリーフが施されている。その中心からは、陽光を浴びて七色に煌めくクリスタルのシャンデリアが吊り下げられていた。

視線をゆっくりと横へ巡らせる。

豪奢なドレープのカーテンが引かれた大きな窓。そこから差し込む柔らかな午後の日差しが、部屋全体を温かく包み込んでいた。窓の外には、絵画のように美しい緑の庭園が見て取れる。

(ここは……どこだ?)

神様との対話を終え、転生したはずだ。

だが、赤ん坊として生まれた記憶がない。いや、ある。

頭の中で、二つの異なる記憶が激流のように混ざり合おうとしていた。

日本の高校生、七草翔太としての記憶。

そして、この世界で十年を生きてきた「僕」の記憶。

脳が焼き切れるような熱っぽさと、情報の奔流にめまいを覚える。

「ここは一体、どこなんだ……!?」

乾いた喉から絞り出した声は、予想よりも高く、そして幼かった。

叫び声は静寂な室内に大きく反響した。

自分の声の大きさに驚いている暇はなかった。その直後、部屋の重厚なマホガニー製の扉の向こうから、屋敷の静けさを打ち破るような慌ただしい足音が近づいてきたからだ。

ドタドタドタッ、という品のない音は、扉の前で唐突に止まった。

一呼吸置く間もなく、ノックの音が響き、返事も待たずに扉が勢いよく開け放たれる。

「アルス! 目が覚めたのですね!!」

飛び込んできたのは、一人の女性だった。

濡れたような艶を持つ長い黒髪。透き通るような白い肌。宝石を散りばめたような豪奢なドレスを纏ったその姿は、一目で高貴な身分だと分かる。そして何より、息を呑むほどの美女だった。

「アルス! ああ、よかった……! わかる? あなたの母よ!?」

女性はベッドに駆け寄るなり、起き上がろうとした僕の体をその細い腕で力任せに抱きすくめた。

花の香りが爆発的に広がる。柔らかい感触。だが、それ以上に力が強い。

「母、様……わかります、わかりますから……離して……くるし、い……」

肋骨が悲鳴を上げそうだ。

記憶の彼方から、彼女の情報が浮かび上がってくる。

ルナ・フォン・サーナス。僕の母親だ。普段は淑やかな貴婦人だが、息子である僕のこととなるとリミッターが外れる。

「は、離してください……死んじゃう……」

僕の抵抗も虚しく、母の抱擁は強まるばかりだ。

酸欠で意識が飛びかけたその時、開けっ放しの扉から、落ち着いた初老の男性が入ってきた。

銀髪を撫でつけ、丸眼鏡の奥に理知的な瞳を光らせたその人物は、燕尾服を完璧に着こなしている。

「奥様。アルス様が呼吸困難で顔を青くされています。抱擁はそのくらいになさいませ。病み上がりの体に障ります」

冷静かつ的確な助言。

ハッとしたように母の腕が緩んだ。

「あ……そ、そうね。ごめんなさい、アルス。あまりに嬉しくて……体調は、大丈夫?」

ようやく解放された僕は、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

ゼェゼェと息を整えながら、心配そうに覗き込む母の顔を見る。その大きな瞳には涙が今にも溢れんばかりに溜まっていた。

「はい、母様。大丈夫です……少し、体が重いですが」

「そう……本当によかった。あなたは十歳の誕生日のパーティーのあと、突然高熱を出して倒れてしまったのよ。三日間も目を覚まさなくて……お医者様も匙を投げかけていたの。私、もうどうしたらいいかと……」

母の声が震えている。

なるほど、神様が言っていた「十歳で記憶が戻る」というプロセスは、この世界では高熱による昏睡として処理されたわけか。三日間の高熱。それは記憶の統合にかかる負荷だったのかもしれない。

「奥様のおっしゃる通りです。私どもも肝を冷やしましたぞ、坊ちゃん」

執事の男性が眼鏡の位置を直しながら、安堵の息を漏らした。

セシル。我がサーナス侯爵家の家令であり、父様の右腕とも呼べる優秀な執事だ。

「セシル、心配をかけてすまない。母様も……申し訳ありませんでした。もう、大丈夫です」

僕が努めてしっかりとした口調で告げると、母の表情がくしゃりと歪んだ。

我慢の限界だったのだろう。

「うぅ……アルスぅぅ……!」

「あ、母様!?」

再び、涙腺の決壊した母による第二波の抱擁が襲いかかってきた。

さっきよりも力が強い。

これは本気で意識を失うかもしれない。そう覚悟した時、救世主が現れた。

「ルナ、いい加減にしてやりなさい。アルスがまた気絶してしまうだろう」

威厳のある低い声。

部屋に入ってきたのは、精悍な顔立ちをした長身の男性だった。

漆黒の髪に、鋭さと優しさを兼ね備えた瞳。三十二歳という若さながら、王国の法務大臣を務める切れ者。

サノス・フォン・サーナス。僕の父であり、このサーナス侯爵家の当主だ。

「あなた……でも、アルスが……!」

「気持ちは痛いほど分かる。だが、まずは休ませてやることが先決だ」

父様は優しく、しかし強引に母様を僕から引き剥がし、その肩を抱いた。

僕の方を向いた父様と目が合う。普段は厳しい父様だが、その目尻はわずかに下がっていた。

「アルス。無事で何よりだ。お前を失うかと思ったぞ」

「父様……ご心配をおかけしました」

「うむ。今日はもうゆっくり休みなさい。セシル、後のことは頼んだぞ」

「畏まりました、旦那様」

父様はまだ泣きじゃくる母様を支えながら、部屋を出ていった。

嵐のような時間が過ぎ去り、部屋には僕とセシルだけが残された。

セシルが手際よく水差しから水を注ぎ、グラスを差し出してくる。冷たい水が乾いた喉に染み渡り、ようやく生き返った心地がした。

「……さて、セシル。少し話をしてもいいかな?」

「もちろんでございます。何なりと」

僕はベッドに背を預け、セシルに問いかけた。

記憶の統合は完了しているが、まだ現実感との乖離がある。口に出して確認することで、この世界の「アルス」としての自分を確立させたかった。

ここでの対話で、僕は自分の置かれた立場を再確認した。

僕の名はアルス・フォン・サーナス。

マリアナ王国でも五指に入る名門、サーナス侯爵家の嫡男。

父サノスは現役の法務大臣として王都でも辣腕を振るい、母ルナはその美貌で社交界の花と謳われている。ちなみに父様は母様を愛しすぎるあまり、側室を持つことが常識の貴族社会において、頑なに母様一人を貫いている愛妻家だ。

「我が家は使用人も多いね。屋敷の中だけでもこれほど賑やかだとは思わなかった」

「左様でございますな。ここサーナス領の屋敷には、私を含め四名の執事、十五名のメイド、五名の料理人、庭師と馬丁も各二名が常駐しております。敷地内の寮も手狭になってきたほどです。これに加え、王都の別邸にも十名ほどが詰めております」

大所帯だ。

前世の、孤独だった一軒家での生活とは雲泥の差がある。

これだけの人間を養い、領地を管理する責任。その重みがずしりと肩に乗るのを感じたが、不思議と嫌な気分ではなかった。

「セシル。今まで色々と教えてくれてありがとう」

「いえいえ。……おや?」

「どうしたの?」

セシルは目を細め、嬉しそうに口元を緩めた。

「いえ、アルス様のお話しぶりが、以前にも増して聡明になられたと感じまして。生死の境を彷徨われたことで、一回り成長なされたようですな。これからの勉強の指導が楽しみでございます。体調が戻り次第、明日からでも再開いたしましょう」

「お手柔らかに頼むよ」

セシルが一礼して部屋を下がると、僕は一人、大きな溜息をついた。

とりあえず、状況は把握した。

僕は間違いなく転生し、貴族の長男として十年を生きてきた。そして今、神様からもらったチート能力と前世の記憶が覚醒したのだ。

ふと、部屋の隅にある姿見が目に入った。

そういえば、今の自分の顔をまじまじと見たことがない。十歳までの記憶はあるが、あくまで主観的なものだ。

僕はベッドから降り、フラつく足で鏡の前へと歩み寄った。

そこに映っていたのは、見知らぬ少年だった。

いや、「見知らぬ」という言葉では片付けられない。

「……うわ」

思わず声が出た。

艶やかな黒髪はサラサラと流れ、肌は陶磁器のように白く滑らかだ。

瞳は宝石のアメジストのような深い紫色。鼻筋は通り、唇は薄く形の良い桜色をしている。

どこをどう切り取っても、欠点が見当たらない。

「めちゃくちゃ、整った顔やん……」

前世の自分が「中の下」だと自認していただけに、その落差に脳が追いつかない。

将来は父様に似て、さらに男前になることが約束されているような容姿だ。

これが、僕。アルス・フォン・サーナス。

「よし」

僕は鏡の中の美少年に向かって、小さくガッツポーズをした。

最高のスタート地点だ。

優しい両親、優秀な執事、恵まれた家柄、そしてこの容姿。

神様との約束通り、僕はこの世界を豊かにしてみせる。

だがその前に――。

「まずはこの領地の状況を、あのスキルで確認しないとな」

僕は鏡から視線を外し、窓の外に広がる領地の風景へと目を向けた。

神から授かった『創造』の加護。そこで作り出した『検索スキル』。

その力がどれほどのものか、試す時が来たのだ。


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