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ランディとのブランチを終えたころには、すでに昼に差し掛かっていた。ゆっくりしてくれというランディの言葉に甘えることにした。父親であるローレンスは三階の奥で療養しているので一階と二階なら出くわすこともないだろうと言う。
一階の奥には図書室があることを昨日オスカーからも聞いているので、ギャビーはそこに向かうことにした。
自室として貸し与えられている部屋を出て、階段を降りると広い一階ホールに出た。昨日オスカーと会った場所だ。
「クイン先生!」
そこで知った顔を見つけてギャビーは駆け寄った。
今しがた到着しましたという様子でそこに立っていたのは、長身痩躯の老齢男性だった。髪も髭も白い。簡素な身なりだが綺麗に整っており几帳面な性格がうかがい知れた。ずっしりとした革製のドクターズバッグを手にしている。ギャビーの姿を見つけると少々の驚きはあったものの彼はにっこりとほほ笑んだ。
「やあギャビー。まさかここで会うとは」
親しみを込めて抱き合ったあと、クイン医師……エイダン・クインは当然の疑問を発した。
「しばらく前からランディに招かれていて……気分を変えるためにもお伺いしようかとようやく思えたもので」
「そうか……君の中で何かが納得できたならそれは喜ばしいことだと思う。まだミアは見つかっていないんだろう」
エイダンは痛ましそうに言った。
「もともと君のことも気がかりだった。あれから体の調子で悪いところはないかい?」
エイダンはギャビーにとっては恩人である。町の医者だがその腕の確かさを買われてメリベル家とも深く親交があり、今は老いた公爵ローレンスの主治医でもある。
馬車ごと崖を転がって海に落ち、大破した馬車の破片で大怪我をしたギャビーを見つけたのはエイダンだった。たまたまその日、この屋敷に往診に来ていた。ギャビーとミアが落ちてからしばらくして嵐の勢いが弱まったので、ゆっくりと帰り、そしてちょうど崖がなだらかになって浜に至ったあたりで、打ち上げられていたギャビーを見つけた。
そのまま引っ張り上げて馬車で己の家に運んで治療をしてくれたのだった。
ギャビーも馬車の木片が腹部に刺さり、大出血をしていた上、体のあちこちの損傷があった。ほとんど息も止まりかけていたらしいが、彼の診療所にあった保存血でギャビーは助かったのだった。
ギャビーがその状況をエイダンから聞いた時、彼が暗に言いたいことが分かったような気がした。
シナバーだから君は助かった。
シナバーでないミアが生きている可能性は低いだろう。
エイダンは誠実で有能な医師としてそう考えている。
「わたしは大丈夫です。先生は今日、往診に?」
「ええ」
エイダンが顔を上げ、ギャビーはその視線を追った。ちょうど階段からオスカーが下りてくるところだった。
「先生、わざわざすみません」
「いや、心配だからね」
オスカーはギャビーを見た。
「そういえば、君を治療してくれたのはクイン先生だったな」
「はい。今も心配してくださって」
「まあ自分の患者だと思っているから、公爵も心配だが君のことだって当たり前だよ」
エイダンはその温和な性格が分かる目じりの皺を寄せて微笑んだ。
「じゃあ、これで」
「ギャビー、お相手もできずに申し訳ない」
「いいえ」
それほど切羽詰まった状況ではないのだろう。落ち着いた足取りで階段を上っていく二人を見送って、ギャビーは再び当初の予定通り図書室に向かった。
回廊の窓から見える海は穏やかでとても半年前と同じ海とは思えない。
ギャビーが図書室につくとそこには先客がいた。
オスカーの子供のロバートとリンダが棚を使ってかくれんぼをしていたのだった。
ギャビーの姿を見て、しまったという顔をしたのでまあ普通は父に禁じられていることなのだろう。
「こんにちは」
いたずらを指摘せず、ただにっこり笑って挨拶をすると、警戒心が溶けたのか二人はこちらに寄ってきた。
「お姉さん、本当にミアとお顔、そっくりね」
リンダが率直に訪ねてくる。ギャビーの内心ではひっかかる話題だが子供が言ったことのせいかそれほど嫌な気持ちはしない。
「双子だからね」
「本当に、目も、とても似ていますね」
ロバートが利発な口調で言う。屈みこんで二人と視線を合わせるとまだ幼いリンダが無遠慮にギャビーの顔に手を伸ばしてくる。
「リンダ」
ロバートが困ったように言うと何かを思い出したのか彼女は手を途中で止めた。その正体にギャビーは心当たりがあった。
「……あの、あなたはシナバーなんですか?」
ロバートがおずおずと尋ねてくる。
「ええ、そうよ」
たぶん……いや、間違いなく公爵ローレンスであろうが、ギャビーに触るな、関わるなと言われているのであろう。
それを修正する気はなかった。彼の祖父がそう言っているのなら、この屋敷内ではそれは正義なのだ。まだ子供である二人にギャビーの権利を説いても二人が混乱するだけだ。優しい心があるのなら、将来、シナバーとの対応を彼らが学び変わっていくだろうし、変わらなければ……それだけだ。
ただ、二人の父親であるオスカーはギャビーに友好的なので、もしかしたら変わるかもしれないと楽観的な希望はある。
「シナバーは人の血を飲むと聞きました。本当ですか?」
「ええ、でも今は国家から配給血が支給されているから、昔話みたいに誰かを襲ったりはしないわ。怖い?」
ロバートとリンダは顔を見合わせる。そして子供らしい素直さで首を横に振った。
「怖くない!」
「そう、よかった。ところであなた方はいつもここで二人きりなの?」
「友達はいます。たまにしか来ないけど……」
「町の子?」
「クイン先生の子供の子供!」
リンダがはきはきと答える。ギャビーはエイダンの家に厄介になっていた時に知った彼の孫のことを思い出す。無口で控えめだったからあまり親しく話をしたことはないが、祖父の仕事を手伝う心根の良い子だった。
「ああ、そうなの。アンソニーと友達なのね」
「先生がここに来るときは連れてきてくれるよ」
「さっき、入り口で会ったけど、今日は先生は一人だったわ」
ギャビーが言うとロバートが残念そうにうつむいた。
「アンソニーは体が弱いから……」
ロバートはエイダンの孫とはよほど仲が良いらしい。
「じゃあ今日は退屈なのね。良かったら本を読んであげましょうか?」
二人の年の差は四つ程か。そうなるとどんなものが良いのかしらと思っていると、ロバートが差し出したのは、美しい装丁の本だった。大アルビオン連合王国につたわる奇説異譚を取りまとめた本だ。
「……これは結構怖い本かもよ?夜眠れなくなったらわたしがあなた達のお父様に怒られちゃうわ。こっちにしましょう」
ギャビーが手にしたのは東洋亜熱帯の植民地での日常を取り扱った旅行記だった。たくさんのスケッチが載っていて子供も面白いかもしれない。
ギャビーが本を開くと二人はその両脇に座った。とてもこの国では見ることができない奇妙な動植物や現地人の風習などに二人も楽しんでいるようだった。大人向けなので難しい言葉も多くそれをかみ砕きながらなのでなかなか進まない。
しかしその場所はギャビーの好奇心を刺激した。いつだって真夏の国での生活は一体どんなものなのだろうか。ギャビーが大切にしている本は砂漠地帯だが、亜熱帯も大アルビオン連合王国とは全く違った気候で興味深い。
うっすらとギャビーはこの先の人生を予想している。一生この街から出ないで誰かと結婚して親の面倒を見るのだろうとわかっていた。
世の中にはシナバーでないのに、こんな遠くまで進んでいく人がいる。そしてシナバーでありただの人間より遥かに強靭な体をもっていても冒険することのない自分もいるのだ。
どうして運命というものは決まってしまうのだろうと少しだけ悲しい気持ちになった。
「ロバート、リンダ」
三十分ほど二人に読み聞かせをしていると、彼らを探す声が聞こえた。本から顔を上げると、入り口から入ってきたのは三十歳ほどの女性だった。