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あの日辿り着くことが叶わなかったメリベル屋敷だが、今日になっては素晴らしい海の景観の向こうにあっさりと到着した。
ギャビーが転落した崖ほどではないが、海に張り出た崖の上に屋敷はある。遠目からは下の浜辺に向かう急勾配の階段が崖に沿って誂えてあるのが見えた。屋敷がさほど大きいものではないのは歴史が関係している。征服王率いるアーソニアと最後まで戦ったのは当時のルヴァリス王だ。ルヴァリスが敗北し大アルビオン連合王国が誕生した後、当然ルヴァリスには制裁があった。血族は国内で大貴族ルヴァリス公爵としてある程度の資産を維持しての存続が認められたが、当時のルヴァリス王は斬首、城は打ち壊された。
ある一定以上の大きさの城の建築が認められたのは百年ほど前のことである。
もはや国家としては落ち着き今更内乱を起こす理由はない。したがって巨大で堅牢な城を作る必要がなかったその時代のルヴァリス公は、小さいながらも美しい城づくりを目指したのだった。
この屋敷はルヴァリス家の夏の居城である。六つの塔が等間隔で並び、それを結んで美しい曲線を描く本館がある。上空から見れば円となっていた。そのため、人々はこの城を首飾り城と呼ぶようになっている。上空から見ることはかなわないが、紅大理石を基調とした外壁の美しさもあって、贅沢にはある程度目の肥えたギャビーも思わず息を飲んだ。
馬車から降りたギャビーを玄関で迎えたのはまだ若々しさの残るハンサムな青年だった。彼は家令のケネスであると名乗った。家令にしては若すぎると思ったがどの家にもいろいろな事情はあると思い、ギャビーはそれを問うのは控えた。
ケネスは細身で頭身が高く、ギャビーに屋敷を指し示し案内する長い四肢が優美だ。
ホールに通されて家人を待つ。見回してみればこの屋敷がどれほどに贅を尽くして作られたのかがすぐにわかった。
床は白と黒の碁盤になっているが両方ともこの地方では算出しない希少な御影石を使っている。繊細な彫刻の施された柱には金箔でアクセントが付けられていた。高い窓から垂れ下がるカーテンは最近布を取り換えたのだろう。ドレープが深く、ぱりっとして古びた感じはない。壁に掛けられた絵は百年ほど前の高名な画家のものだった。
資金が無くて城を立てられなかったのではなく、反逆の疑いをかけられることを恐れ国家の目につくような城を作ることができなかったのだ。だから屋敷と表現できる程度の広さしかないがその分の予算は潤沢に内部で使われていた。小ぶりだが一際貴重で眩い宝石で作られたネックレスを見たような気持ちになる。
奥に続く長い廊下を、開いている扉越しに見る。少しカーブを描いているので見通すことが難しい。ギャビーは姿勢を正して窓に目を向けた。そこからも見える海から目を離すことができない。
コツン、という固い足音が聞こえたのはその時だ。振り返ってみれば男性が一人立っていた。背後に立たれるまで気配すら感じなかったことに驚く。佇むその姿も、どこか静謐さを感じる。
長身で、整った衣装に似合う良く鍛えている体を持った端正な顔立ちの男性だった。少しだけ長く揃えた栗色の髪をきれいに後ろに流していた。年は三十歳を少し超えたくらいだろう。
「ギャビー・ヴェスパー嬢」
適度な自尊心と礼儀を感じ取れる低く良く通る声で、彼はギャビーの名を呼んだ。
「……オスカー・メリベル様?」
ほぼ確信をもってギャビーは問う。
ミアの婚約者だったランディは、彼の弟にあたる。現公爵のローレンスの長男だ。つまり次期公爵の予定の存在である。
「はじめまして」
互いの問いに答える形で歩み寄り、握手を交わす。温かな大きな手だった。
オスカーは感じの良い笑みを浮かべた。
「まだ気持ちの整理がついていないこともあろうに、ランディのわがままに答えてもらって申し訳ない。あいつは甘やかされていて」
ランディは二十歳そこそこだ。それを思えばずいぶん年が離れている兄弟だと思う。
現公爵ローレンスは四十年ほど前に名家の妻を娶った。その息子がオスカーである。しかし彼女は次子ランディを産んだ際産褥で亡くなった。その後ローレンスは長く独り身であったが、一昨年まるで孫のように若い女と再婚したのだった。
その娘イライザは伯爵家の出であり、容貌も優れていると噂で聞いていた。そんな娘であれば公爵であろうとも老人であるローレンスと結婚する必要などないと思うが、そのあたりの事情まではギャビーの耳には入らなかった。
ただ周囲が比較的歓迎したのは、イライザに子供ができても問題ないからである。公爵家の跡継ぎはオスカーで確定しているうえ、万が一オスカーに何かあっても。
「パパ!」
二種類の高く軽やかな声が響き渡った。廊下の向こうからかけてくるのは小さな二人だった。
オスカーの子供達だった。十歳くらいの男児と五歳くらいの女児、可愛らしい顔立ちの子供達は父親によく似た栗色の髪をしていた。
そう、オスカーはすでに結婚していて子供も設けているのだ。たとえオスカーに何かあったとしても息子のロバート、あるいは状況によっては娘のリンダを当主として据えることができる。
「ロバート、リンダ!廊下を走ってはいけないよ」
そう言いながらも優しい父親の表情で、彼はロバートには足に抱き着かれるにまかせ、リンダを腕に抱き上げた。
「おきゃくさん?」
「そう、ランディ叔父さんのね」
あどけない声の質問をしたのはリンダだ。にこにこしながらギャビーを見ていたが徐々にその目が見開かれた。
「……ミアにそっくり」
同じことを感じたのかロバートがぎょっとしたように呟いた。
「ミアの双子よ。ギャビー・ヴェスパー。よろしくね」
ギャビーは少し屈んでロバートに目を合わせるとにっこりとほほ笑んだ。ロバートは利発さがわかるはきはきとした口調で、自分の名前を名乗って挨拶する。まだ幼いリンダは照れてしまって父の首にしがみついてしまったがそれも愛らしい。
リンダを下ろしてオスカーは言った。
「ほら、アルマのところにいっておやつをもらっておいで。パパはお客様をランディに案内しないといけないから」
素直に二人は頷くと、また駆けだそうとした。
「走らない!」
父親に言われて、二人は肩をすくめた。それからしずしずと歩き出すが、扉を超えたところではまた走り出していた。
「まったく」
オスカーは苦笑する。
「やはり母親がいないと躾は難しい。義理母や家庭教師が付いていますが父親が甘やかしていては仕方ないからね。情けないかぎりです」
「でもご挨拶ができるきちんとしたお子さんですよ」
母親のことにはギャビーも触れなかった。
醜聞として町で大きな噂になったから当然知っているが、それはとても口に出すことができない内容だ。
オスカーの妻ステファニーは、駆け落ちしたと言われている。ある日突然、いくつかの荷物を持って消えてしまったのだ。
探さないでくださいという書置きと、彼女に与えられた公爵家の高価な装飾品の幾つかが消えたことから自ら失踪したのだということはわかった。しかし女性一人で家族を捨てて逃げるなど考えにくい。当然下世話な噂は彼女が間男と逃げ出したのだとしていた。
じゃあその相手が誰なのか。
それは幾人かの候補がいる以外、確定しなかった。最初は誘拐かもしれないと警察と共に捜索していた公爵家も、ある時突然全てから手を引いたので、もしかすると公爵家では誰がステファニーの相手だったのかわかったのかもしれないが、あとはもう彼らが口を開かなければ人々の知れる話ではなかった。
ともかく公爵家は次代公爵が確定しており、さらのその跡継ぎに必要な子供も二人手に入った。そこまでいけば嫁である母親に対しては執着もないのかもしれない。
ただ。
ギャビーはオスカーから目を逸らした。その先にあった壁の絵画に話をうつす。神話の風景を描いた一枚だった。
「素敵な絵ですね」
「ルヴァリスは歴史的に芸術家の保護に努めてきましたからね。今となっては貴重な絵画が多数あるのです。収集も行っています。今、植民地の砂漠地帯では遺跡の発掘にも投資しているんですよ」
妻の裏切りをオスカーがどう考えているのかはわからない。
彼はギャビーにも……シナバーであるギャビーに対してもおそろしく礼儀正しい態度だ。シナバーへの偏見がまかり通るルヴァリス地方には珍しいほど紳士的な対応と言える。それはシナバーに限らずすべての対象であるとすれば、途方もなく公平な対応ができているということになる。人徳、という言葉がギャビーの頭に浮かんだ。
人に裏切られても他人への尊敬を失わないということはなかなかできることではない。まだ警戒はすべて解けないが、ギャビーもオスカーには少しだけ気を許せるような気がした。
オスカーはギャビーの手を取って、屋敷内を進み始めた。