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ギャビーが案内されたのは、城の上階の部屋だった。円形のこの城の位置を表現するのはなかなか難しい。正玄関を十二時としてみた場合、海岸側はちょうど反対の四時から八時くらいの部分で見やすくなる。ギャビーの部屋は九時くらいの場所であった。
城は海岸に張り出した崖の上で多くの部屋から海が見られるようになっていた。建物は大きく分けて三階建てで、いくつかの塔が等間隔に並びその部分は五階建てにもなる高さがあった。
客間は二間となっており、居室と寝室とに分かれている。寝室を覗き込んだギャビーは天蓋付きの寝台の豪華さにそっと感嘆のため息を漏らした。
ランディはすぐにでもギャビーと深く話したがっていたが、ギャビーは馬車に疲れたといって今日は断った。それでもランディががっかりした様子がなかったのは隣にモルがいるからだろう。
公爵長子のオスカー。
その子供たちロバートとリンダ。
オスカーの弟で、ギャビーの妹の婚約者であったランディ。
彼の今の恋人モル。
家令のケネス。
それだけの人間に会っただけでもぐったりとしてしまう。案内した女中が立ち去ってからギャビーは水差しの水を飲んだ。ひやりとした温度が心地よい。
会えていないのは、公爵ローレンス。
後妻のイライザ。
そしてモルの父親のフィリップ・キンケイド。
彼は、オスカーが最後にそっと教えてくれた自分以外のこの屋敷の客だ。モルの父親もこの城に滞在しているらしい。そのうち紹介しようと言っていたが、実際ギャビーの心情として会いたいのかと考えればよくわからなかった。
ギャビーは夕闇が忍び込み始めた窓の外の風景を眺めた。海はもう空との明瞭な輪郭を見て取ることができない。オスカーとテラスで話をした時に結構な量の茶と菓子を出されたので空腹ではなかった。
女中が燈して行ったろうそくが揺れる姿を見ている。今日はこのまま休むことにしようと思った。ローレンスが体調を崩していることもあってか皆バラバラに食事をとることが多いから、今日夕食に参加しないことは気にしなくていいとオスカーは言った。
誰が誰と食べているのだろうと思う。
オスカーは子供達と夕餉を囲むのだろうか。なんとなくそうあって欲しいと思った。彼からは性根からの親切さを強く感じる。子供達を一番に愛するという根本的な何かを間違っていない人であって欲しいと思った。
こんなことを思うのは、自分が両親とうまくいっていないからだとしたら、思うこともオスカーにとっては迷惑かもしれないが、それでも祈るくらいはと思った。
両親の戸惑いを強く感じたのは、ギャビーが十歳の時の出来事だ。シナバーになって殆どすぐ。
ミアと口論をしたのだった。理由が何だったのかはもう思い出すこともできないような些細な理由だった。まだ十歳の少女達ならば喧嘩くらいする。もしギャビーが普通の人間だったらたわいもない出来事で記憶にも残らない。
喧嘩の時にギャビーはミアを突き飛ばしてしまったのだ。まだシナバーとしての力を理解していなかった。ミアは想像以上に激しく後ろに飛んでキャビネットにぶつかって床に倒れた。衝撃で落ちてきた大きな花瓶がミアの顔に当たったのだった。
しばらくの間、大きな痣になっていた右頬の周辺、そして真っ赤に内出血した右目。
視力は失われず一か月もすればきれいな顔は元通りになったが、右目の朱色の滲みだけは消えなかった。
自分とは違うその色を愛しているが、罪悪感を忘れないために愛しているのかもしれないとギャビーは思う。
そしてあの日からよそよそしさを増した両親も。
両親を可哀そうだと思うことがある。ほとんど完璧な家庭なのに一人のシナバーという不運で多くの苦悩を抱え込んでいる。
自分がいなければ。
『バカね、ギャビー!あなたがいなければなにも完璧じゃないわ!』
ギャビーの自己嫌悪を察するとすぐに飛んできた言葉は今はもうない。
ギャビーは早々に寝間着に着替えてしまった。夕方から出てきた雲のせいか、星の見えない夕べだった。
ギャビーはトランクから持参してきた本と配給血をだした。
幾重にも布でくるまれ破損を防いでいるガラス瓶に入っているのはまだ鮮血の色をした配給血だ。特殊な薬剤が投入されていて新鮮さを保つ。ギャビーの生まれたころにはもうあったがそれ以前にはない時代があって、罪人や篤志家から直接吸血していたという。それは確かに恐怖を感じる光景であろうし、シナバーへの嫌悪感もわかる。
ギャビーは水差しのグラスを取った。そこに配給血を注ぐ。薬剤のせいで味が落ちているという話だが十分美味しいものだ。
本とグラスを手に、寝室に置いてある書き物机に腰かける。机は、家具というよりは美術品のように滑らかな曲線を描いた脚を持っていた。家よりもよほど潤沢なろうそくの下で本を開く。
彼女はその文字をゆっくりと辿り始めた。
よく女性が読む恋愛小説とは違っていた。それは旅行記だった。軍属の男性が植民地で体験したことをつづった五年ほど前の出版物だ。
ギャビーがそれを手に入れたのは偶然だった。父の友人がその筆者だったのだ。自宅に訪れた彼が置いていったものだった。
南の大陸の植民地は灼熱の砂漠にどこまでも続く熱帯、人の影もない廃都の遺跡、そして大陸の最南端。ルヴァリス地方どころかこの町から出たこともないギャビーには想像もできないようなことが豊かな筆力で書かれていた。
ヴェスパー家でこの本を読んだものはギャビー以外誰もいなかった。ミアですら「そんな知らない場所の話なんて楽しい?」と不思議そうだった。
知らない場所だからこそ楽しいとギャビーが答えると、ミアは本当に分からないという顔をして話を変えてしまった。
この町で十分楽しく暮らしている者にはきっとわからないのだろう。そう気が付いたとき、ギャビーは目の前が暗くなった。ならば自分は「この町で楽しくない」と考えていることに思い至ってしまったからだ。
いろいろ困ったことはあっても、自分はこの町でちゃんと生きている。そう信じようとしていた自分自身の欺瞞に目が眩んだのだ。
この町から出ることもないだろうと思う。ここではないどこかで親の庇護から離れて暮らしていける自信などなかった。だからこの場所で幸せであると信じることはギャビーにとってはどうしたって必要なことだったのだ。
本当はこの本だって捨ててしまうべきだったのだろうが、それはできなかった。
『私はこの町で十分馴染んで生きているが、時々は知らない町に憧れる』。それがギャビー自身が自分に許した自由だった。
しばらく読書に没頭していたギャビーを現実に引き戻したのは雨の音だった。
夕方から集い始めた雲は人の目の届かない間に黒く厚くなり、やがて雨を降らせたのだった。雷鳴は聞こえず、雨音もそれほど大きくないが、それは空気を冷やし、肌寒い風を部屋に運んでいた。
ギャビーは立ち上がって窓を閉めようとした。
……声のようなものが聞こえた。
誰か、人の声のようなか細い、しかし男のものとも女のものともつかないような不思議な響きの声だった。途切れ途切れに音量も不安定に聞こえてくる。
どこから聞こえるのかわからず、窓に手をかけたままギャビーは顔を出した。そうして耳をすませば聞こえるのは雨の音だけだ。
空耳だったのかもしれない。
知らない場所だ。しかもこんな大きな建物であれば風が吹いても不可解な音を立てるだろう。
ギャビーはしばらく窓辺に佇み、もういちどその声を探したが、それは耳に届くことはなかった。
ギャビーは首を静かに振って幻想を振り払う。眠ろうと部屋を見たとき、何かが動いた。ぎょっとしてそちらを見てみれば。
「……なんだ、鏡」
カーテンの脇に大きな姿見があったのだ。そこに映っていたのはただ自分だった。
ミアに似て、多分整った容姿、でも美しいと人に思わせることはできない陰気な表情。ぼんやりとギャビーはそれを見ていた。
……いや、違う。
ギャビーは目を見開いた。そこに映っているのは自分。でも自分ではない。
右の瞳にはギャビーにはなかった部分虹彩異色があったのだ。一か所にだけ滲む朱色が。
ギャビーの手から、本が落ちた。鏡の中の人物からも本が落ちる。
ぎゅっと目を閉じて深呼吸をした。違う。あの鏡に映っているのは自分だ。ミアではない。違う。彼女は。
おそるおそる目を開けてみれば、そこで弱弱しく安堵した表情を浮かべているのは確かに自分だった。両方とも揃った瞳の色。
疲れただけだ。ちょっと見間違えた。
ギャビーは長いため息をついた。