第三話:好きと嫌いの裏返し~ほんの些細なすれ違いでも一大事~2
放課後、莉乃は帰路に就こうと教室を後にしようとしていた。
「今週の日直、少し残って手伝ってくれ」
「え?」
そんなあまりにも唐突な呼び出しを担任から受け、莉乃は目を丸くさせた。
たとえ部活動や委員会に所属しておらず、だからといって塾に通うほど勤勉じゃない。放課後という時間を持て余しているかといえば、そういうわけではないのだ。
(うわ、今日は十七時から玉子と牛乳の特売なのに……)
五百瀬家の家事全般を受け持つ莉乃。掃除に洗濯、料理といったのは当たり前で、生活する上で最も必要とする食材の買い出しも含まれているのだ。食材以外の日用品といった物もあり、ひと家庭を支えている。
何より食材や日用品の買い出しには、一切の妥協をしない。
スーパーの特売日は見落とすことなく、日用品といった物はドラックストアで安くなる日を狙ってまとめ買いをしている。
そのせいもあって連日のように買い出しに行く日もあるが、今となっては日常の一部分。
一切の苦とも感じず、その日の特売品を諳んじることすらできるようになっていた。
視線を教室の丸時計へ向け、移動を含めたスーパーまで要する時間を逆算しながら担任の元へと向かう。
「ああ、今週は五百瀬さんだったか」
「えっと、それで手伝いって何でしょうか」
垢抜けた茶色い短髪の男性教師。ピシッとスーツを身にまとい、三十代と教師の中では若い部類に入り、一部の女生徒には人気がある。
ただ莉乃は、そんなに魅力を感じていない。
「すまない、今日締め切りだった春休みの課題を仕分けてほしいんだ」
「……はい?」
寝耳に水。
莉乃は惚けたような表情で立ち尽くし、教室後ろにある月間予定表へと視線を向ける。
「ちなみに五百瀬さんは……未提出みたいなんだけど」
「あ~はい。……明日、提出しまぁ~す」
「う、うん。聞かなかったことにするからチェック表には丸しておいて、明日にはコッソリとよろしく」
気の利いた担任からの計らいではあったが、その対価としてあまりにも酷な仕事量。一人でこなすには放課後をめいっぱい使うことになる。
そうなると、特売には間に合わない。
(杏莉は部活があるとして、未華は……)
チラホラと教室を立ち去っていくクラスメイト達の中から、杏莉が片手で謝る姿は目に留まった。
だが、未華の姿はない。
(逃げた!)
莉乃が呼び出されてから数分と経たず、未華は気配もなく姿を晦ましてみせた。
その事実に唖然と、裏切られたという気持ちに駆られる。
「じゃ、お願いしたよ」
「が、頑張ります」
教卓に積まれた春休みの課題を前に、莉乃は意気消沈するしかなかった。
「わりぃ、手伝いたいんだけど――」
「あ~おけおけ。これくらい余裕しょ」
「私も明日提出するから、その辺もヨロ」
「はぁ!?」
まさかの同士だった杏莉は、逃げ出すように部活へと駆けていく。
未華といい杏莉も、親友と思っていたのは莉乃だけだったのか。
「え~」
自分だけなら仕方ないと諦められたが、さすがに嘆かずにはいられなかった。
ただ、時間だけは過ぎていく。
しばらく手もつけられずに呆然としていると、気を遣って声をかけてくれるクラスメイトが数人いた。
それはなんとも嬉しかったが、貴重な時間を無駄にさせてしまう。
もし莉乃が逆の立場だったと考え、嬉しい申し出を気丈に振舞って断ってみせた。
「おぼえてろよ、杏莉と未華のヤツ……」
親友二人への恨み辛みを吐きだしながら、莉乃は黙々と手を動かし続けた。
それから時間が過ぎるのと比例して、仕分けする課題の山も減っていく。
「お、終わった……」
時計を見ると、既に特売の時間を迎えていた。
今から向かったところで間に合うか、疑問のところではある。
「ま、とりあえず職員室に持っていかないと……」
一人で運ぶには量があるため、何往復かしないといけない。それだけでも時間がかかり、終わって駅へと急いだところで、校則として一度帰宅して着替えないといけないのだ。
半ば淡い希望を抱きつつ、莉乃はトボトボと帰路へと就いた。
(あ~あ、せっかくの機会だったのに……)
あまり乗ることのない時間帯の電車内、学生に混じって増える社会人の姿。もう少し遅くなれば、大人の世界へと様変わりするのだろうか。
どこか近い将来でありつつも、まだ想像できない朧げな姿。
光の加減で窓に反射する自身の姿と向かい合っていると、車内アナウンスから下車する駅名が流れてきた。それから徐々に減速していき、空気の抜ける音に続いて扉が開く。そこから吐きだされるようにホームへと降り立ち、莉乃は改札を抜ける。
そこでふと、普段利用するスーパーの出入り口が目に留まった。
「……ダメだってわかってるんだけど」
周囲をチラチラと確認し、吸い寄せられるようにスーパーへと足が動く。
「寄り道はダメよ、莉乃」
「……げっ」
だが莉乃を引き留めるように手を掴まれ、聞き慣れた声に恐る恐る振り返る。
(しー姉さん。同じ電車だったんだ……)
まさかの紫乃がいることに、莉乃は目を丸くさせる。
「聞こえてるの、莉乃」
「う、うん。よ、寄り道なんて、す、するわけないじゃん」
「……そう」
訝しむような紫乃の視線に、莉乃はいたたまれずに視線を逸らす。
遅れて気づく、紫乃と手を繋いでいる現状。
(しー姉さんの指、ほっそ~)
改めて認識させられる紫乃の存在感に、莉乃のキャパシティは限界を迎えていく。
「ならいいわ。ほら、帰るわよ」
「えっ!?」
「……何よ。やっぱり寄り道するつもりだったのね」
険の色を濃くする紫乃に詰め寄られ、莉乃の頭はパニック状態。
(近い! 近い!! 近い!? そんな表情で迫られたら、悪い子でいたくなっちゃうじゃん!!!?)
スッと細められる目じりに、瞼の奥に潜む力強い瞳。
たとえ姉妹だからといって甘やかすことはせず、真剣に叱るような姿勢。
ぱっと見で姉妹と思われない莉乃と紫乃だが、今はどう周囲から認識されているのか。
それを確認しようにも、正面に紫乃の顔がある。
いつまでもそうしていたかったが、莉乃の心臓が持たない。
「しない! しません! 真っすぐ帰るから、離れて!!」
拒むように紫乃の肩を押すと、力が強すぎたのかよろめいてしまう。
どうにか転ばせるようなことはなかったが、紫乃は唇を浅く噛む。
「……そう。……ならいいわ」
紫乃は短く息を吐くようにして、莉乃に背中を向けて歩き去っていく。
(え、しー姉さん?)
これから同じ家に帰るというのに、今すぐにでも莉乃の元から離れていこうとする。
それが無性に心を締めつけ、遠ざかっていく紫乃の後ろ姿をただ眺めた。
それから帰路に就いた莉乃だったが、まったく記憶が無い。気づけば着替えを済ませた格好でスーパーにいて、売り切れてしまった特売棚の前にいた。
◇ ◇ ◇
昨日の放課後にあった出来事を語り終えた莉乃に、杏莉と未華は首を傾げる。
「……で、何があったんだ?」
「さぁ~」
何よりも、二人の抱いた疑問はそれだけに留まらない。
(そんなに玉子と牛乳が欲しかったのか?)
(そんなにぃ~玉子とぉ~牛乳が欲しかったんだぁ~)
一向に気分が晴れる様子のない莉乃だったが、無情にもHRの予鈴が鳴り響いた。